1956年5月1日。68年前のきょう、「原因不明の疾患」として熊本県水俣市の水俣保健所に届けられ、水俣病公式確認のきっかけとなった小児性患者・田中実子さん(70)は、寝たきりでしゃべれず、ヘルパーが24時間態勢で命をつなぐ。長年支えてきた長姉は昨年、亡くなった。平均年齢が80歳を超えた認定患者に、支える家族らの高齢化という課題がのしかかる。(白石一弘) 【写真】ドキュメンタリー映画「水俣曼荼羅」の一場面。自宅で研究者と向き合う田中実子さん
寝たきりの義妹
水俣市内の見晴らしのいい高台に立つ県営住宅。4月下旬、明るい日差しが入る寝室で、義兄の下田良雄さん(76)は、電動ベッドで寝たきりとなった実子さんの髪をなでた。
重い症状がある実子さんは、しゃべることも、一人で食べることも出来ない。朝昼晩と6人のヘルパーが交代で介護。意思表示も難しく、うめき声のようなものから、尿意や便意を察知して介助している。以前は魚の刺し身が好物だったが、のみこむ力が弱まり、ミキサーでペースト状にして口に入れている。
9歳上の長姉で、良雄さんの妻、綾子さんは昨年12月、79歳で亡くなった。死去は伝えていない。良雄さんは「勘がいいから分かるでしょう。耳は聞こえるし、目も見える。私たちの会話を理解しているのかも」と語る。
2歳11か月で発症
実子さんは1953年、6人きょうだいの末っ子として生まれた。2歳11か月だった56年4月、三女の静子さんと同じ時期に発症。靴が自分で履けず、歩けなくなった。翌月、病院長が姉妹を含む4人の症状を保健所に報告したのが、後に公式確認の日となり、「原点の患者」とされてきた。
静子さんは3年後、8歳で亡くなった。実子さんはリハビリを経て、支えがあれば何とか歩けるようになり、退院。家族と静かな日々を過ごしてきたが、両親が87年に相次いで亡くなると、食事を取らなくなり、やせ細っていった。
そんな実子さんを長年支えてきたのが、下田さん夫婦だ。食事は2人からしか受け付けず、綾子さんは生前、「私たちが生きている間に実子が死んでくれたら」と、複雑な心境を漏らすこともあった。
6人で24時間態勢
綾子さんが病気で倒れたこともあり、支援者の協力で実子さんにヘルパーが付くようになった。やはり食事が問題となったが、ヘルパーたちは少しずつ関係を重ねてくれて、6人による24時間態勢の介護が整った。
それでも、加齢などに伴う実子さんの体調悪化は深刻だ。昨年6月には脳の血管が破れ、右手足にまひが残り、半身不随となった。ヘルパーの一人(71)は「起き上がるのは難しいでしょう」と話す。
良雄さんも体の衰えを感じている。2月に綾子さんの四十九日の法要を終えた後に大病を患って入院。20日間ほどで退院できたが、「もし自分まで死んだら」と脳裏をよぎったという。今は「一日でもいいから実子よりも長生きする」と、そっと笑顔を向けた。
認定患者は80・4歳
実子さんら水俣病の認定患者は、1973年に原因企業のチッソと締結した協定に基づく補償を受けている。医療費はチッソが全額負担するが、ヘルパー派遣のような福祉については、介護保険で患者側が一部を負担する必要がある。支援者側は改善を求めているが、チッソ側は「協定を順守している」との立場を崩さない。
熊本、鹿児島両県の認定患者は3月末現在、2284人(2055人が死去)で、生存する229人の平均年齢は80・4歳に達した。良雄さんは「多くの認定患者が老々介護の問題を抱えている。国や熊本県も課題の解決に向け、主体的に動いてほしい」と願う。
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