東日本大震災と福島第一原発事故から13年 追悼の一日(2024年3月11日『NHKニュース』)

 東日本大震災

《各地で祈り》

14:46 石川 輪島でも黙とう

ことし1月の能登半島地震で大きな被害を受けた石川県輪島市でも市役所の職員らが黙とうして犠牲者を悼みました。

輪島市役所では11日、庁舎の掲揚台に半旗が掲げられました。そして、「犠牲となられたすべてのかたがたに心からご冥福をお祈りします」などとアナウンスが流れ、東北沖で巨大地震が起きたのと同じ午後2時46分にあわせて職員らが黙とうをささげ、犠牲者を悼んでいました。

14:46 東京 銀座の時計塔で鎮魂の鐘

東京 銀座では発生時刻の午後2時46分に合わせて鎮魂の鐘が鳴り、多くの人が黙とうして震災の犠牲者に祈りをささげました。

震災の風化を防ごうと大手時計メーカーは毎年、東京の銀座4丁目の交差点にある時計塔で、震災の発生時刻に合わせて鎮魂の鐘を鳴らしています。11日午後2時46分には1分間にわたって鐘が鳴らされ、街を行き交う多くの人が足を止めて黙とうし、震災の犠牲者に祈りをささげました。

14:46 岸田総理大臣「教訓生かし 災害に強い国づくり進める」

岸田総理大臣は福島県での追悼式で、地震発生時刻の午後2時46分に黙とうをささげました。このあと追悼のことばで「巨大地震と大津波福島第一原発の事故は、多くの県民から日々の暮らしを奪った。最愛の家族や親族、友人を失われた方々の気持ちを思うと、今なお哀惜の念に堪えない」と述べました。

そして「原子力災害からの復興には中長期的な対応が必要で、引き続き国が前面に立って安全かつ着実な廃炉とともに、帰還に向けた生活環境の整備や産業・なりわいの再生支援に取り組む」と述べました。

その上で「能登半島地震では福島からも東日本大震災の経験、知見を踏まえた温かく、心強い支援をいただいている。大きな犠牲の上に得られた教訓を風化させることなく自然災害への対応に生かし、災害に強い国づくりを進めていくことを改めて固く誓う」と述べました。

11:00 宮城 山元町 震災遺構の中浜小学校

津波で被災し、震災遺構として整備された宮城県山元町の中浜小学校は11日、訪れた人たちが誰でも入れるように無料で開放されていて、語り部による当時の記憶も聞くことができます。

山元町の中浜小学校は、高さ10メートルを超える津波に襲われ、2階建ての校舎の天井近くまで浸水しましたが、児童や住民など90人は屋上にある屋根裏の倉庫に避難して全員が助かりました。

校舎の屋根裏の倉庫では、語り部が震災直後に児童や地域の住民が避難した際の緊迫した状況を説明し、訪れた人たちは真剣な表情で聞いていました。

春から小学校の教員として働く神奈川県の20代の男性は「13年前は小学生で津波の被害を詳しく知らなかったので、今後、起こりうる災害のために子どもに経験を伝えていきたいです」と話していました。

10:00 岩手 陸前高田 行方不明者を捜索

岩手県陸前高田市の海岸では、いまも行方が分かっていない人の捜索が行われました。201人の行方が分かっていない陸前高田市では、午前10時から警察官20人が脇之沢漁港近くの砂浜や海上で捜索を行いました。

先月、大船渡警察署に配属された、盛岡市出身の藤村琉月 巡査(19)は「震災が起きたときは保育園児でしたが、テレビで警察の人たちが懸命に活動しているのを見て警察官になりました。震災から13年がたち、厳しい捜索になるとは思いますが、1つでも多く手がかりを見つけて家族のもとへ返したいです」と話していました。

09:30 宮城 亘理町 高齢化進む災害公営住宅でラジオ体操

200人以上が犠牲になった宮城県亘理町では、高齢化が進む災害公営住宅に入居する住民たちや地域のお年寄りが集まって、11日も7年前から毎日続けてきた朝のラジオ体操で交流しました。

