大震災13年に関する社説・コラム(2024年3月11日)

東日本大震災13年 教訓に学び備えの強化を(2024年3月11日『北海道新聞』-「社説」)

 東日本大震災から13年になる。
 観測史上最大の地震と、大津波で死者・行方不明者は2万2千人以上に達した。
 この未曽有の大災害からの復興の道はまだまだ険しい。
 とりわけ東京電力福島第1原発事故の被災地は、地域の将来を見通すのが難しい状況だ。
 国は、被災者と被災地をさらに力強く支えなければならない。
 今年の元日には能登半島地震が起きた。水道などの復旧が遅れ、多くの人が避難を続けている。
 東日本大震災では復旧が長引く間に関連死が増え、地元に戻るのを諦める人たちが出た。
 この教訓に学び、誰一人支援の網から漏らさず、復旧・復興を迅速に進めるべきだ。
 災害は時も場所も選ばないことを東日本大震災能登半島地震は示した。今後に備えた対策の強化が欠かせない。

■帰還の後押しさらに

 福島第1原発の北西約30~50キロの高原に広がる福島県飯舘(いいたて)村。南部の長泥(ながどろ)地区は事故以来12年にわたり人が住めない帰還困難区域だったが昨年5月、ようやく一部で避難指示が解除された。
 国から特定復興再生拠点区域(復興拠点)に認定されたエリアで、長泥全体の17%にすぎないが、解除の日には住民の間に「古里が一番」と笑顔が広がった。
 復興拠点は地域再生の要になる場として、帰還困難区域を抱える県内6町村に設けられている。
 除染が優先的に進められ、避難指示が順次解除されてきた。その最後が長泥地区だった。今、新しいコミュニティーセンタ―が建ち、造成が進む農地が広がる。
 前村長の菅野典雄さん(77)=帯広畜産大卒=は長泥地区の整備に精力的に取り組んできた。
 「見違えるように良くなった。どう活用するかがこれから問われてくる」と力を込める。
 ただ、住民の帰還は鈍い。住民票を置く約200人のうち、実際に戻って生活を始めたのはごくわずかだとされている。
 多くの住民が避難先で生活を再建していることが大きい。
 同じ問題は他の復興拠点でもみられる。「これなら戻れる」と住民が思えるよう、インフラの充実やなりわいの再構築に国や自治体は一層力を入れる必要がある。
 今後の焦点は、復興拠点外の広大な帰還困難区域の扱いに移る。
 国は、帰還を希望する人の自宅やその周辺を特定帰還居住区域に認定して除染を進めることとし、一部で作業を始めている。スピードが求められるのは当然だ。
 住民たちは国策に基づく原発に平穏な暮らしを奪われ、かけがえのない古里を追われた。国はその無念さに正面から向き合い、地域の再生に尽くさねばならない。

■国の支援縮小は疑問

 宮城県岩手県津波被災地は、整備した土地の利用が進まないことや人口流出、高齢化の加速といった問題を抱え続けている。
 企業誘致や移住支援の強化など各自治体は模索を重ねている。
 見過ごせないのは、国の支援が年々縮小していることだ。
 本年度は、工場などを新増設する企業を支援してきた津波立地補助金が公募を終了した。
 所管する経済産業省は「一定期間が過ぎ役割を終えた」とする。
 だが事業所の新増設は、土地の利用促進や就労先の確保につながる。地元からは不満が聞かれる。終了は時期尚早ではないか。
 被災地のニーズに合わせたきめ細かい支援がなお求められる。国は現地の声を丁寧にくみ、息長く後押しを続けてもらいたい。

■復興の知見を能登

 宮城県東松島市職員の石垣亨さん(48)は2月中旬、石川県内の会場とオンラインで結んだ勉強会に講師として参加した。
 震災後、住民の集団移転に携わった経験から「復興は住民と行政の信頼関係があってこそ」と能登半島地震の被災者に呼び掛けた。
 「13年前は東松島も全国の支援を受けた。その恩返しになればいい」と石垣さんは話す。
 東日本から能登へ教訓や助言を伝える取り組みが盛んだ。
 NPOなどが主催するケースが大半で、実体験が現在の被災者に直接伝わる意義は大きい。
 政府もより積極的に住民に分け入って、蓄積した復旧・復興の知見を生かす姿勢があっていい。
 地震津波のリスクには道内もさらされている。巨大地震は太平洋側に限らないことを能登のケースは改めて教えている。日本海オホーツク海側でも自治体、住民は備えを点検してほしい。
 避難者を劣悪な環境に置かないためにも寒さやトイレ対策は特に重要だ。過疎集落が孤立した場合の対応も考えておくべきだろう。
 東日本と能登が伝える教訓を自分たちのこととして考えたい。
10日組<1本社説>東日本大震災13年 教訓に学び備えの強化を

 

(2024年3月11日『東奥日報』-「天地人」)

 

 忘れるのは人間の性(さが)である。「忘却曲線」で知られるドイツの心理学者エビングハウスの実験結果によると、人は覚えたことを1時間後に56%、1日後には74%忘れてしまうという。覚えた瞬間から記憶は指数関数的に減少していく。

 とはいえ、何年経ても決して消え去らない記憶はある。大地に激震が走り、陸を駆け上がる大津波が街をのみ込んだ「3.11」もそうだ。牙をむく自然の猛威に人はどこまでも無力。防災のあるべき姿が根本的に問い直された日でもあった。

 おびただしい犠牲者を生んだのは、強い揺れよりも巨大な津波だった。1月の能登半島地震ではその教訓が生かされた。震災以来の大津波警報が発表され、すぐに沿岸に到達したが多くの人が避難した。「何よりまず逃げる」。日ごろの訓練が奏功した。

 記憶の伝承という点で気がかりなことも。岩手日報と岩手大が岩手県内の公立小中高の児童生徒に行ったアンケートで「津波てんでんこ」の意味が分からないとの回答は64%に上った。津波の時は人に構わず逃げろ-という三陸発祥の有名な教えなのだが。

 教訓をつなぐことが命を守る。震災を忘れず、その経験を、予測される日本海溝・千島海溝の巨大地震への備えに生かさねばならない。もう一つ、忘れてはならないことがある。「その日」は予期せぬ時に突然やって来る。13年前のきょうもそうだった。

 

東日本大震災13年 記憶の集積が命を救う(2024年3月11日『山形新聞』-「社説」/『茨城新聞』-「論説」)


 13回目の追悼・誓いの日を迎えた。年明け早々の能登半島地震は、いつ大きな地震に直面してもおかしくない現実を突き付けただけに、今年の3.11の意味は重い。被害を最小限に抑える備えと行動を改めて学び直したい。

 東日本大震災東京電力福島第1原発事故という未曽有の複合災害は、震災関連死を含め死者2万人弱、行方不明者2500人余り、いまだに避難を余儀なくされているのは約2万9千人と甚大な被害をもたらした。本県には1214人が避難している。ハード面の復旧は、原発周辺を除き完了したものの、福島県の7市町村で帰還困難区域が残り、第1原発廃炉への道筋も見えないままだ。

 このような状況下、岸田政権の原発回帰に国民の評価は分かれている。今回の能登地震では、北陸電力志賀原発に大きな被害はなかったとはいえ、変圧器の破損に伴い外部電源の一部が、放射線監視装置も18カ所で使用・測定不能に陥った。高齢者らが一時避難する30キロ圏内の放射線防護施設のもろさも露呈。半島の道路が寸断され、従来の避難計画は揺らぐ。

