<戦後79年 20代記者が受け継ぐ戦争㊤>前東京本社整理部(現春日井支局)・伊藤純平記者(23)
無数の銃弾が頭上を飛び交う中、先輩の兵が伏せると伏せ、進めば後を付いていく。無我夢中だった。地面のくぼみに隠れていると突然、目の前に故郷の神社が現れた。出征の際に家族が「万歳、万歳」と送ってくれた光景とともに。それは極限状態に追い込まれた末の幻だった。
出征時の写真や部隊の行動記録の資料を前に、戦場での体験を語る小野口博さん㊧=栃木県鹿沼市で
栃木県鹿沼市の小野口博さん(99)は「戦争と歩み、戦争にささげた青春時代。今思えば、軍国教育で洗脳されていたんだね。恐ろしいことだよ」と力を込めた。
◆軍国教育に洗脳され・・・届いた赤紙が「うれしくて」
鹿沼市で生まれ育ち、6歳で満州事変、12歳で日中戦争が勃発。太平洋戦争が始まったのは16歳の時だった。学校には毎日、陸軍の配属将校が訪れ、竹やりでわら人形を突き、焼夷(しょうい)弾の火を消すバケツリレーの訓練をした。将校や校長から、天皇のお言葉や戦況報告を聞き、「お国のため」に戦う覚悟を植え付けられた。
配属将校 軍事教練のため、中等教育以上の学校に配属された陸軍現役将校。戦時の大動員に備えた予備士官の確保を目的に、1925年に陸軍現役将校学校配属令が公布され、配属が始まった。第1次世界大戦後の軍縮の流れの中で、同年に宇垣一成陸軍相が行った「宇垣軍縮」による陸軍将校の失業を防止する目的もあった。学生らによる反対運動もあったが、終戦まで続いた。
1945(昭和20)年3月、自宅に赤紙(召集令状)が届けられた。戦況の悪化に伴い、徴兵年齢は満19歳に引き下げられていた。「うれしくて、親戚中を巡ってね。千人針や寄せ書きを作ってもらい、『家をよろしく頼む』って。名誉なことだと思っていたんだよ」。目指したのは中国山東省の最前線。日の丸の旗を体にくくり付け、博多から釜山を経由し、中国の青島(チンタオ)近くの高密に到着した。
配属されたのは北支那方面軍第12独立警備隊の部隊の一つ。十分な訓練も受けられないまま、入隊わずか1カ月で前線に送り込まれた。戦闘はほとんどが夜間に行われた。敵陣に小さな光が見えると発砲音が響いた。敵兵の姿が見えない中で闇に向けて銃を撃った。
◆銃弾が足を貫通・・麻酔や鎮痛剤なく激痛耐えた
ある日、分遣隊が襲撃されたとの知らせを受け、現場に向かった。塹壕(ざんごう)で応戦中に側面攻撃を受け、銃弾がくるぶしの後ろを貫通した。「私はまだ当たり所がよく、命は助かった。腹を撃たれた先輩の2年兵は『ううっ』と倒れ込み、そのまま亡くなった」
撃たれた瞬間は不思議と痛みを感じなかったが、靴が血まみれになっていることに気付くと、痛みは全身に広がった。前線から退き、青島の病院に入院した。麻酔や鎮痛剤はなく、傷口にガーゼを詰めて当て木をするだけの簡素な治療だった。「ガーゼの交換はこれ以上ないほどの痛みで、いまだに忘れられない。肉にくっついているガーゼを引っ張り出すわけだから」。破傷風にかかって足を切断する恐怖と戦いながらも必死に耐え、45日後に部隊に復帰した。
終戦間際、部隊への補給が断たれて食料がなくなり、遠くに見える集落から食料を調達してくるよう命じられた。民家に押し入ると、老夫婦が自分に向かって手を合わせて拝んでいた。「とてもじゃないが、何も奪えませんよ。班長には怒られたけどね」
終戦の知らせは翌8月16日に部隊に届いたが、故郷には戻れなかった。当時、旧日本軍の一部部隊が独断で中国の国共内戦に関与した。自身も上官に命じられるまま巻き込まれた。先日まで敵だったはずの蔣介石の国民党軍に協力することになった。鉄道の警備に当たり、毛沢東が率いる共産党軍に応戦した。「もはや『お国のため』でもなかった。そこで戦死した仲間は、さぞ無念だったでしょう」。終戦から5カ月後の46年1月、青島で武装解除され、ようやく帰国の途に就いた。
◆「勝っても負けても、ひどい目に遭うのは国民」伝えたい
「つらい経験を思い出すので以前は話したくなかった。でも、当時の中国で何があったかを知っている人は少ないでしょう」。90歳の時、地元で語り部の活動を始めた。硫黄島での経験を伝える人に出会ったことがきっかけだった。「戦争は勝っても負けても惨めで、ひどい目に遭うのは国民です。今の平和を守っていけるように若い人にも伝えたい」。そんな思いを胸に、自身の経験を伝え続けるつもりだ。
小野口さんがはきはきと話し、畑仕事もこなす姿に驚いた。印象的だったのは、何度も口にした「戦争ほど愚かなものはない」という言葉。軍国教育の罪深さ、過酷な戦場の現実を教わった。終戦後も戦いを強いられた人がいたことも初めて知った。戦争経験者の心と体に刻まれた傷が消えることはない。戦争をしないために、その思いを受け継いでいきたい。
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