入居する住民や近くに住むお年寄りなどあわせて13人が笑顔を見せながら元気に体を動かていました。この災害公営住宅では被災して入居している住民たちの高齢化が進むなか、新型コロナの影響もあって交流の場への参加が難しい人が出てきているということです。

震災で被災し災害公営住宅に入居する渡辺紀美子さん(79)は「みなさんとお話するのが楽しみでラジオ体操に参加することが生きがいになっています。高齢なのでいつどうなるかわかりませんが、できる限り継続してやっていきたいです」と話していました。

09:00 処理水の放出反対も復興へ新たな決意

東京電力福島第一原子力発電所で処理水の放出が始まってから初めての3月11日となり、福島県相馬市の漁業者は一日も早い廃炉の前進を願うとともに、低迷した漁業の復興に向けた決意を新たにしていました。

相馬市の漁業者で相馬双葉漁協の青壮年部長を務める石橋正裕さん(44)は、一貫して放出に反対の姿勢を示してきました。これまで放出では目立ったトラブルはありませんが、汚染水を処理する過程では、浄化装置から放射性物質を含む水が漏れるなどのトラブルが起きていて、石橋さんは東京電力の作業管理のあり方に厳しい目を向けています。

石橋さんは「理解の醸成がなされないまま放出が始まったことには今も納得できませんが、事故の収束のためにやむを得ないとも思っています。漁業復興のためにも廃炉が一日でも早く進むことを願っていますが、トラブルが続くと復興が加速していないと感じます」と複雑な思いを語りました。

08:40 岩手 陸前高田 追悼施設に遺族

岩手県陸前高田市の「東日本大震災追悼施設」には、震災で家族を亡くした人たちが相次いで訪れています。

市内に住む佐藤利一さん(80)と君子さん(77)の娘のミホさん(当時37)は、当時、市役所の職員として避難所の対応にあたっていたということですが、13年たったいまも行方が分かっていません。

佐藤さん夫婦は11日朝、追悼施設を訪れて、ミホさんの名前が刻まれた「刻銘碑」の前にサクラの枝を供え、ミホさんの一人息子が大学に合格したことを報告しました。

佐藤利一さんは「娘はいまだに見つかりませんが、見守ってもらいたいです」と話していました。

08:30 宮城 気仙沼 震災経験の教員が命守る大切さ訴え

宮城県気仙沼市の小学校では、当時、小学生で、震災を経験した教員が、子どもたちに命を守る大切さを訴えました。

津波で大きな被害を受けた気仙沼市大谷地区にある小学校では、毎年3月に震災を語り継ぐ集会を開き、子どもたちに震災の記憶と教訓を伝えています。

3年前から教員としてこの学校で働く三浦美咲さん(25)は、小学6年生で震災を経験し、みずからは津波を逃れましたがいつも優しく見守ってくれていた祖父の敏勝さんを亡くしました。

祖父のような犠牲を二度と繰り返さないために、命を守る大切さを伝えようと教員になった三浦さんは11日、初めて全校児童およそ120人の前で震災の記憶を話しました。

三浦さんは、津波で流されてしまった家や大切な服などは新しく手に入れられても、大好きな祖父の命だけはかけがえがないとした上で、「自分の命は自分で守ってください。周りにその意識が広がることで未来の誰かの命を守ることにつながっていきます」と訴えました。

児童たちは全員、震災後に生まれた世代ですが、三浦さんの話に真剣な表情で耳を傾け、時折、うなずいていました。

6年生の女子児童は、「災害のことを家族で話したことはそれほどありませんでしたが、命をどう守るか家族と話していきたい」と話していました。

三浦さんは「震災のあとに、自分の命の大切さを伝えられる教員になりたいと思ってここまでやってきたのできょう、子どもたちに伝えられてよかったです。『命の大切さ』を伝え続けられる教員になりたいです」と話していました。