 政府は2021年からの5年間を「第2期復興・創生期間」と位置付ける。ただ、宮城、岩手の両県沿岸部でも、かさ上げされた広大な空き地があちこちで見られる。原発の周辺自治体に特定復興再生拠点区域が設けられたが、再建は緒に就いたばかりだ。人口減少の加速が直撃しており、かつてのにぎわいを取り戻すのは容易ではない。10年前後も立ち入り禁止となっていた地域はなおさらだ。

 巨大防潮堤を造らなかった宮城県女川町の駅前は、海に向け一直線に続くれんが道の両脇に商業施設などが並ぶ。復興計画策定の主役になったのは30代から40代だ。還暦以上は口を出さず側面支援に徹し、独自のプランを作成して行政と連携したという。

 新たな街の営みづくりには交流人口や活動人口を創出する視点から、移住者を含む若い世代の斬新な発想を積極的に取り入れることも必要だろう。

 能登地震では、3.11の経験を生かしたケースがあった。石川県珠洲市三崎町寺家の下出地区は高台への階段を増やし、夜間避難用に太陽光パネルの電灯を設置、「10分以内に上ろう」と避難訓練を重ねた。約80人の住民は全員無事で、区長は「大震災の教訓がなければ犠牲者が出ていたかもしれない」と振り返る。

 2月に宮城県南三陸町で開かれた「全国被災地語り部シンポジウム」では、参加者が「経験を伝えることがより重要になる」と訴えた。1923年の関東大震災も体験した物理学者で随筆家の寺田寅彦はこう警鐘を鳴らす。「地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである。科学の方則とは畢竟(ひっきょう)『自然の記憶の覚え書き』である」(原文のまま)

 大地震は数年ごとに列島を襲う。被災の当事者でなくとも、さまざまな手段で記憶と経験を集積し、継承していく。そこから教訓を引き出し、「想定外」をつぶしていく作業の大切さを再確認しながら、復旧・復興の過程を含め、自助・共助・公助の在り方を考えたい。それが未来のかけがえのない命を救う。

 

(2024年3月11日『山形新聞』-「談話室」)

▼▽来年春入学向けのランドセル商戦がもう始まった。人気の色がなくなる前に予約しておきたい保護者が増えているそうだ。自治体が贈る例もあるが、通底するのは、これを背負って6年間を健やかに、との願いだろう。

▼▽ランドセルだけが歩いているような新入生の後ろ姿が、卒業時には背丈も伸びて窮屈そうに見える。親や祖父母なら誰もが描くに違いない。ただ、そんな未来が突然奪われてしまう不条理がこの世にはある。13年前の3月、泥まみれのランドセルが並ぶ写真が本紙に載った。

▼▽津波で児童74人が犠牲になった宮城県石巻市の大川小近くで撮影されたものだ。3年前に開館した大川震災伝承館に赤いランドセルが展示されている。持ち主は鈴木巴那(はな)さん、当時4年生。両親の説明文によれば、音読が得意で、あの地震の前夜も大きな声で練習していた。

▼▽中の教科書やノート類は波打ってこそいるが、汚れはない。泥だらけのままではかわいそうと、祖母が一枚一枚を洗っては乾かす作業を繰り返し、何年もかけてきれいにしたという。その思いに胸が詰まる。犠牲者のうち4人の行方が分からない。巴那さんもまだ帰らない。

 

震災13年・子どもたちへ/大切なものは何か考えよう(2024年3月11日『福島民友新聞』-「社説」)
 
 大地震と巨大津波で大きな被害をもたらした東日本大震災から丸13年になりました。毎年この日を迎えると、多くの人が犠牲(ぎせい)になった人に鎮魂(ちんこん)の祈りをささげ、復興への決意を新たにします。発生当時、まだ生まれていなかった人、小さかった人も同じようにお祈りなどをしたことがあるでしょう。

 この国では震災以降も、大地震や台風、豪雨などが相次いでいます。今年の元日に発生した能登半島地震でも、13年前と同じように突然、強い揺れが起き、海岸沿いに津波が押し寄せました。建物や家具の下敷きになるなどして多くの人が犠牲となり、今も避難生活をしている人がいます。

 東日本大震災を経験していなくとも、新聞やテレビで被災地の様子を知り、自然災害の怖さを感じたのではないでしょうか。大切な家族を失ったり、思い出の詰(つ)まった家が倒壊(とうかい)したり、住み慣れた場所から離れて生活しなければならなくなったりしているのは、13年前の福島と重なります。被災した人の気持ちを想像し、今の自分に大切なこと、何をしなければならないかを考えてみてください。

 福島県は昨年12月、震災と東京電力福島第1原発事故を経験していない小中学生向けの冊子を作りました。地震津波の被害、原発事故で拡散(かくさん)された放射性物質風評被害などについて書かれています。よく分からないことを知るために読んでみるのもお勧(すす)めです。

 いつ、どこで地震や豪雨などの災害に遭(あ)うかは分かりません。自分や家族、友人の命を守るにはどうすればいいか、被害が大きくならないように何かできることはないか―。いざという時の行動や判断のために13年前の出来事などから学び、備えることが大切です。

 13年前、小学生や中学生だった人は全員18歳以上となり、勉強や仕事に励んでいます。古里の再生のために働き、未来を担う子どもたちのため、学校の先生として活躍している人もいます。

 震災当時、子どもだった人にどんな努力や苦労をしてきたか聞いてみてはどうでしょう。さまざまな経験を重ね、子どもの気持ちも理解している人から話を聞くことで、励まされたり、勇気をもらえたりすることがあるはずです。

 13年が経過しても避難指示が解除(かいじょ)されず、古里に戻ることができない人がたくさんいます。かつてない深刻(しんこく)な事故を起こした原発廃炉(はいろ)作業は、これから長い時間がかかる見通しです。

 誰もが大切にしたいと思える古里をつくるには、みんなの力が必要です。一緒に頑張(がんば)りましょう。

 

また来る春(2024年3月11日『福島民友新聞』-「編集日記」)
 
 「花に嵐のたとえもあるぞ/さよならだけが人生だ」は、井伏鱒二が唐代の詩を意訳した一節。元の詩は友に酒を勧めるもので「思わぬ妨げがあるかもしれない。今のうち一緒に酒を楽しもう」との内容だ

▼「さよならだけが―」の部分は、本来ならば「人生に別れは付きもの」ほどの意味で、かなり思い切った表現。訳すとき、ある島を訪れた際に船から見送りの人を見た同行者の発した言葉を思い出したのだという

寺山修司は井伏の訳に心酔し、自作でも何度かこの表現を使っている。「さよならだけが/人生ならば/また来る春は何だろう/はるかなはるかな地の果てに/咲いてる野の百合何だろう」。さよならだけが―と簡単には割り切れないとの思いもあったのではないか

▼もう二度と会えなくなった、避難で遠く離ればなれになった―。いつもよりも多く、さよならを言わなければならなかった春から13年。思い出すことの全てがつらいことではないだろう

▼どう生きて、どう歩いてきたか。やり場のない悲しみを一瞬だけでも忘れることができた、心温まる経験もあったはず。会えなくなった人たちに思いを寄せながら、あの日からの歩みを振り返るために、また春が来た。

 

【震災・原発事故13年】(2024年3月11日『福島民報』-「論説」)


