1枚の写真が、幾千幾万の言葉より雄弁に、事実を物語ることがある。熊本県水俣市のチッソ水俣工場の排水が原因で発生した水俣病を巡り、東京在住のフォトジャーナリスト桑原史成(しせい)さん(87)は60年以上、現地に通い撮影を続けている。水俣病が1956年に公式確認されてから5月で68年。写真から見える「水俣」を桑原さんと考えた。
「写真で、いったい何ができるとぉ」。桑原さんが60年に初めて水俣に行った時、取材を申し込んだ水俣市立病院の院長から最初に投げかけられた問いだ。その後60年を超す写真家人生で「100万回ぐらいシャッターを切った」という桑原さんは今、「写真とは記録」と考えている。
寝たきりで「生ける人形」と言われた少女の長いまつげをたたえた瞳、老患者のねじ曲がった五指、成人した胎児性患者の晴れ着姿…。1枚1枚が目に焼き付く。桑原さんの写真は水俣市立水俣病資料館や全国を巡回する水俣展などでも展示され、その写真を見て水俣病に関心を持つ人や水俣のイメージを膨らませる人も多い。
胎児性水俣病患者の上村智子さん。21歳で他界する前年、成人の日に着物を着て家族や親戚とともに記念写真に収まった=77年1月15日
公害の原点とも呼ばれる水俣病。チッソ水俣工場から海に流された排水に、毒性の強いメチル水銀が含まれ、汚染された魚介類を食べた住民らに手足のまひや感覚障害、視野狭窄(きょうさく)といった症状が相次いだ。56年に公式確認され、68年に国がチッソによる公害と認定した。母親の胎内で影響を受けた胎児性患者もいる。「生まれる前で、魚を食べてもいない子どもが、母親の体を通して病に冒された。親はそういう子どもを大事に、慈しんで育てる。そんな姿を見て、記録したいと思いました」
■辛苦の体験を直視
89年に岩波新書から出した「報道写真家」で、桑原さんは<人びとが強いられてきた辛苦の体験は、取材を開始したばかりの時点では、私をたじろがせるほどだった>と書いている。それでも「たじろいだら、この職業は成り立たんと思って直視しました」。水俣だけではない。例えばベトナム戦争下で顔全体に大やけどを負った少年の写真など、目を背けたくなるような写真もある。「でもね、お医者さんが、大けがをした人が運ばれて、たじろいでいたら困るでしょ。メスを持って淡々と処置する。同じように僕はシャッターを切る。心は情緒的に反応しても行動は冷静でないといけないんです」
1956年に水俣病が公式に確認されるきっかけとなった1人、田中実子さん。当時32歳。和服姿で波止場を歩く妹を姉が支えた=86年2月
桑原さんにとって、水俣は「フォトジャーナリストとしての原点」だ。「撮影する相手との友好関係を持つことで僕の取材は成り立っている」。信頼関係というほどではない、と桑原さんは謙遜(けんそん)するが、2010年には、これまで桑原さんが撮影した写真を手にした遺族や関係者30人以上の集合写真を撮った。深い信頼関係がないと決して撮れない1枚だ。
桑原さんは、作家の石牟礼道子さん、医師の原田正純さん、公害研究者の宇井純さんと並んで、水俣問題の「四銃士」の一人と称される。他の3人は既に鬼籍に入った。胎児性患者も既に60代となり患者の高齢化が進んでいる。それでも「記録は後世に残る」。
■重荷、傷跡 とどめて
北海道新聞の読者に一言、とお願いすると、「若い人にとっては生まれる前の、しかも北海道からは遠く離れた水俣の出来事です。でも日本人の背負った重荷というか、傷跡が、あったことだけは、どこか記憶の片隅にとどめてほしいと思います」と話した。
今月22日、水俣病の典型的症状を訴える144人が国と熊本県、チッソに損害賠償を求めた訴訟の判決で、熊本地裁は請求を棄却した。原告128人全員を水俣病と認めて国などに賠償を命じた昨年9月の大阪地裁判決と判断が分かれた。公式確認から68年たっても水俣病事件は終わらない。
インタビューの最後に64年前の病院長の問いを改めて投げかけてみた。写真に何ができますか―。「見る人の魂までをも揺さぶることがあるのではないでしょうか。断言はできないけれど、見る人がハッとするというか、残るというか、そういう力があるだろうと思います」(編集委員 関口裕士)