08:20 岩手 釜石 「芳名板」設置施設で献花

岩手県釜石市鵜住居地区にある震災の追悼施設「釜石祈りのパーク」には、市内の犠牲者のうち遺族が公開を了承した1003人の名前が記された「芳名板」が設置されています。

施設には11日朝8時ごろから献花に訪れたり、手を静かに合わせたりする人の姿が見られました。

震災で兄を亡くしたという、釜石市出身で現在は埼玉県で暮らす70代の女性は「兄は視力が低下していたので、津波から逃げ遅れてしまったのではないかと考えています。震災から13年、長いようであっという間だったようにも感じます。兄には『家族みんな元気に過ごしているので、見守っていてね』と伝えました」と話していました。

08:00 宮城 女川町 復興願い「黄色いハンカチ」

東日本大震災で800人以上が犠牲になった宮城県女川町では、復興への願いなどが書かれた黄色いハンカチおよそ1000枚が駅前の広場に掲げられました。震災の風化を防ごうと女川町の有志は、映画「幸福の黄色いハンカチ」にちなんで6年前からこの取り組みを行っています。

ことしは能登半島地震の被災地への思いを書いてもらう大きなハンカチも用意され「必ず明るい未来が来ます」などのことばが見られました。

発起人の加納純一郎さん(73)は「女川もがんばっているので能登の皆さんもがんばってほしいという思いを込めました。いつかは町全体を黄色いハンカチでいっぱいにしたいです」と話していました。

08:00 福島 浪江町 避難先から戻った男性

東京電力福島第一原子力発電所の事故による避難指示が去年(R5)解除された福島県浪江町の室原地区では、避難先から戻った男性が地元で初めての3月11日を過ごしています。

町の内陸部に位置する室原地区に住む金澤政喜さん(75)は、原発事故のあと家族とともに福島県白河市に避難しました。その後、生まれ育った地区に必ず戻ると決心し、自宅を取り壊して同じ場所に家を建て直して去年10月に戻りました。戻ることを待ち望んでいた母親のイチさん(98)さんは、戻った時に大いに喜んでいたということですが、そのおよそ1か月後に亡くなりました。

金澤さんは「母を生前に連れて戻ることができたのが、せめてもの親孝行だったと思うようにしています」と話していました。また「まだ帰れない人もいるから私だけがもろ手を挙げては喜べない。でも、生まれ育った地区に戻ってきたのだから、前を向いて頑張っていくしかない」と話していました。

08:00 宮城 南三陸町 家業を継ぎ漁師に 

宮城県南三陸町の漁師の小野具大さん(45)は、震災の津波で母の美和子さん(当時60歳)と兄の雄大さん(当時35歳)を亡くしました。小野さんは震災から13年となった11日もいつも通り朝から海に出てワカメの水揚げを行い、船着き場でめかぶを切り落とす作業を行っていました。

当時、小野さんは宮城県塩釜市内で飲料メーカーに勤めていましたが、家業の漁業を継いだ兄が亡くなったことから自分が引き継ぐことを決意し、震災の7か月後に南三陸町に戻ってきました。

震災直後は海を見ることさえつらかったと言いますが、父親や周りの漁師仲間に漁を教えてもらううちに漁業の楽しさを感じるようになったということです。

小野さんは「最初は家族を奪った海が好きではありませんでしたが、漁師をしているうちに海から受ける恵みを知り、いまは自然の大切さを感じています。ただ、13年たっても亡くなった人たちへの思いは変わりません。母と兄にはこっちのことは気にせず天国で安らかに過ごしていてほしい」と話していました。

07:00ごろ 「帰還困難区域」は

東京電力福島第一原子力発電所の事故の影響で、「帰還困難区域」がいまもなお7つの市町村に残されています。この区域に一部が含まれている福島県大熊町夫沢地区では、原発事故の発生から13年となる11日も区域内の道路や住宅の前にバリケードが設置され、立ち入りが厳しく制限されています。

