歴史を学ぶ意義は、先人の功績を知ると同時に、過ちから教訓を得ることにある。今を生きる私たちは歴史を検証し、正しく後世に継承しなくてはならない。
日本政府は推薦見送りを一時検討したものの、自民党内からの後押しもあり、22年に推薦を決定した。
ユネスコの諮問機関は今年6月、金山の説明や展示について、江戸時代だけでなく明治以降を含む全体の歴史とするように求めた。韓国への配慮とみられる。
その後、日本が韓国との協議で「全ての労働者、特に朝鮮半島出身者を誠実に記憶にとどめ、金山の全体の歴史に関する説明、展示戦略を強化すべく引き続き努力する」と表明し、韓国が評価したことで登録にこぎ着けた。
日韓国交正常化60年の節目を来年に控え、関係強化を重視する韓国の尹錫悦(ユンソンニョル)政権の大局的判断もあったようだ。
一連の経緯は、両国の課題を対話によって解決することの大切さを再認識させる。
日本政府は強制労働があったと認めていない。それでも戦時中に朝鮮半島出身者が過酷な労働に就いていたことは事実だ。歴史はこうした負の側面を含めて伝えることで、全体像が明確になる。
それは過去の過ちを繰り返さないために必要なことである。決して自虐史観と呼ばれるものではない。
他国から批判を受けて動くのではなく、政府が主体的に取り組むことを求めたい。
戦時中の「負の歴史」に真摯(しんし)に向き合い、次世代に伝えていく。それが登録の意義をさらに高めることになろう。
併せて、朝鮮半島出身者を含む戦時下の過酷な労働実態について一層の調査や検証を行い、教訓を得る場にしたい。
佐渡金山は「相川鶴子(あいかわつるし)金銀山」と「西三川(にしみかわ)砂金山」で構成する鉱山遺跡だ。17世紀には採鉱の質や量が世界最高水準だった。一方、劣悪な環境下で囚人らが働かされた事実もある。
登録決定までには曲折があった。韓国は「太平洋戦争中に強制労働の現場となった」などと主張し、推薦の撤回を求めた。ユネスコの諮問機関も追加的勧告で戦時下を含む「金山全体の歴史の展示」を求めていた。
佐渡金山の輝かしい面だけでなく、暗い部分にも光を当ててこそ遺産の全容は明確になる。
政府が韓国と対話を重ね、金山全体の歴史を説明する展示などを受け入れたのは妥当だ。韓国は最終的に登録を認めた。近年の日韓関係の改善が歩み寄りの背景にあるのだろう。
課題は残る。登録決定後、現地の施設で「過酷な労働環境」を説明する展示が始まった。
朝鮮半島出身の労働者は日本人よりも危険な坑内作業に従事する割合が高かった―。こうした実態の記述はあるが「強制労働」の文言は使われていない。
政府の「戦時の徴用は国際法上の強制労働には当たらない」などとする見解を反映しているようだが、韓国メディアにはこれを批判する論調も見られる。
強制労働を巡る政府の姿勢は2015年の「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産登録時にも国際的に問題視された。植民地支配の歴史などを絶えず検証する謙虚さが求められる。
加害や差別の歴史から目をそらさない。それは先の戦争を反省し、繰り返さない誓いにつながる。忘れてはなるまい。
新潟県の「佐渡島(さど)の金山」が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録された。登録に慎重だった韓国とも丁寧に交渉した成果だ。歴史認識を巡って波風の立ちやすい両国だが、今後もこうした対話を重ね、尹錫悦(ユンソンニョル)政権の発足を契機とした関係改善の動きをさらに進めたい。
政府は2022年、佐渡金山のシンボルである「道遊(どうゆう)の割戸(わりと)」を含む「相川鶴子(あいかわつるし)金銀山」と「西三川(にしみかわ)砂金山」を世界遺産に推薦した。手工業で金を生産した江戸期の貴重な遺構が今も残る点などをアピールした。
当初、日本側は、江戸期までの金生産に限って登録を目指していたが、ユネスコの世界遺産委員会で委員国を務める韓国は、金山で戦時中、朝鮮半島出身者の過酷な強制労働があったとして強く反発した。実際に、金山に関する地元の史料などには、差別的な労働の実態が記録されている。
以後、この問題は両国の懸案の一つとなり、水面下で交渉が続いていた。その結果、先月の委員会で日本側は従来の方針を改め「全ての労働者、特に朝鮮半島出身者を誠実に記憶にとどめ、金山の全体の歴史に関する説明・展示戦略を強化すべく努力する」と表明。また、朝鮮半島の出身者が危険な作業に従事する割合が高かったとするデータを現地の施設で展示するなどの措置を明らかにした。
