新潟水俣病判決 「二重基準」の解消を(2024年4月20日『山陰中央新報』-「論説」)

新潟水俣病訴訟の判決後、新潟地裁前で「国の責任を認めず」などと書かれた垂れ幕を掲げる弁護士ら=18日


 水俣病の被害を訴える新潟市などの149人が国と原因企業の旧昭和電工(現レゾナック・ホールディングス)に損害賠償を求めた訴訟で、先行して結審した47人について判決があり、新潟地裁は26人を水俣病と認定し、旧昭和電工に賠償を命じた。国への請求は退けた。2013年に最初の22人が提訴。昨年まで追加提訴が重ねられた。

 大阪、熊本、東京の各地裁にも起こされ、4訴訟で計1700人余りが原告に名を連ねる「ノーモア・ミナマタ第2次訴訟」で大阪、熊本に次ぐ判決となった。原告128人全員を水俣病と認め、国と原因企業のチッソに賠償を命じた昨年9月の大阪地裁判決に続いて、救済の幅を広げた。

 水俣病の認定・補償を受けるのは容易ではない。国は厳格な基準を定め、それに従って自治体が行う審査で未認定となる人が続出。「厳し過ぎる」と批判がやまない。司法は緩やかな基準を示して幅広い救済を促してきた。それでも国は現行基準に固執。被害を訴える未認定の人に一時金を支給する枠組みもつくったが、さまざまな条件を付け対象を絞り込んだ。

 被害切り捨てが繰り返される中、新潟など4訴訟の原告らが取り残され、司法を頼った。しかし裁判は延々と続き、国との争いに終わりは見えない。行政と司法の「二重基準」を解消しない限り、訴訟は絶えないだろう。国は速やかに基準見直しに取り組むべきだ。

 新潟水俣病は1965年、公式確認された。旧昭和電工工場が阿賀野川に放出した排水に含まれるメチル水銀に汚染された魚介類を食べることで感覚障害や視野狭窄(きょうさく)、運動失調といった症状が出た。71年に国は熊本で56年に公式確認された水俣病と「第二の水俣病」の認定基準を統一した。

 ただ「感覚障害など複数の症状の組み合わせ」という基準の下で未認定が相次いだ。このため95年に「政治決着」を図り、未認定でも一定の症状があれば一時金を支給した。そうした中で2004年に最高裁判決は、感覚障害だけでも水俣病と認める判断を示した。

 その後も、国は基準を維持。09年には「最終解決」をうたう水俣病特別措置法が施行され、再び一時金を支給したものの、過去の居住歴や出生時期で線引きされ、多くの人が対象外となった。13年には最高裁判決が初めて、感覚障害だけの人を水俣病と認定。それでも国は基準を変えず、最高裁まで争って罹患(りかん)を認められても、未認定に対する国への不服審査請求を棄却された例もあり、混乱が起きている。

 国は救済の間口を狭めることしか頭にないとみられても仕方ない。そもそも被害実態を把握するのに必要な熊本や新潟などの住民健康調査さえ十分に実施していない。

 3月の熊本地裁判決は144人の請求をいずれも棄却した。不法行為から20年で賠償請求権が消滅する「除斥期間」が提訴までに経過したと判断したためだが、25人については罹患を認めた。今回の判決は、請求を認めた26人も除斥期間が経過していたとしながらも「正義・公平の理念を踏まえ、除斥期間の適用を制限する」と述べている。

 半世紀以上にわたり、差別や偏見にさらされながら水俣病に苦しめられてきた人たちへの救済はどうあるべきか、国はいま一度、考えてみる必要がある。