 東日本大震災東京電力福島第1原発事故から丸13年を迎えた。この1年、復興の現場はいくつかの大きな節目と向き合い、次の一歩を踏み出した。一方で新たな問題も浮かび上がってきている。政府が手厚く支援する「第2期復興・創生期間」も期限が近づく。取り組むべき課題を明確にし、克服への決意を固める一日としたい。

 難題の一つと言われてきた放射性物質トリチウムを含む処理水は昨年8月、福島第1原発からの海洋放出が始まった。これまで4回実施され、大きなトラブルはない。海水の濃度は国の基準値を下回っているが、関連する作業では汚染水の漏出や作業員が放射性物質に触れる人為的ミスが相次いでいる。

 帰還困難区域の避難指示解除も進展を見せている。六つの町村に設定された特定復興再生拠点区域(復興拠点)は、昨年11月の富岡町の解除で全てが完了した。新たに除染を進める特定帰還居住区域の復興再生計画策定も大熊、双葉、浪江、富岡の4町が政府の認定を受けた。

 政府、東電は福島第1原発廃炉をスムーズにするため、海洋放出は不可欠と主張してきた。さらに政府は帰還困難区域全体の避難指示解除を長い時間をかけても成し遂げると約束している。それぞれが新たな段階に入った。「3・11」以前に増して豊かさが実感できる社会をつくり上げる「創造的復興」にどう結び付けるかの正念場に差しかかっているともいえる。

 まずは計画遅れが懸念されている福島第1原発2号機の溶融核燃料(デブリ)の取り出し作業を着実に前進させてほしい。現状を広く国民に周知し、原発事故は国全体の問題だと強く認識してもらうことも忘れてはならない。

 避難指示の解除と合わせて産業の集積も欠かせない。住民帰還では最も厳しい環境にある双葉町に高い技術を誇る撚糸工場が進出し、大熊町には世界最先端の半導体メーカーが立地を決めた。浪江町に開設された福島国際研究教育機構(エフレイ)の研究と合わせ、科学と技術の最先端の地に育て上げていきたい。

 国内は大規模な災害が相次ぐ。元日に起きた能登半島地震の被災地、被災者にも希望が見いだせるような復興の姿を示したい。(安斎康史)

 

仏浜(2024年3月11日『福島民報』-「あぶくま抄」)

 救いを授けてくれそうな地名なのだが…。その日、住む人は思わず天を仰ぎ、嘆息を漏らしたことだろう。揺れにおののき、津波にのまれる街をぼう然と眺めつつ

富岡町沿岸部の「仏浜」。1182(寿永元)年の時化[しけ]の日、一艘[そう]の船が打ち上げられた。薬師如来像を抱えた僧侶が船底にいた。流刑の果てという。地名の由来は「仏が流れ着いた浜」との説もある。陽光に恵まれた場所だ。鉄道が通って駅ができ、周辺に住宅が立ち並んだ。穏やかな日常が奪われるとは、一体だれが想像したか

▼立ちすくみ、立ち上がって13年。地域に新たな息吹が次々と芽生えている。広野町につながる浜街道には、海風を受けて自転車をこぐ姿。ブドウが実り、鮮やかな葉の緑が映える。今夏、駅近くに醸造所が誕生する。「古里がここまで戻ってきた」の声。町の再生を象徴する風景に目を細めて味わう地ワインは、至極の一杯になる

▼かの僧侶は廃寺に腰を据えた。遭難の危機を乗り越え、移った先に新たな信仰を生んだに違いない。時を超え、800年余の祈りが浜に満ちる。立ち昇る朝日にきょう11日、あらためて誓う。災禍をはねのけ、安寧な暮らしを築き続けますと。

 

東日本大震災13年 記憶、経験集め継承したい(2024年3月11日『福井新聞』-「論説」)

 東日本大震災発生からきょうで13年となる。年明け早々の能登半島地震は、いつ、どこで大きな地震に遭遇してもおかしくない現実を突き付けただけに、今年の3・11の意味はより重いと捉えるべきだろう。

 東日本大震災とこれに伴う東京電力福島第1原発事故という未曽有の複合災害は、震災関連死を含め死者2万人弱、行方不明者2500人余、いまだに避難を強いられているのは約3万人と甚大な被害をもたらした。インフラやハード面の復旧はほぼ完了したものの、福島県原発周辺7市町村では帰還困難区域が存在し、原発廃炉への道筋も見えないのが現状だ。

 政府は2021年からの5年間を「第2期復興・創生期間」と位置付けてはいるが、宮城、岩手両県の沿岸部では、かさ上げされた広大な空き地があちこちで見受けられる。原発周辺の自治体には特定復興再生拠点区域が設けられているが、再建は緒についたばかりだ。ただでさえ人口減少にさらされていた中で、それに拍車がかかった形であり、かつてのにぎわいを取り戻すのは簡単ではない。

 能登半島の復興を考える上で、参考になるのが宮城県女川町の事例だろう。同町は巨大防潮堤を造ることなく、駅前には海に向けて一直線に続くれんが道を整備し両側に商業施設が並んでいる。こうした復興計画を担ったのは30、40代の世代だ。60歳以上は口を出さずに側面支援のみ。ユニークなプランを作成し行政と連携した結果、他にはないスタイルが出来上がったという。奥能登でも移住者を含む若い世代の発想を積極的に取り入れたい。

 北陸電力志賀原発では幸い大きな被害はなかったが、変圧器の破損に伴い外部電源の一部が使用できない状況に陥り、放射線監視装置も18カ所で測定不能となった。高齢者らが一時避難する30キロ圏内の放射線防護施設の脆弱(ぜいじゃく)さも露呈。半島の道路がことごとく寸断され、従来の避難計画は揺らいでいる。岸田政権は第1原発事故の記憶にあらがうように原発回帰に転換したが、それが一筋縄ではいかないことをこの地震が示した格好だ。原発集中立地県の福井も重い教訓と受け止める必要がある。

 東日本大震災の教訓が石川県内でも生かされたケースがある。珠洲市三崎町寺家の下出地区では、高台への階段を増やしたほか、夜間避難用に太陽光パネルの電灯を設置し、避難訓練も重ねてきた。約80人の住民は全員無事だったという。数年ごとに日本列島を襲う大地震。さまざまな方法で記憶と経験を集めて継承していく中で、「想定外」をつぶしていく作業こそが、かけがえのない命を救う近道といえよう。

 

福島原発事故13年 復興の道のり依然険しく(2024年3月11日『新潟日報』-「社説」)

 東日本大震災から11日で13年となった。被災地全体としては道路などのインフラが復旧し、復興は徐々に進んでいる。震災当初は被災3県を中心に推計47万人だった避難者は約3万人になった。

 だが、東京電力福島第1原発事故が起きた福島県で暮らしていた人たちは、いまだ2万6千人余りが避難生活を送っている。このうち2万人超は県外だ。

 将来にわたり居住を制限するとされる帰還困難区域は、県土の2・2%に当たる計約310平方キロで、原則立ち入り禁止の範囲は7市町村にまたがる。

 福島の復興への道のりはなお険しいと認識しておきたい。希望する全員が一日も早く故郷に戻れるような基盤整備が求められる。

 震災と原発事故という大きな犠牲を代償に得た貴重な教訓は、能登半島地震被災地の復旧作業と今後も起こりうる災害の復興でも生かしていかねばならない。

 第1原発を巡っては、汚染水を浄化した処理水の海洋放出が昨年8月に始まった。政府は廃炉を円滑に進めるためとしている。

 留意したいのは、事故後に操業の全面自粛を強いられ、再開後は風評被害に直面した沿岸漁師らの反対を押し切って、政府が放出を決定したことだ。地元が不利益を被ることのない対策を求める。