06:30 岩手 宮古 能登半島地震の被災者気遣う声も

津波が押し寄せ、181人が犠牲になった岩手県宮古市の田老地区では、亡くなった人たちを悼むとともに能登半島地震で被災した人たちを気遣う声が聞かれました。

宮古市の田老地区では13年前、国内最大級と言われた防潮堤を乗り越えて津波が押し寄せ、震災後に新たな防潮堤が整備されました。

地区全体を見渡すことができる高台の「三王眺望公園」には、朝早くから地元の人たちが集まり、まちを見渡しながら手を合わせるなどしていました。

自宅が全壊したという加藤敏男さん(75)は海に向かって手を合わせ「いまでも亡くなった人たちのことを思い出すことがあります。亡くなった人たちが思い残したことを引き継いで、災害のない住みやすい田老をつくっていこうと思います」と話していました。

津波で自宅が流された大棒レオ子さん(76)は当時について「避難している途中に後ろを振り返ると海が上がってくるように津波が迫っていて本当に怖かったです。自宅が流されていくのは見ていられませんでした」と振り返りました。

そして「ニュースで能登半島地震の被災地を見ると、胸が詰まる思いです。早く仮設住宅ができてほしいです」と、涙ぐみながら被災した人たちを気遣っていました。

06:10 宮城 石巻 弟の後を継ぎギンザケ漁師に

宮城県石巻市雄勝町海上には津波で亡くなった弟の後を継いでギンザケ漁師となった男性の姿がありました。

石巻市雄勝町でギンザケの養殖を営む阿部優一郎(53)さんです。

11日も6時すぎから海上にある養殖のいけすで勢いよく飛び跳ねるサケに餌を与えていました。

13年前、阿部さんは福島市内で働いていたため無事でしたが、雄勝町の実家が津波で流され、弟の良満さん、弟の妻、恵美子さんが犠牲となり、母の良子さんはまだ見つかっていません。

残された父や弟の息子を引き取り、福島市で暮らすことも考えましたが、父の代から続くギンザケ養殖を再開させるために仕事辞め、雄勝町に戻りました。

津波で船や養殖施設はすべて失いましたが、知り合いから船を譲り受け、がれきの中から漁具を見つけ出し、震災があったその年の秋にはギンザケの養殖を再開しました。

再開した当初は震災前より価格や水揚げ量が落ち込み赤字が続きました。

それでも弟の生きた証しを残したいという思いから諦めず養殖を続け、現在では震災前とほぼ同じ水準まで回復しました。

阿部さんは「最近は養殖や生活のことが頭の中にあるけど、やっぱりこの日だけは特別で、震災の時のことを考えてしまう。俺が代わりに頑張っているからおいっ子のことも心配しないで見守ってほしい」と話していました。

06:00 岩手 陸前高田 「奇跡の一本松」と献花台

岩手県陸前高田市では午前6時前に山のりょう線から朝日が昇り「奇跡の一本松」とともに静かな海の水面を照らしました。「高田松原津波復興祈念公園」では、11日朝早くから震災の犠牲者を悼む人の姿が見られました。

公園内にある「奇跡の一本松」はかつておよそ7万本の松が生い茂っていた陸前高田市高田松原で、津波に耐えてただ1本残った松で、震災後はモニュメントとして保存・復元されています。

茨城県常陸大宮市から訪れ、近くの橋の上から朝日と一本松の写真撮影をしていた橋本義昭さん(72)は、震災後から被災地に通い、一本松の保存事業にも携わってきたということです。

また被災地の写真を撮影し続けて写真集を発行したり、展示会を開いたりしているということで「もう10年以上がたち、風化しつつあると感じるので、記録を残すことを続けるのが使命だと思っています」と話していました。

