「また国に負けた」 全員救済ならず、悔し涙 新潟水俣病訴訟(2024年4月19日『毎日新聞』)

キャプチャ
「ノーモア・ミナマタ」2次新潟訴訟の判決で、「国の責任を認めず」などと書かれた紙を掲げる原告団新潟市中央区で2024年4月18日、猪飼健史撮影
 
 今回の訴訟でも、国の責任は認められなかった。水俣病被害者救済特別措置法(特措法)に基づく救済を受けられなかった新潟水俣病の未認定患者らが国と原因企業の旧昭和電工(現レゾナック・ホールディングス)に損害賠償を求めた新潟水俣病5次訴訟。新潟地裁は18日、26人を水俣病と認め旧昭電に賠償を命じる一方、原告たちが長年問うてきた国に対する請求は棄却した。【神崎修一、木下訓明】
 
 原告149人のうち先行して結審した47人に対する判決。今回の訴訟は、阿賀野川流域の住民らが2013年に集団提訴し、その後も原告が追加されていた。新潟地裁は原告26人について「水俣病に罹患(りかん)している高度の蓋然(がいぜん)性がある」と認め、各400万円(総額1億400万円)の賠償を同社に命じた。原告2人については、公害健康被害補償法に基づく水俣病患者と認められているとして水俣病だと判断せず、残り19人は水俣病と認定しなかった。
 
 
キャプチャ2
「ノーモア・ミナマタ」2次新潟訴訟の判決を受けた報告会で思いを話す原告団長の皆川栄一さん(中央)=新潟市中央区で2024年4月18日、猪飼健史撮影
 
 原告の半数以上が水俣病と認定されたものの、国の責任は認められなかった。新潟地裁の判決を受け、原告団弁護団新潟市内で記者会見し、原告団長の皆川栄一さん(80)=阿賀町=は「今日の判決を迎えるまで10年という長い年月がかかった。私たちは全員救済を最初から訴えてきたが、45人中19人は残念ながら認められなかった」と落胆を隠さなかった。
 
 さらに「私たちは最初から国の責任を求めてきた。今まで何回も裁判で戦った。また今回も国に負けたのかと思うと本当に悔し涙が出る。今後のことは弁護団と相談する」とやるせない気持ちを訴えた。
 
 原告団は高齢化が進む。遺族を除く41人の8割が70代以上だ。原告の加藤シズ子さん(83)=同=は「ずっとつらい思いをして裁判に出ることも悩んだ。自分がどう認定されたか今は分からないが、(提訴から)10年で区切りがつき、少しほっとしている。もう裁判所に通わなくてもいいのだという思いがある」と振り絞るような声で答えた。
 
 弁護団にとっても納得できる判決ではなかった。弁護団味岡申宰(しんさい)弁護士は会見で「新潟は国の責任は認められなかったが、国による患者切り捨ては断罪された。(大阪と熊本を含めた)三つの判決を国の政策を転換させる力にしたい」と述べた。
 
新潟水俣病を巡る動き
 
1936年  3月 昭和合成化学工業(後の昭和電工)が水銀などを媒介にしたアセトアルデヒドの生産を開始
 
 
  65年  1月 昭電がアセトアルデヒドの生産を停止
 
       5月 新潟水俣病の公式確認
 
  67年  6月 被害者13人が昭電を提訴(新潟水俣病1次訴訟)
 
  68年  9月 政府が水俣病を公害認定
 
  70年  2月 新潟県新潟市による患者認定審査が始まる
 
  71年  9月 新潟水俣病1次訴訟で原告勝訴(確定)
 
  73年  6月 患者団体が昭電との間で補償協定結ぶ
 
  77年  7月 国が患者認定基準を厳格化。複数の症状の組み合わせを求める
 
  78年  4月 新潟県阿賀野川の大型魚の食用規制を全面解除
 
  82年  6月 未認定患者ら94人が国・昭電を提訴(新潟水俣病2次訴訟)
 
  92年  3月 新潟水俣病2次訴訟判決で国の責任は認められず、原告と昭電が控訴
 
  95年 12月 未認定患者に一時金260万円を支払うなどの案を村山内閣が閣議決定
 
  96年  2月 新潟水俣病2次訴訟が昭電との間で和解。国への訴えは取り下げ
 
2004年 10月 水俣病関西訴訟で最高裁が国と熊本県の責任を認定。国の認定基準を事実上否定
 
  07年  4月 未認定患者ら12人が国・新潟県・昭電を提訴(新潟水俣病3次訴訟)
 
  09年  6月 未認定患者ら27人が国・昭電を提訴(ノーモア・ミナマタ1次訴訟、新潟水俣病4次訴訟)

 ===================

新潟水俣病判決 恒久的な救済一刻も早く(2024年4月19日『新潟日報』-「社説」)

 

 被害者全員の救済への扉は開かなかった。高齢で体に痛みを抱えながら長年闘ってきた原告らの気持ちを思うと切ない。

 一方、原告の半数以上が水俣病の罹患(りかん)を認められたことで、国の認定制度の不備が明らかになった。場当たり的な対応ではなく、すべての患者を恒久的に救済できる制度の構築を求めたい。

 水俣病被害を訴える新潟市などの男女が、国と原因企業の昭和電工(現レゾナック・ホールディングス)に1人当たり880万円の損害賠償などを求めた新潟水俣病第5次訴訟で、新潟地裁は18日、患者認定を既に受けている2人を除く原告45人中26人を水俣病に罹患していると認め、昭電側にそれぞれ400万円の賠償を命じた。