韓国側はこの対応を「日本と行った真摯(しんし)な交渉の結果」と評し、登録に同意した。両国がただ批判し合うのでなく、ともに一致点を探った建設的な対話の産物だ。これこそ外交の要諦だろう。
この問題を巡って特筆したいのは、韓国政府の代表が「全ての歴史には光と影があり、遺産はその明るい面と暗い面の両方で記憶されるべきだ」と述べた点だ。
近年の日本では、自国に不都合な史実を「なかったこと」にする動きが顕著だ。だが、それでは他国からの尊敬は望めないし、国の未来を誤らせる一因にもなろう。
日本政府が世界文化遺産に推薦していた新潟県佐渡市の「佐渡島(さど)の金山」について、国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会が登録を決めた。鉱物の採取から製錬までを手工業で担っていた時代の遺構は世界的にも貴重だという。2007年に世界文化遺産に登録された島根県の「石見(いわみ)銀山遺跡」とともに、日本の鉱山技術や文化を世界に発信する遺産として活用したい。
佐渡金山は、相川鶴子(あいかわつるし)金銀山と西三川(にしみかわ)砂金山から構成される。金の採掘は400年以上前に始まったとされ、江戸幕府の下で高純度の金を生み出す伝統的な技術が発展した。17世紀の金山としては質、量ともに世界最高水準だったという。
相川鶴子金銀山のシンボル「道遊(どうゆう)の割戸(わりと)」は二つに割れたような山容で知られる。地表の鉱脈を人力で掘り取った「露頭掘り」の採掘跡だ。山を崩して水で洗い流し、そこから砂金を選び取る「大流し」などの採取方法などもみられた。この時代、世界各地の鉱山では機械化が進んでおり、独自の高度な手作業を伝える遺構はむしろ価値が高い。
佐渡金山の登録で国内の世界文化遺産は21件になった。自然遺産は5件ある。国内第1号となった姫路城などの登録は1993年だが、佐渡で世界遺産を目指し始めたのはその数年後だった。登録は30年近い活動の成果であり、念願がかなった佐渡市民の喜びはひとしおだろう。
日本側は、戦時中を含めた朝鮮半島出身労働者の厳しい就労環境や暮らしの展示・解説を現地で実施することにした。全ての労働者の追悼行事を毎年行う予定であることも明らかにした。これを韓国側が受け入れ、登録は全会一致で決まった。世界遺産を巡って対立が深まれば、改善が進む日韓関係に水を差す恐れもあっただけに、賢明な判断だった。
韓国の指摘を待つまでもなく、鉱山は過酷で危険な労働と切り離せない。朝鮮半島出身者の問題も含め、佐渡金山の歴史の全体像を示す努力が不可欠だ。今回の登録は、産業遺産が持つ「負の側面」にも向き合うきっかけにする必要がある。
新潟県の「佐渡島(さど)の金山」の世界文化遺産への登録が決まった。戦時中に朝鮮半島出身者が強制労働させられたとする韓国側に対し、日本側が過酷な労働環境を地元施設で説明すると表明。これにより国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会での韓国の同意が得られた。
強制労働を巡る問題など日韓には、歴史認識に関する多くの課題がある。間もなく戦後80年とはいえ、戦時中に苦労した人たちの思いを受け継ぐ人も多いだろう。歴史として過去を冷静に受け止めるまでには時間がかかるのは当然だ。
そんな中、世界遺産を巡る日韓の調整で「戦時の徴用は国際法上の強制労働に当たらない」とする日本政府の立場を維持しながら、韓国側と一定の合意ができたのは歴史問題の解決に向けた一つの前進である。これを契機に政府間の話し合いを加速させてほしい。
金山の地元では、佐渡市が運営する博物館で「朝鮮半島出身労働者は、削岩、支柱、運搬などの危険な坑内作業に従事した者の割合が高かった」「ある1カ月の平均稼働日数は28日」などと労働環境を解説するパネルなどの展示が始まった。
世界遺産となったのは、江戸時代の伝統的手工業による金の生産を示す遺跡だけだ。17世紀には世界の金の約1割を佐渡島で生産したという。世界で機械化が進んだ16~19世紀、海外との交易を限定したため独自に進化した結果とも言える。
金山は明治に入ると、急速に機械化が進んだ。民間に払い下げられた後、戦時中には軍需物資の銅を優先して生産し、1989年に創業停止した。この魅力をトータルで伝えるには、江戸に加え、多くの産業遺産がある明治から戦時中、戦後の解説は必須であろう。