 放出による国内の風評被害は幸いほとんど見られないが、中国が日本産水産物の輸入を停止したため、国内漁業関係者への打撃は深刻だ。本県でも佐渡のナマコ産業が苦境に立つ。

 新たな販路の開拓が急がれる。国際社会に理解を深めてもらうため、政府は日本の立場を繰り返し説明し、禁輸解除に向けて中国と粘り強く交渉してもらいたい。

 海洋放出が30年程度続く間、東電に放出を管理できるのかと懸念が募る。放出後の昨年10月には作業員が放射性物質を含む廃液を浴び、先月は弁の閉め忘れによる汚染水漏れも起きたからだ。

 廃炉の作業は溶融核燃料(デブリ)の取り出しが難航している。推計880トンの取り出し方法が決まらず、処分の方法や場所は議論すら始まっていない。

 能登半島地震では、北陸電力志賀原発の重大事故時の避難ルートに定められていた幹線道路の多くが、土砂崩れなどで寸断された。

 逃げるに逃げられない状況を想像すると心寒くなる。住宅が損壊していれば、屋内退避は有効とはいえないだろう。

 避難の判断に用いる放射線監視装置(モニタリングポスト)の一部が測定不能になり、避難情報を伝える防災行政無線の屋外スピーカーはバッテリー切れで稼働停止が相次いだ。

 地震津波、豪雪などとの複合災害時の避難方法は常に検証し、見直していく必要がある。それも東日本大震災の大きな教訓だ。

 

(2024年3月11日『新潟日報』-「日報抄」)

 

 東日本大震災から、きょうで13年。毎年今頃になると、この歌詞が頭に浮かぶ。〈早春の午後 押し寄せる高波に砕けた未来〉。浜田省吾さんの「アジアの風 青空 祈り part2 青空」の一節だ

▼浜田さんは社会問題も歌にしてきた。原発や原爆を取り上げた曲もいくつかある。広島県出身で、父親が被爆者であることも関係しているかもしれない。大震災では津波で多くの死傷者が出た。東京電力福島第1原発で重大事故が発生し、被ばくを避けるため多くの人が故郷を追われた

▼昨年、第1原発を取材したことを思い出す。敷地の周辺地域は人の気配がなく、時が止まったかのようだった。衣料品店には商品が残され、事業所のテーブルには缶コーヒーが置かれたままになっていた。復興が進む地域がある一方、手つかずの場所も目にした

▼私たちは自然が引き起こす災害に打ちのめされ、原発事故の恐ろしさも思い知ったはずだった。前述の曲で、浜田さんは叫ぶように歌っている。〈充分過ぎるくらい学んだ…違うか?〉

▼だが、国は原発を積極的に活用する方針に転換した。そんな中、能登半島地震が起きた。道路の崩落で避難が難しくなるなど、原発事故に対する不安が改めて鮮明になった。先日の県内市町村長の会合では、地震や大雪と事故が重なる複合災害時の避難について懸念する声が相次いだ。能登で浮かび上がった課題に真摯(しんし)に向き合う必要がある

▼浜田さんの歌声が切ない。まだまだ学ばねばならないのか。

 

津波の教訓/風化を防ぎ次の災害に生かす(2024年3月11日『神戸新聞』-「社説」)

 

神戸新聞NEXT復興を議論する只越の住民ら


 東日本大震災東京電力福島第1原発事故の発生から、きょうで13年になる。災害関連死を含む死者・行方不明者は2万2千人を超える。犠牲者の冥福を祈りつつ、甚大な被害の記憶を風化させてはならないとの思いをあらためて強くする。

 元日に起きた能登半島地震では、多くの被災者が今も厳しい避難生活を続けている。東日本の被災地以上に人口減少と過疎化、高齢化が進む地域であることを踏まえた復興を考えねばならない。再生に向け、これまで積み上げてきた経験を東北から伝えていくことも求められる。

 命と健康を守り、生活再建を支えるのに、何が必要なのか。過去の災害の教訓に学び、次の災害に備える取り組みから考えたい。     ◇

 岩手や宮城など津波被災地では、この13年でインフラの復旧は大きく進んだ。住まいや暮らしの再建も急がれたが、大規模なかさ上げ工事や高台造成に年月を要したことなどから同じペースでは進まず、現地再建をあきらめる住民が相次いだ。震災前のコミュニティーが失われた地域も少なくない。

 まちの未来を確認し合い、住民がそれぞれの人生を重ねることができたのか。巨額の事業費が投じられた復興まちづくりの過程の検証は、十分になされてきたとは言い難い。

■住民の自発性がカギ

 漁師町として栄えた宮城県気仙沼市唐桑町の只越(ただこし)地区は、115戸のうち約40戸が津波で流出した。防災集団移転促進事業が導入されたが、ほとんどの住民が当初の意向通りに住宅再建を果たした。

 同地区の特徴は、住民が自ら集団移転地を探し、地権者と交渉して区画を考え、災害公営住宅を併設する計画を行政に認めさせたことだ。

 2015年秋に移転先が完成するまでの約4年間、毎月の復興協議会に参加してきたのがNPO法人神戸まちづくり研究所理事長の野崎隆一さん(80)らだった。兵庫県が被災地支援事業で派遣した専門家だ。

 被災者が抱える課題は多様で、野崎さんは先走って復興案を示すことは控えた。世帯ごとに資金繰りなどを聞き取りして丁寧に助言したほか、市との橋渡し役を担い、住民の議論と合意による復興に尽力した。

 野崎さんは阪神・淡路大震災で被災マンションの再建に関わったが、建て替えか補修かで住民同士が裁判で争った。合意形成の困難さを痛感した経験を只越で生かした。「被災者は復興の主人公。寄り添い、ともに考える伴走者が必要だ」と話す。住民からは「主体性を大事にしてくれた」と感謝されたという。

 野崎さんらは今、復興記録集の作成を進めている。「能登でも被災者同士がつながり、まちの将来を自発的に話し合えるかどうかがカギ」と提言する。「成功事例」も住民らの計り知れない葛藤や苦悩の上に成り立つことを忘れてはならない。

■地域に合った備えを

 大災害が起こる前に取り組むべき課題も浮かび上がる。

 30年以内の発生確率が70~80%とされる南海トラフ巨大地震が起きれば、兵庫県にも津波が押し寄せる。

 西宮市の西宮浜地区は人工島で、市街地と結ぶ橋が被災すると約7千人の住民が孤立する恐れがある。29年前の阪神・淡路大震災では橋が損壊し、通行不能に陥った。

 2月、地域住民が主体となり、有事に備える「防災フェスタ」を初めて開いた。島内に住む医師や看護師らでつくる医療ボランティア団体が模擬診療所を設けるなどした。

 企画した医師で元兵庫県災害医療センター顧問の鵜飼卓さん(85)は「阪神・淡路では当時の勤務先がある大阪に行けなかった。道路やライフラインの途絶が『避けられる死』を生み出す。それを繰り返してはいけない」と危機感を募らせる。

 地震はいつ、どこで起きてもおかしくない。地域の実情に応じた備えを進め、訓練と見直しを重ねる。それが命を守り、被害を最小限に抑える。「3・11」の教訓が社会に根付くまで、東北の復興は終わらない。