 残る原告については、個別の病状や発症時期などから、水俣病の罹患を認めなかった。

 とはいえ、水俣病を巡る同種の訴訟で昨年以降示された大阪と熊本、新潟の地裁判決が、国の認定基準を否定したことは明白だ。

 大阪地裁は、国が水俣病とは認定していない原告全員を水俣病だと認めた。熊本地裁は、損害賠償請求権が消滅する20年の除斥期間が過ぎたとして請求は棄却したが、一部原告を認定したからだ。

 除斥期間の適用を認めなかったことも評価したい。

 原告らが差別・偏見を恐れて提訴が困難だった事情などから「正義・公平の理念を踏まえ、適用を制限する」と指摘し「賠償請求権が消滅したということはできない」とした。被害者の境遇に寄り添った判断だ。

 しかし、大きな争点である国の責任については認めなかった。「有機水銀の排出や周辺住民に健康被害が生じると具体的に予見できたとは言えない」として、国への賠償請求を棄却した。

 原告側は公判で、「九州の水俣病確認後に国が対策を取っていれば新潟での発生は防げた」と主張していた。

 新潟水俣病の判決で国の責任を認めたことはなかった。原告団長の皆川栄一さんは「国の責任を求めてきた。今回も負けたと思うと悔し涙が出る」と述べた。

 原告側が水俣病の根拠とした地元民間医師による共通診断書については、信用性を否定した。

 判決では、共通診断書に依拠して水俣病に罹患しているかどうかを判断するのは困難とした上で「公的検診の結果に依拠すべき」と指摘した。

 水俣病だと認定する範囲が狭まり、原告側に厳しい立証責任が生じたとも考えられる。

 原告は、水俣病と同じ症状でも国の基準で水俣病と認められなかったり、2009年に施行された水俣病特別措置法(特措法)に基づく救済を受けられなかったりした人で、13年12月に提訴した。

 18日は原告149人のうち、審理を終えた47人の判決だった。判決まで10年余の時間を要したことは歯がゆい限りだ。原告の平均年齢は75歳になり、裁判中に31人が亡くなった。

 九州の水俣病公式確認から70年近く、新潟は約60年になるのに、全国で現在1700人超が裁判を起こしていることを、国は重く受け止めるべきだ。

 「あたう(可能な)限りの救済」をうたった特措法は、居住歴や出生地などを制約した上、申請期間を約2年とした。こうした小手先の対応が、解決を長引かせているとの指摘もある。

 被害者は高齢化している。一刻も早く救済の道を広げるよう国は動かねばならない。

 

新潟水俣病判決 全面救済はおぼつかない(2024年4月19日『熊本日日新聞』-「社説」)

 このままでは被害者の全面救済はおぼつかないことを改めて浮き彫りにした判決だ。

 新潟水俣病の被害を訴えている人たちが国と原因企業の昭和電工(現レゾナック・ホールディングス)に損害賠償を求めている裁判で18日、新潟地裁は原告の大半を水俣病に罹患[りかん]していると認めた。

 熊本と新潟の両水俣病事件を対象に、未認定被害者の救済を図った特別措置法の施行(2009年)後に起きた集団訴訟で、3件目の判決である。昨年9月の大阪地裁は原告全面勝訴、今年3月の熊本地裁は原告全員の請求を退け、判断が分かれていた。

 新潟地裁は今回審理対象となった原告47人の大半について水俣病の可能性が高いと判断。企業に賠償を命じた。発症から提訴までに20年の除斥期間が経過しているとしたが、正義公平の理念から適用を制限するとした。ただ、国への賠償請求は認めなかった。

 先の大阪地裁判決は原告128人全員を水俣病に罹患していると判断した。除斥期間を適用し原告敗訴とした熊本地裁判決も、原告のうち25人の被害を認めていた。新潟でも罹患者が認められたことで、特措法での救済に漏れがあることが重ねて明白になった。

 一連の集団訴訟では東京地裁でも今後判決が予想される。既に判決済みの人も含め、4訴訟の原告数は1700人余りになっている。これら集団訴訟とは別に、行政に患者認定を求める裁判も各地で進行中だ。上級審の審理や行政不服審査請求も含め、紛争がこれからも続くのは間違いない。

 水俣病認定はその狭さが指摘され、膨大な数の未認定被害者を生み出してきた。1995年の政府解決策と2009年施行の特措法は、いずれも認定制度と別立てで、被害者の救済を図ろうとした。「救済」と「紛争終結」をうたった特措法は、水俣病問題の「最終解決」を図るとしたが、現状はほど遠いと言わざるを得ない。

 国は特措法による救済の申請受け付けを2年3カ月で閉じた。新潟訴訟の原告には当時体調が悪くても自分が水俣病とは思わなかったり、差別を恐れて名乗り出なかったりした人たちが多いという。

 こうした救済漏れが後を絶たないのは、被害者が自主的に申し出なければ救済しないというやり方がとられてきたためだ。被害を見つけてあまねく救済するには本来、行政が積極的に住民の健康調査をするべきだった。

 特措法は「積極的かつ速やか」に健康調査などを実施して結果を公表するよう定めたが、国は法施行から15年近くたっても履行していない。被害者は高齢化し、時間は限られている。もはや不作為と言うほかはない。これでは紛争再燃の歴史を繰り返すだけだろう。

 熊本県の木村敬知事は先の就任記者会見で、健康調査を「法律に沿って早くやっていただくよう訴えていく」と述べた。問われるのは実行力だ。救済策から漏れている人たちをどう救っていくかもなお考えなければならない。