世界遺産登録には「地域の活性化につなげたい」(花角英世・新潟県知事)、「訪れてみたいと思われる佐渡をつくりたい」(渡辺竜五・佐渡市長)と期待は大きい。人口減少が続き、国の地方創生策も奏功しない現状では、遺産に懸ける思いが強いのはうなずける。
日本にある世界遺産はこの登録で、文化が2007年に登録された大田市の石見銀山遺跡を含めて21件、自然が5件となった。14年登録の富岡製糸場(群馬県)のように遺産登録の前後に観光客が急増したものの、その後は急減した所もある。
背景には新しい観光の目玉を求める旅行会社の思惑がある。観光バスを使い団体客を送り込み、集客力が落ちると目的地を変える。こんな一過性のブームで今回の登録を終わらせてはいけない。
佐渡島には野生復帰した特別天然記念物のトキが多く生息。日本遺産となった北前船の寄港地など観光資源も多い。旅行者数が限られる中で多くの収入を得るためには、これらを合わせて楽しめる旅行商品をつくり、長期滞在する観光客を国内外から呼び込むことが重要だ。
学校の教育旅行の対象に選ばれるように展示を工夫し、安定的に人を呼ぶのも効果的な方法だろう。リピーターも含めて、持続的に人が訪れる観光地を目指してほしい。
朝鮮半島出身者の強制労働があったとして登録に慎重な姿勢だった韓国が、容認に転じた。
朝鮮半島出身の労働者のデータを、既に現地の施設で展示している。植民地支配の「負の歴史」と向き合い、約束をいかに具体化していくか。政府の責任は重い。
日本は2015年に長崎市の通称・軍艦島を含む「明治日本の産業革命遺産」が世界遺産に登録された際、「犠牲者を記憶にとどめるために適切な措置を取る」と表明して韓国の賛同を得た。その後の展示で、朝鮮半島出身者への差別的対応はなかったとの元島民の証言も公開。これに韓国が「歴史の歪曲(わいきょく)だ」と強く反発した。
佐渡金山の開山は1601年とされる。伝統的手工業により高純度の金を生み出す技術が発展した。政府は江戸時代の遺産的価値を強調している。
当時、幕府の治安対策として、江戸や大坂、長崎で捕らえられた「無宿者」が、強制的に金山に送られていた。坑道の水をくみ出す「水替人足」として酷使され、多くの人が命を落とした。
採掘は明治以降も続き、戦時中多くの朝鮮人が動員された。劣悪な労働実態が県史や地元町史、市民団体の調査などの記録に残る。〈1939年に始まった労務動員計画は、名称こそ「募集」「官斡旋(あっせん)」「徴用」と変化するものの、朝鮮人を強制的に連行した事実においては同質であった〉。88年発行の「新潟県史」の記述だ。
県や市の取り組みも鍵になる。研究者や市民団体の手で、地域の史料や元徴用工らの証言が掘り起こされてきた。説明や展示に生かしてもらいたい。
構成資産の相川鶴子(つるし)金銀山と西三川砂金山は、江戸幕府の下、一つの島で採掘から製錬まで完結した生産システムが整備された。手工業による高純度の金を生み出す技術を16~19世紀に発展させ、17世紀には世界屈指の質、量を誇った。他に類がない価値と認められたのは朗報である。
2010年に国内推薦候補とする暫定リストに記載された。ここから今回の決定まで複雑な経緯をたどったのは、日韓の政治対立が持ち込まれたからにほかならない。
佐渡金山で戦時中に働いた朝鮮半島出身者に関し、韓国政府は強制労働があったとして当初、撤回を求めた。日本政府は今回、労働者が過酷な環境に置かれ、朝鮮半島出身者が危険な作業に従事する割合が高かったと説明する展示を、佐渡の施設に設けた。
日韓が合意して登録に至ったのは前進だ。今年6月、事前審査したユネスコ諮問機関が追加説明を求める「情報照会」とした勧告で示唆したように、戦時中の「負の遺産」にも向き合い、金山全体の歴史を伝えてこそ世界遺産の意味があろう。近年の良好な関係を追い風に、双方が歩み寄った発信を求めたい。
世界遺産を舞台に、日韓が歴史を巡って対立し始めたのは、15年にさかのぼる。
この年に登録された「明治日本の産業革命遺産」で、韓国政府は炭鉱のあった長崎市の端島(はしま)(通称・軍艦島)などで強制労働があったとして反対した。日本政府は登録時の勧告で、歴史の全貌が分かる説明を求められ、適切な対応を約束した。だが差別がなかったとする展示物も掲げて、韓国側の反発を招いた。
しかし日本政府は見送りを検討しながら、自民党保守派が「歴史戦」「国家の名誉に関わる」と反発したのを受けて一転、推薦を決めた。岸田政権が党内で一大勢力だった保守派の意向をくんだ側面があろう。佐渡金山の歴史、文化的な価値や、韓国側の指摘についての誠実な議論は乏しく、政治的な思惑で登録を押し進めたといえよう。