 

東日本大震災13年 岡山も液状化の強い懸念(2024年3月11日『山陽新聞』-「社説」)

 2011年の東日本大震災から、きょうで13年を迎えた。津波原発による甚大な被害の中であまり目立たなかったが、緩い地盤が液体状になる「液状化」の影響は深刻だった。東京湾岸など震源域から遠く離れた場所でも発生することが示された。

 今回の能登半島地震でも震源域に近い石川県だけでなく新潟、富山県などで発生し、巨大地震では遠方も危険性があることを改めて思い知らされた。近い将来に発生が予想される南海トラフ巨大地震に対する岡山県などへの教訓として捉えるべきだろう。

 東京ディズニーランドが立地していることで知られる千葉県浦安市は、東日本大震災で著しい液状化被害を受けた。道路から筒状に隆起したマンホール、地下から噴出した大量の土砂や水、亀裂の入った道路や傾いた建物…。市域は東京湾沿いの埋め立て地が多く、地盤が弱いために被害が拡大した。

 液状化は人的な被害はさほどないものの、影響範囲が地域全体に及び、水道や道路といったインフラへの打撃が大きい。復旧・復興は個々の住宅再建にとどまらず、道路を含めた地域全体の地盤改良や、被災前と地形が変わった部分をどうするかが課題となる。多大な時間や費用を要して生活に大きな影響を及ぼす。なのに液状化被害についての一般的な認知度が低いのは問題だろう。

 今、同じような状況が能登半島地震で見られる。国土交通省によると宅地の液状化被害の推計は、石川県のほかに新潟県富山県の計約1万5千件にも上る。

 岡山県でも1946年に紀伊半島沖を震源に起きた昭和南地震で、県南部の広い範囲での大きな被害が報告されている。岡山市西大寺地区で地面が割れてヘドロ状の泥が噴き出し、地盤は平均で約50センチも沈んだ。倉敷市連島地区では耕地に亀裂が入り、水が噴き出した場所が千カ所にも上った―。もともと海だったのを干拓した地域を中心に被害が広がったとみられる。

 県が2013年に作成した南海トラフ巨大地震による液状化危険度分布図では、地盤が弱いと考えられる県南部の干拓地・埋め立て地や、川沿いの砂地などを中心に「危険度は極めて高い」「危険度は高い」とされている。岡山、倉敷市の人口が密集した市街地を多く含み、極めて重大な影響を受けると受け止めざるを得ないだろう。

 県は「現在、液状化被害の予防対策として完全なものはない」とし、地盤調査の重要性を強調しているが、対策の具体化は容易ではない。能登半島地震の被災地の自治体にも戸惑いが見られ、国、県との勉強会開催やボーリング調査の準備を進めるなどしている。住民の生活再建のために早めの方針決定が望ましいが、見通しは不透明だ。岡山などでも、液状化の知見の収得や態勢整備が求められる。

 

震災後のリクエスト曲(2024年3月11日『山陽新聞』-「滴一滴」)

 

 東日本大震災の後、アニメ主題歌「アンパンマンのマーチ」がラジオで流れ、避難所の子どもが笑顔で合唱したと話題になった。生きる喜びを真っすぐにつづった歌詞は大人の心にも染みた

▼当初、現地のラジオ局は災害情報を伝えるのを中断して音楽を流すことにためらいがあった。リスナーからのリクエストはほとんどなく、選曲にも苦労したという

▼その震災から13年。今年は能登半島で大きな地震が起き、NHKラジオなどが被災地に届けたい音楽を募っていた

▼きのうの悲しみ、流しておくれと歌う岸洋子さんの「夜明けのうた」。日はまた昇る、大丈夫、と繰り返すビートルズの「ヒア・カムズ・ザ・サン」。笑顔はどんな悲しみにも負けない、というフレーズが印象的な小田和正さんの「ダイジョウブ」。リクエストの多くは、東日本大震災などで避難生活を経験した人から寄せられた

▼「ザ・プレイヤー」というセリーヌ・ディオンさんの曲も流れた。盲目のテノール歌手とのデュエットで、被災した障害者を励ます選曲だ。財津和夫さんの「サボテンの花」もあった。失恋の歌だが、長い冬が終わるまでに何かを見つけて生きていこう、と立ち直りを誓う歌でもある

▼少しずつでも、復興への歩みを進めてもらいたい―。それぞれの曲から被災者を応援する気持ちが伝わってきた。

 

東日本大震災13年 重い教訓生かせているか(2024年3月11日『中国新聞』-「社説」)

 きょう東日本大震災から、13年を迎える。元日の能登半島地震を、あの日の記憶と重ねた人も多いはずだ。

 大津波東京電力福島第1原発の事故などが複合した未曽有の災害とはいえ、被災地以外では関心が薄まりつつあったのは否めない。能登の課題を考えるためにも、3・11の現実を見つめ直したい。

 災害関連死を含む犠牲者は2万人近い。2500人以上が行方不明のままだ。ただ宮城県岩手県の被災地で惨禍を実感するのはもう難しい。道路や鉄道、港湾施設などインフラ復旧はおおむね完了して市街地の再生が進み、災害公営住宅なども整備された。

 かといって元の暮らしは取り戻せていない。せっかく津波対策で街をかさ上げしても雇用の先細りもあって人口流出が目立つ。まして福島県原発事故の被災地は、住民帰還と特定復興再生拠点区域の設置による生活再建が緒に就いたばかり。7市町村で帰還困難区域が残り、福島の2万6千人以上が避難を続ける。

 こうした厳しい状況を生んだ3・11の重い教訓を、私たちは生かせているのか。

 能登の被災地に照らせばイエスであり、ノーであろう。確かに津波への備えは進んでいた。13年ぶりに大津波警報が発表されて約190ヘクタールが浸水したが、石川県珠洲市では高台に向かう階段を増やし、いち早く逃げる訓練を重ねていたため住民全員が無事だった集落があると聞く。

 一方で、かつてと同じような事態も繰り返された。例えば、手厚い支援が欠かせない被災者向けの福祉避難所の設置が後手に回ったことだ。3・11において災害関連死の2割以上が障害者だったことを思うと、心もとない。

 また高齢者の住まいを中心に、29年前の阪神大震災を機に強化される前の耐震基準の建物で、倒壊が目立った。津波はともかく、活断層などによる甚大な揺れへの警戒が十分だったとは思えない。

 この13年であちこちの中山間地域は高齢化が加速し、防災力は低下しがちだ。今こそ日本全体で大震災からの警鐘を踏まえ、時代の変化を映して対策を練り直したい。あの日の地震津波で何が起きたのか。どう復興を進め、どこに問題が残るのか。まずは学び直すことも必要だろう。

 津波原発事故を問わず、震災の教訓を伝える施設が東北3県を中心に相次ぎ開館した。「3・11伝承ロード」などとしてネットワーク化されている。震災遺構の活用も広がり、宮城県南三陸町でも存廃が保留となっていた旧防災対策庁舎の保存が決まった。

 半面、施設や遺構の維持費は地元で少なからぬ負担となり、防災学習での証言活動にしても、担い手の高齢化や資金不足に直面するようだ。

 国の復興関連事業の額は、2011年度の9兆円近くに比べると24年度予算案は7%ほどに減った。しかし、こうした地道な活動に、もっと国の支援を考えるべきではないか。いつ、どこで地震に遭うか分からない災害列島に私たちは暮らす。次世代への継承はそれだけ重みを増す。