宮城県亘理町から夫婦で「奇跡の一本松」を見に訪れた岡田良郎さん(65)は「やっぱり一本松はすごいな、頑張ってほしいなと思いました。日本は災害が多いので、自分も地震津波が来たらすぐに逃げるようにしたいです」と話していました。

公園内にある献花台には朝から静かに手を合わせる人の姿がありました。

7年前から陸前高田市役所で働く農林課の菅原剛治さんは、地震発生時の午後2時46分は勤務中で庁舎を離れられないため、11日朝に献花台を訪れました。

震災で知人を亡くしたという菅原さんは「『皆さん安らかに休んでください』と伝えました。住民がゆったりとした気持ちで暮らせるような街になればいいなと思っています」と話していました。

06:00 岩手 宮古 宿泊施設で災害対応訓練 

岩手県宮古市田老では、市の職員や消防などが早朝から災害時の対応を確認する訓練を行いました。

訓練は宮古市田老の宿泊施設「グリーンピア三陸みやこ」で午前6時から行われました。

岩手県沿岸北部で震度6強の揺れを観測し、大津波警報が発表されたという想定で、市の職員や消防などが参加しました。

まず午前6時、防災行政無線などで、緊急地震速報が出たことが伝えられると参加した人たちは、施設のロビーで頭を守って低い姿勢をとり、安全を確保していました。

施設内には臨時の救護所が設けられ、地震で骨折や打撲などのけがをしたという想定で医師や消防隊員が症状を確認したりガーゼを巻いたりしていました。

そして担当者が連絡を取り合いながら重症の患者を救急車で県の防災ヘリコプターが待機している場所まで運び、受け渡して搬送していました。

また、岩手県立大学がドローンを飛ばし、▽搭載しているスピーカーで上空から避難を呼びかけたり、▽避難状況を確認したりする実証実験も行っていました。

宮古市の山本正徳市長は「13年はあっという間という気もしますが、たくさんの方々が復旧や復興に携わって苦しい思いをしながら過ごした期間としては長かったような気もします。今後の災害に備えるため、地域それぞれにあった避難の方法を考えながら、人の命を絶対に失わないように防災への取り組みを続けていきたいです」と話していました。

05:30すぎ 福島 南相馬 「かしまの一本松」再び

福島県南相馬市鹿島区の南右田地区は、東日本大震災津波ですべての住宅が流され、54人が犠牲になるなど壊滅的な被害を受けました。

地区にあった松林も流されましたが、高さ25メートルの1本のクロマツ津波に耐え、「かしまの一本松」、または「奇跡の一本松」と呼ばれ、被災した人たちを勇気づけてきました。

しかし徐々に枯れていき、震災の6年後に、かさ上げ工事などに伴って伐採されました。

震災前までこの地区に住み、市内の内陸部に移り住んだ五賀和雄さん(83)は、震災の記憶として伝え続けようと仲間とともにこのクロマツ松ぼっくり30個ほどから種をとって苗木にし、4年前に一本松のあった場所に植えました。

住民などの協力もあってこれまでに96本を植え、今では大きいもので、高さ1.6メートルほどにまで成長しました。

あの日から13年の11日、五賀さんは近くの防潮堤から海を眺め、朝日が昇ると静かに手を合わせ、祈りをささげていました。

五賀さんは「13年たっても同じ地区で暮らしていた17人が行方不明のままです。ここにあった松林が子どものころの遊び場で、力強く生きた一本松から受け継がれた木々を後世に残し、地区があったことを伝え続けていきたい」と話していました。

05:30すぎ 宮城 気仙沼 高台の公園で祈り

宮城県気仙沼市では津波で1万5000棟を超える住宅が被災し、市によりますと、関連死を含めて1220人が亡くなり、214人の行方がいまも分かっていません。

海や中心部の町並みを見渡せる高台に作られた「気仙沼市復興祈念公園」では、11日朝早くから海や町並みを写真におさめたり深々と頭を下げたりする人の姿が見られました。

新潟県から訪れた60代の男性は「震災の犠牲者に祈りをささげるとともに気仙沼市の復興が進んでほしいという思いで訪れました。全国で相次ぐ自然災害の被害が少なくなるよう祈っています」と話していました。

