今は国民スポーツ大会…(2024年4月20日『毎日新聞』-「余録」)

特別国民体育大会(かごしま国体)の総合開会式で、入場行進する鹿児島県の選手たち=鹿児島市の県立鴨池陸上競技場で2023年10月7日午後3時48分、平川義之撮影 

特別国民体育大会(かごしま国体)の総合開会式で、入場行進する鹿児島県の選手たち=鹿児島市の県立鴨池陸上競技場で2023年10月7日午後3時48分、平川義之撮影

1947年、第2回の「石川国体」。国体旗の入場行進

 今は国民スポーツ大会(国スポ)と改称している国民体育大会(国体)の第2回大会は1947(昭和22)年、石川県で開かれた。前年の初大会は近畿各府県で行われたが、金沢市出身でオリンピック選手だった毎日新聞記者、大島鎌吉(けんきち)が「石川開催」誘致の調整役となった。戦後復興期の大会は成功し、各都道府県による持ち回り開催方式の端緒となる

▲その「国スポ」を巡る議論である。2034年で各都道府県の開催が2巡することを念頭に、村井嘉浩宮城県知事が「今の形式の廃止もひとつの考え方だ」と問題提起した。見直しに同調する意見が他の知事に広がる一方で、維持を求める声も聞かれる

▲大会は国と日本スポーツ協会、開催都道府県が共催し、数百億円規模の費用の多くは自治体が負担してきた。施設の整備・維持管理費に加え、運営費などの重荷にしびれをきらしての議論だろう

▲開催する都道府県が総合成績でかつては優勝し続けるなど、運営のいびつさもみえていた旧国体である。有力選手を開催自治体に移住させる囲い込みや、開催地を渡り歩く「渡り鳥」選手の存在が指摘されてきた

▲石川国体の誘致に協力した大島は後に64年、東京オリンピック日本選手団長を務める。アマチュア精神を重んじ、スポーツの生活への浸透を唱えた大島の考えにも「国体」は合致していたに違いない

▲見直し論の背景には財政負担のみならず、国民の関心低下があるのだろう。ふさわしい形を腰を据えて論じたい「国スポ」の未来だ。