 

被災者の住まい(2024年3月11日『』-「天風録」)

 入居者は多いはずだが出入りはほとんどなく、ひっそり。10年ほど前、岩手県のある町に訪ねた仮設住宅のことだ。家を流され、家族を失った人が身を寄せた場。だが仮設住まいになじめず、ひきこもりがちだと聞いた

東日本大震災からきょうで13年。東北をはじめ各地の市町村が被災した。40万棟以上が全半壊し、大勢が住まいを失った。仮設に落ち着いても慣れ親しんだコミュニティーではない。心身ともに苦しい日々だったろう

▲そこに「みんなの家」という被災者らの憩いの場ができていく。建築家5人が寄付を募り、住民と話し合って設計した。知らぬ者同士でも語らいやすい場所。「お茶っこ」で高齢者も悩みを語り、励まし合ったに違いない

▲建築界のノーベル賞とされる米プリツカー賞に輝いた山本理顕さんもその一人。みんなの家を釜石市で設計し、ひきこもりや孤立を防ごうと対面で配置する仮設住宅も提案した。一方で復興事業には苦言も。「町の痕跡や記憶まで消してしまった」

▲被災者の住まいをどうするか。能登半島地震でも問われている。「未来の町を提案する責任が建築家にはある」。近く能登を視察する。建築による地域の再生を願う。

 

【大震災から13年】復旧・復興へ長い道のり(2024年3月11日『高知新聞』-「社説」)

  
 東北などを激しい揺れと巨大な津波が襲った東日本大震災から、きょうで13年となる。インフラの復旧が進んだ一方、全国では今も約3万人が避難生活を余儀なくされている。復興への道のりはなお遠い。
 今年の元日には大震災と同じ最大震度7を観測した能登半島地震が発生。いつ襲ってくるか分からない天災の恐ろしさを見せつけた。それぞれの被災地の今を見つめ、南海トラフ地震に対する備えと減災への意識付けを新たにしたい。
 大震災以降、巨大な津波が沿岸部の街や人の営みをのみ込む映像が繰り返し流れた。大震災の犠牲者約1万5900人のうち、9割が溺死。その威力と無慈悲さは強烈な印象を人々に植え付けた。ただ、溺死した人の中にも、つぶれた家で身動きが取れないまま津波にのまれた人も多かったとみられる。
 揺れたら高台へ避難―。大震災の教訓もあって能登半島地震では津波による人的被害は少なかったが、一方で揺れの脅威を再認識させられたのではないか。死者241人(2月末)のうち倒壊家屋の下敷きになった圧死は90人超。救助されるまでに体力を消耗したのだろう。低体温症・凍死も30人以上を数えた。
 まず、本震の揺れをどうしのぎ、命を永らえるか。二つの地震は重い課題を突きつける。命に直結する家屋の耐震化を着実に進める取り組みが欠かせない。
 能登半島地震から2カ月余り。発災後の混乱から、被災地は徐々に復旧・復興の段階へと移りつつある。しかし、ここからが被災者や地元自治体にとって長い道のりとなろう。東北の現状がそれを物語る。
 この13年で災害公営住宅が完成し、復興道路も開通。鉄道もバス高速輸送システムへの切り替えを含めて復旧した。ただ、インフラは整っても人口減少は加速し、地域社会の未来に影を落とす。昨年10月時点の岩手県大槌町の人口は震災前に比べ32%減少。宮城県南三陸町も34%、女川町は39%減った。
 南海トラフ地震に見舞われた場合に、本県でも懸念される現象だ。東北では被災者の生活再建の動きに災害公営住宅の整備が追いつかず、諦めた住民が被災地から流出する一因になったと指摘される。スピード感は重要だ。事前の復旧・復興計画の段階から、できるだけ迅速な対応に向けた備えが求められよう。
 地震そのものの被害に加え、福島県には東京電力福島第1原発事故の影響が色濃く残る。7市町村に帰還困難区域が設定されたままで、被災者の帰還を阻む。避難を続ける約3万人のうち、複合災害となった福島県が2万6千人余りを占める。
 廃炉作業は先行きが全く見通せない一方、昨年8月に始まった処理水の海洋放出は新たな風評被害を生み、中国の輸入停止など漁業者への逆風はなお続く。現在進行形の被害を横目に、岸田政権は「原発回帰」を推し進めている。政府内で原発事故の教訓が先行して風化が進んでいるようにみえる。

 

震災から13年(2024年3月11日『高知新聞』-「小社会」)

  
 東日本大震災当時の報道を思い起こすと、いまも胸がつぶれそうになる。津波にのみ込まれた沿岸の惨禍、原発事故の恐怖、増え続ける犠牲者…。

 そんな中、本紙に載ったある記事に少しほっこりさせられたのを覚えている。岩手県山田町の避難所の一つ大沢小学校。低学年の児童が「肩もみ隊」を結成し、疲れたお年寄りをほぐして回ったとあった。

 多くの人が津波で家族や家を失い、失意の底にあった。それでも物資や食料を持ち寄り、支え合った。子どもたちもつらい中で自分たちにできることを考え、行動したのだろう。

 記事にはないが、当時は5、6年生も奮闘したという。得意の学校新聞を作り、紙面で住民を励まし続けたと、昨年出版の田沢五月さんの著書「海よ光れ!」で知った。「負けるな」「優しい心で」といった見出しが光る。

 執筆した児童はその後、たくましく成長し、地元の漁師や役場職員、警察官などになった。残念ながら学校は児童数の減少で4年前に閉校になったが、メンバーが集まり昨年、号外を発行。住民に語りかけた。ふるさとが困難を乗り越え、復興の道に進めたのはなぜか。「助け合いが人と人とを繋(つな)げていたからだと思います」。

 肩もみ隊も成長し、きっと地域をほぐし続けているに違いない。震災からきょうで13年。地域の結束力が防災や復興の鍵なのは能登半島地震も示す。未来の災害の課題であり、希望でもある。

 

震災から13年(2024年3月11日『西日本新聞』-「社説」)

  
 東日本大震災当時の報道を思い起こすと、いまも胸がつぶれそうになる。津波にのみ込まれた沿岸の惨禍、原発事故の恐怖、増え続ける犠牲者…。

 そんな中、本紙に載ったある記事に少しほっこりさせられたのを覚えている。岩手県山田町の避難所の一つ大沢小学校。低学年の児童が「肩もみ隊」を結成し、疲れたお年寄りをほぐして回ったとあった。

 多くの人が津波で家族や家を失い、失意の底にあった。それでも物資や食料を持ち寄り、支え合った。子どもたちもつらい中で自分たちにできることを考え、行動したのだろう。

 記事にはないが、当時は5、6年生も奮闘したという。得意の学校新聞を作り、紙面で住民を励まし続けたと、昨年出版の田沢五月さんの著書「海よ光れ!」で知った。「負けるな」「優しい心で」といった見出しが光る。

 執筆した児童はその後、たくましく成長し、地元の漁師や役場職員、警察官などになった。残念ながら学校は児童数の減少で4年前に閉校になったが、メンバーが集まり昨年、号外を発行。住民に語りかけた。ふるさとが困難を乗り越え、復興の道に進めたのはなぜか。「助け合いが人と人とを繋(つな)げていたからだと思います」。

 肩もみ隊も成長し、きっと地域をほぐし続けているに違いない。震災からきょうで13年。地域の結束力が防災や復興の鍵なのは能登半島地震も示す。未来の災害の課題であり、希望でもある。