05:30ごろ 仙台 祈りささげる遺族

仙台市の海岸では犠牲になった家族へ朝早くから祈りをささげる男性の姿がありました。

津波でおよそ200人が犠牲となった仙台市若林区の荒浜地区です。

地区の海沿いは災害危険区域となったため住宅を建てることはできません。

荒浜地区で生まれ育った大学敏彦さん(69)です。

震災発生の当日、仕事で自宅を離れていて無事でしたが、津波で自宅と実家を流され妻と両親、兄とおい、合わせて5人を亡くしました。

妻の眞知子さん(当時60)はいつも笑顔で、けんかすることはほとんどなく大学さんに寄り添ってくれたといいます。

この13年、毎月11日の月命日には欠かさずここで祈りをささげてきた大学さん。

11日朝も、家族の名前が刻まれた慰霊碑に線香を手向けたあと、亡くなった妻を思い手を合わせ、慰霊の鐘を鳴らしました。

大学さんは「あっという間の13年でした。亡くなった妻には、残された家族をこれからも見守ってほしいという思いで手を合わせました。定年後は、夫婦で第二の人生としていろいろなところに行きたかったけれど、夫婦の時間がなくなり、寂しい思いです」と話していました。

また、能登半島地震で被災した人への思いについて聞くと「生きてさえいれば、私自身がそうであったように、周りの人が手を差し伸べてくれて前に進めると思います。地震が起きたら、とにかく逃げること、身を守ることにつきます」と話していました。

03:00 岩手 釜石 店舗流され、その後再建したパン屋 

岩手県釜石市片岸町の小笠原辰雄さんと三智子さん夫妻は長年、パン屋を営んでいましたが、13年前の東日本大震災津波で店と自宅を流されました。

それでも「自分たちのパンを楽しみにしている地元の人たちのためにパンを焼きたい」と、震災から7か月後には仮設店舗での営業を再開しました。

その後7年かけて、かつて店と自宅があった場所の近くでパン屋を再建しました。

震災から13年となる11日も小笠原さん夫婦は午前3時からパン作りを始めました。

震災後、初めてパンの生地をこねたときに感じた生地のぬくもり、焼き上げたパンのおいしさはいまも忘れられず、毎年、3月11日は当時を思い出しながらパンを焼いてきたということです。

11日に作った菓子パンやサンドイッチはスーパーや道の駅のほか、震災の法要が行われる寺などにも届けられるということです。

小笠原辰雄さんは「地域の皆さんのおかげでここまでやってこられたので、感謝の気持ちを忘れることはありません。これからも口にしたときに『おいしいね』と言ってもらえるようなパンを作り続けたいと思います」と話していました。

「震災関連死」含む死者と行方不明者 あわせて2万2222人に 

2011年3月11日の午後2時46分ごろ、東北沖でマグニチュード9.0の巨大地震が発生し、東北の沿岸を高さ10メートルを超える津波が襲ったほか、関東などにも大津波が押し寄せました。

福島第一原発では、巨大地震津波の影響で電源が喪失し、3基の原子炉で核燃料が溶け落ちる「メルトダウン」が発生、大量の放射性物質が放出されました。

警察庁によりますと、今月1日の時点で、
地震津波の被害などで亡くなった人は1万5900人、
▽行方不明者は2520人となっています。

また多くの人が長期の避難生活を余儀なくされ、復興庁や各都県によりますと、体調が悪化して死亡するいわゆる「震災関連死」に認定された人は、これまでに3802人と、この1年で10人増えました。

「震災関連死」を含めた東日本大震災による死者と行方不明者は、あわせて2万2222人にのぼります。

避難生活を余儀なくされている人は減少が続いているものの、復興庁の先月1日時点のまとめで、2万9328人となっています。