震災3カ月に考える 百年後の能登つくろう(2024年4月1日『東京新聞』-「社説」)

 
 大震災から10年、とある町の神社総代が賽銭(さいせん)箱に入っていた百万円に驚き、寺の和尚を訪ねる-。福島県三春町の僧侶兼作家玄侑宗久さんの短編『火男(ひょっとこ)おどり』は、こんな話から始まる。さて、そんな多額の賽銭を一体誰が?
 その年は新型コロナウイルス禍のため伝統祭事ダルマ市での踊りは中止に。しかし復興住宅に移り住んでいる80代の古老が一人、道端で踊りだした。町の人々に溶け込んで習った「火男おどり」だ。和尚はその様子を見て、百万円の主が、その古老だと直感する…。

「日常」に100万円の価値

 玄侑さんは東日本大震災復興構想会議で、福島を追われた人々がまとまって住める新たな自治体をつくれないか、と提案したが、議論は深まらなかった。小説は「実話がベース」と玄侑さん。「古老にとっては、踊りを教わるなど、近所の人たちと気兼ねなく話す何げない日常に、百万円の価値があったのです」
 阪神大震災東日本大震災の復興住宅では今も孤独死が続いている。累計で阪神は千人、東日本は500人を超えるという。維持されていたコミュニティーが住民の高齢化で消滅する例もある。
 高齢過疎地を襲った能登半島地震の発生から3カ月。仮設住宅の建設が急ピッチで進むが、元の集落に建てられるとは限らない。地元を離れた2次避難者には集落単位で暮らす人たちがいる一方で、ばらばらになった人も多い。
 いずれ、できるだけ元通りの帰還を実現するためにも、避難先で「絆」を保つことが重要だ。顔見知り同士集まる機会を設けたり、全国に散った住民とも会員制交流サイト(SNS)で情報共有できるような仕組みを工夫したい。
 石川県は「必ず能登へ戻す」を合言葉に、「創造的復興」を掲げる。人口減少など課題を解決しつつ能登ブランドをより一層高めることを狙う。
 阪神、東日本の理念も創造的復興だった。関東大震災で帝都復興院総裁の後藤新平が取り組んだハード優先の計画が原点だろう。だが福田徳三東京商大(現一橋大)教授が生活や生業の再建を重視する考え方、「人間の復興」を唱えたことも忘れたくない。

創造的復興VS人間の復興

 無論、道路や水道などインフラの復旧は不可欠だ。だが、ハード面ばかりに目を向け、あれもこれもと「惨事便乗型」の公共投資を集中させることは、真の復興を進めることにはつながるまい。
 阪神では神戸市新長田地区の再開発に巨額を投じたが、地権者の半数しか戻らず300億円を超える赤字に。「復興災害」とまでいわれた。東日本では国土強靱(きょうじん)化として総延長約400キロの防潮堤など公共事業ラッシュとなったが、被災者に直接関係しない分野での無駄遣いも明らかとなっている。
 身の丈に合った復興を進められるのは地元住民や首長にほかならない。石川県は有識者会議を設けて助言を請うようだが、地域の細かな“襞(ひだ)”を理解するのは容易でないだろう。
 東日本で「復興のトップランナー」といわれた宮城県女川町は好例だ。コンセプトは百年先の子孫に誇れるまちづくり、ルールは「還暦以上(の町民)は口を出さない」。防潮堤は必要だが、海とともに生きてきた住民にとって海が見えない町はあり得ない選択。結果、防潮堤と同じ高さに後背地を盛り土することで、事実上「防潮堤のない町」を実現した。
 おかげで今も高台の各家から日の出が拝める。他にも、駅を木造で復活させたり、海を望む坂道に木造平屋の商店街を設けたり。そこにはU・Iターンで出店する人も出てきた。震災後に激減した人口は増加に転じている。「人間の復興」を実践したと言えよう。
 重要なのは住民の自発性だ。能登にも頼もしい動きがある。石川県珠洲市出身の大学生たちがシンポジウム「これからの珠洲の話してみんけ?」を始めた。地元住民約40人が参加し、「2030年の珠洲像」を用紙に書きだすと、珠洲で暮らす決意や生きがいが並んだ。シンポを続けるうち、将来のまちづくりが見えてこよう。

「生きがい」取り戻したい

 「人間の復興」とは生きがいをどう取り戻すかだとも言える。能登の人々は住み慣れた土地で顔なじみの人たちと日常を送ることが生きがいだった。移住者も人々の優しさになじんでいた。そうした絆を守り、次代につなぎ、里山里海に息づく生活や伝統を維持した「百年後に誇れる能登」をつくりたい。輪島高の卒業式で、平野敏校長が語った言葉が耳に残る。
 「輪島に残る皆は一緒に新しい街つくろう。いったん離れる皆はいつか輪島に帰っておいで。驚く街をつくって待っとるし」