 

東日本大震災13年(2024年3月11日『佐賀新聞』-「有明抄」)

 能登半島地震の復旧作業が続く中、東日本大震災の発生から13年目の「3・11」を迎えた。阪神大震災熊本地震など発生からの年月を数える災禍の多さに、改めて地震列島・日本で生きる厳しさを思う

◆1年前のこの時期、福島第1原発が立地する双葉町を訪ねた。拠点区域の避難指示が解除された町に戻っていた住民は60人ほど。駅舎をはじめ、公共施設や公営住宅などの再建は進んでいたが、街は生活感のない静けさに包まれていた

◆駅のからくり時計は地震発生の午後2時46分を指して止められていた。「動かすべきだという声もあるんですが…」。案内してくれた団体の若い職員は被災地の複雑な思いをのぞかせながらも、「ダルマ市」について笑顔で説明してくれた

◆毎年1月に開かれる伝統行事で、商売繁盛を願ってダルマみこしが練り歩く。神楽や巨大ダルマ引き合戦など、多彩な催しでにぎわうという。震災後は有志によって仮設住宅で続けられ、ようやく駅前で復活したとうれしそうに話した

◆直近の広報誌を見ると、復活して2回目のダルマ市の様子が表紙を飾っていた。先日は郵便局の再開を伝えるニュースも目にした。「復興した」と過去形でいえる状況ではないが、前へ進んでいる。ダルマのように再起して、活気を取り戻してほしい。その歩みは能登の希望にもなる。(知)

 

紡ぎ直される物語(2024年3月11日『宮崎日日新聞』-「社説」)

 当方、60年近く生きてきて、一度も霊やUFOといった類いのものを見たことがない。さりとて言下に否定する気もない。特に霊は周りに見た経験を持つ人があまりにも多く、なおさら否定できないでいる。

 「事実であるかもしれないし、事実でないかもしれないが確実なのは当事者にとって、それは『事実』であるということ」。こう述べるのは、東日本大震災の後に不思議な体験をしたという何人もの遺族たちを取材した、ノンフィクション作家の奥野修司さんだ。

 震災の6年後に上梓(じょうし)した「魂でもいいから、そばにいて」(新潮社)に16の「遺族の体験談」を紹介している。亡き兄の壊れた携帯電話から「ありがとう」のメールが届いた女性、3歳で亡くなった息子の名前を呼んだら、その子のおもちゃの車が突然動き出したという母親。

 取材で奥野さんが感じたのは「最愛の人を失った人の悲しみを癒やすのは、その人にとって『納得できる物語』だ」ということ。その上でこう結ぶ。「不思議な体験はきっかけに過ぎず、亡くなった人との再会により断ち切られた物語は紡ぎ直され、それは他者に語ることで完璧なものになるだろう」。

 取材相手の多くは、自身の体験を他人に話せずにいたようだ。他の震災などでも同様の体験を持ちながら誰にも言えずにいる人は多いのかもしれぬ。そう考えると、そうした話も否定することなく静かに受け止めて聞くということが大事なことに思えてくる。

 

東日本大震災13年 教訓を確認し引き継ごう(2024年3月11日『琉球新報』-「社説」)

 東日本大震災から今日で13年となった。地震の規模を示すマグニチュードは日本の観測史上最大の9.0を記録し、死者1万5900人、行方不明者2520人、震災関連死は3802人に上った。

 東京電力福島第1原発事故の影響で、今も全国で約2万9千人が避難生活を送る。福島県では7市町村で原則立ち入り禁止のエリアが残っている。かつての日常を取り戻す復興の歩みは道半ばだ。
 今年元日には能登半島地震が起き、防災や減災に関する課題が多く浮き彫りになった。原発事故や津波などによって甚大な被害をもたらした東日本大震災の教訓を風化させてはならない。再確認し、将来に引き継いでいきたい。
 東日本大震災が残した大きな教訓の一つが原発に頼らないエネルギー政策、すなわち脱原発である。政府は震災後、「原発に依存しない社会」を掲げ、30年代に「原発ゼロ」を目指すと宣言した。しかし現在、政府は原発利用を推進している。震災の教訓を忘れたのだろうか。当初目標に立ち返るべきだ。
 日本世論調査会による世論調査によると、今後の原発利用について「今すぐゼロ」が4%、「将来的にゼロ」は55%で約6割が「ゼロ」を望んだ。理由を尋ねると「福島第1原発事故のような事態を再び招く恐れがある」が最多で80%だった。政府はこの結果を重く受け止めるべきだ。
 今も課題は山積している。使用済み核燃料、いわゆる「核のごみ」の最終処分地や再処理工場の完成は不透明だ。建設中を含む国内19原発の30キロ圏にある自治体のうち18道府県計109市町村で、地震など災害時の緊急輸送道路が土砂崩れなどにより寸断される恐れがあることが共同通信社の分析で判明した。避難に不可欠な道路整備への十分な財政措置が求められる。東日本大震災の教訓を伝える語り部が、担い手の高齢化や資金難で継続が難しくなっている。
 能登半島地震では、電気や水道といったライフラインの耐震性の強化や、マンパワーや宿泊場所の確保などの課題が顕著だ。東日本大震災の課題と合わせ、行政と民間が一体となって課題の解決に取り組まねばならない。
 一方、沖縄では、最大クラスの津波発生時に被害が想定される「津波災害警戒区域」に、高齢者や障がい者ら「要配慮者」が使用する施設が少なくても628カ所ある一方、避難確保計画の作成は83カ所にとどまることが琉球新報の調べで分かっている。避難所に女性専用避難室などを設けている自治体は3市町村しかないことも判明した。要配慮者や女性の立場に立った避難計画が必要だ。
 私たち一人一人は、沖縄が強い地震や大きな津波に襲われた場合を想定し、普段から備えたい。避難方法の確認をはじめ、水や食料、燃料の備蓄、通信手段の確保などを実行することが肝要だ。

 

次世代に手渡す未来とは(2024年3月11日『琉球新報』-「金口木舌」)

 若い世代でレトロブームが起きている。レコードやインスタントカメラなど、Z世代がアナログに戻ってきた。一度は時代に取り残された商品に新たな価値を見いだしている

▼背景にサステナビリティの視点や生きやすかった時代への憧れがあるよう。新しい基準や価値観を生み出す若い世代から学ぶことは多い
▼こちらの先祖返りはどうか。原子力発電の60年超運転や次世代型原発の建設だ。国策の「核燃料サイクル」の見通しは立たず、核のごみ問題の解決は見えない。国の原発回帰には首をかしげたくなる
▼気候変動対策として脱炭素を図ろうと、欧州でも原発使用への揺り戻しは起こっているようだ。その中でドイツは昨年4月、3基の原発の運転を止め、「脱原発」を実現した
▼きょうで東日本大震災から13年になる。津波によって大事故を起こした福島第1原発廃炉作業は遅々として進まず、完了までの道のりは遠い。大地震原発事故から得た教訓とは何か。次の世代に手渡す未来とは。私たちの世代で考えるべきことがあるはずだ。

 

東日本大震災13年 命守る教訓をつなごう(2024年3月11日『沖縄タイムス』-「社説」)

 防災や避難の在り方から復興まで、未曽有の被害を出した東日本大震災はさまざまな教訓を残した。あれから13年-。私たちはつらい経験を生かすことができるだろうか。

 震災関連死を含む死者数は約2万人に上り、いまだに2500人余りが行方不明だ。

 多くの命が奪われた背景には大規模な津波被害がある。高所への避難が遅れ大勢が波にのまれた悲劇は、三陸地方で受け継がれてきた「津波てんでんこ」の重要性を再認識させた。

 今年の年明け早々に発生した能登半島地震では、この教訓が生かされたケースも。

 石川県珠洲市では、津波被害想定マップを全戸へ配布して毎年訓練を実施した地区で地震発生時、サイレンの音を聞いた住民たちが高台に駆け上がり全員無事だった。

 一方、地震で甚大な被害を受けた自治体では、障がい者や高齢者ら配慮が必要な人たちを災害時に受け入れる「福祉避難所」がほとんど開設されなかった。

 開設場所の施設が損壊・断水したり、職員の被災や避難などで人手不足になったりしたことが主な要因だ。福祉避難所は2016年の熊本地震でも想定の半数程度しか開設されなかった。

 こうした避難所では生理用品やおむつ、粉ミルクなど女性や乳幼児向けの備品が不足したことも課題となっている。

 避難所の指定施設を増やしたり、避難所運営に女性の視点を入れるなど、支援の取り組み充実が求められる。

■    ■

 原発事故と地震の複合災害への備えは不十分だ。

 東京電力福島第1原発の事故を受け、原子力規制委員会は災害対策指針を策定。原発からの距離ごとに住民の避難計画を示した。

 だが、能登半島地震では道路が寸断され、唯一の避難経路が失われた。北陸電力志賀原発でもし事故が発生しても避難できない事態に陥ったのである。

 今年1~3月に共同通信が実施した原発に関する全国世論調査では、原発事故に備えて自治体が定める避難計画を「見直す必要がある」とした人は94%に達している。

 原発事故により福島県では今も7市町村で帰還困難区域が残る。第1原発廃炉の道筋は見えず、除染で出た土などの廃棄物搬出も不透明だ。

 それにもかかわらず岸田文雄首相は原発回帰に転換した。事故の教訓に背を向けているのではないか。

■    ■

 福島の原発事故を受け、各地で避難生活を送る人はいまだに約2万9千人に上る。

 巨大防潮堤を造った宮城、岩手県の沿岸部でも広大な空き地があちこちで見られるなど、生活やなりわいの基盤再建はまだ道半ばだ。

 こうした中、被災者からは記憶の風化を危ぶむ声が高まっている。

 数年おきに大きな地震に見舞われている日本では、未来の命を守るためにも教訓をつなぎ、防災の穴を一つ一つ埋めていく作業が欠かせない。

 全ての地域、人々が震災経験を継承し、減災に向け学びを続けていきたい。

 

東日本大震災13年(上)(2024年3月11日『しんぶん赤旗』-「主張」)

 

高齢化、経営難に寄り添え
 甚大な被害をもたらした東日本大震災原発事故から、11日で13年です。震災に加え、深刻な不漁、コロナ禍、物価高騰の“4重苦”で、住民の暮らしと生業(なりわい)が困難に直面しています。地域の再建・維持に国が責任を果たし続けることは、能登半島地震の被災者も励ますことになります。縮小・打ち切りではなく、被災者の要求に沿った再強化が求められています。

見守り細り増える孤独死

 13年がたつなかで災害公営住宅入居者の高齢化と生活苦がすすみ孤独死が相次いでいます。入居には所得制限があり、もともと自力再建のむずかしい高齢者が多いのに加え、一定の所得を超えると出ていかなければならないため、働き盛りの世代が抜け、見守りやコミュニティーの維持を担う人が減っているのが一因です。

 団地を見回り、支援が必要な人を見つけ、相談にのる生活支援相談員の配置数はピーク時(2016年度)の790人から22年度には296人と半分以下になっています。10年間の復興・創生期間の終了時に相談員の配置事業を打ち切った自治体もあります。岩手県の場合、相談員が配置されている災害公営住宅では、コミュニティー形成の拠点となる集会所の利用が月15~20回あるのに対し、配置のない約7割の団地では月0~2回にとどまっています。すべての集会所に相談員を配置する、入居の所得基準を引き上げるなどで、コミュニティーの維持を図り、孤独死を防ぐ必要があります。

 生活再建のために借りた災害援護資金が返せない状況が生じています。13年間で完済する必要がありますが、22年9月時点で、最初の支払い期日が来たのに滞納している割合が35%、57億円を超えます。死亡などの場合は支払い免除になりますが、国は相続人に返済を求めています。自治体には免除の裁量がありますが、自治体の負担になるので、ためらうのが現状です。国の責任で支払期間延長や免除対象者の拡大を行い、年金生活者など今後も返せるめどがない人は直ちに免除すべきです。

 被災から立ち上がった事業者の経営支援も重大な課題です。中小業者がグループをつくって経営再建を図るためのグループ補助金は地域経済再生に役立ってきました。しかし4重苦のなかで経営がたちゆかず、廃業や倒産に至る例がでています。その場合に、補助金を使った施設・設備を売却・処分すると補助金を返さなければなりません。水産加工などで、取れる魚種が変わって別の機械を買いたくても元の機械を処分できないなどの事態も起きます。実情に即した柔軟な支援で事業者と地域経済を支えなければなりません。

同じ苦しみを繰り返すな

 東日本大震災から13年、阪神・淡路大震災からは来年で30年です。しかし避難所は依然、劣悪で、住宅や事業再建は「自己責任」とされ国の支援は不十分なままです。大規模な復興計画で建設が長引き、よそに移ったまま結局、戻れない事態も防ぐ必要があります。大震災の教訓を総括し同じ苦しみを繰り返させない政治の取り組みが待ったなしです。東日本大震災の復興特別所得税の約半分を大軍拡の財源に流用して国民に増税を押し付けることは許されません。被災者が希望をもてるよう国は抜本的に支援を強めるべきです。

 

(2024年3月11日『しんぶん赤旗』-「潮流」)

 「生きてよかったんだか、悪かったんだか…」「この生活には耐えられない」。東日本大震災のとき、避難所の人たちは絶望と不安のなかにいました

▼水や食料、電気や暖をとるものもない。雑魚寝の床からは寒さがしんしんと。身も心も震える日々だったとふり返ります。生活環境の悪化などによって、およそ3800人が災害関連死と認定されています

▼同じような光景は今も。能登半島地震の過酷な避難状況、心身ともに大きな負担を強いられている被災者。教訓は生かされていません。岩手で避難所生活を経験した女性が思いを寄せていました。「能登は、もっと寒いだろうに」と

▼あの日から13年。原発事故の影響もあり、いまだ3万人近くが故郷を追われています。くらしや生業(なりわい)の再建はきびしく、被災者の孤独死も続いています。宮城民医連の健康調査では、被災者の半数弱が生活は苦しいといいます。医療費を理由に受診を控えることも。重度の抑うつ状態が疑われる人は全国調査の倍以上でした

▼復旧であって復興ではない―。東北の被災地で何度も耳にした声です。つくり直された道路や建物。しかし人々の生活や街のにぎわいは戻らない。震災への不備や対応の冷たさは、いかに政府が苦難にある国民を突き放してきたかを物語ります

▼被災地で必死に生活を立て直そうとしている人たち。生きていてよかった。そう思えるように支え続けることこそ政治の役割ではないか。被災者のありようは、この国の姿勢を映しています。