大震災13年 地域の人口減とどう向き合う(2024年3月11日『読売新聞』-「社説」)
◆東北の経験を能登に生かしたい◆
東日本大震災は、過疎が進む地域で大災害が起きた時、街並みや産業の再興がいかに難しいか、という現実を浮き彫りにした。東北の経験を能登半島地震の復興に生かしたい。
2万2000人を超える死者・行方不明者を出した東日本大震災から13年となった。津波の被害が大きかった岩手、宮城両県の沿岸部では、住宅の再建や道路・鉄道網などの整備がほぼ完了した。
東京電力福島第一原子力発電所の事故で住民らが避難を余儀なくされた福島県の被災地でも、街の中心部などで除染が進んだ。避難指示が徐々に解除され、住めるエリアは広がりつつある。
◆産業の創出がカギだ
人々の生活に欠かせないインフラはひとまず整備された。しかし、被災地には思うように人が戻っていない。国勢調査では、被災3県はいずれも全国水準を上回るスピードで人口減少が進んでいる。
原発事故の影響で居住者が激減した福島の沿岸部だけでなく、宮城や岩手でも人口が3~4割減った自治体がある。過疎や高齢化が進む地域で震災が起き、復興事業が長引く間に人口が流出した形で、見過ごせない。
被災地では、産業を発展させ、住民が働ける場所を確保することが重要だ。移住者や観光客を呼び込めるかどうかも問われる。
東北沿岸部の基幹産業である漁業は近年、海水温の上昇により、主力のサンマや秋サケが記録的な不漁となっている。
こうした状況を打開しようと、岩手県大槌町などでは漁協と水産業者が協力し、ギンザケやトラウトサーモンの養殖を進めている。地域で知恵を絞り、新たな特産品を生み出す試みに期待したい。
雇用の創出に関しては、ロボットや航空宇宙など最先端の産業を原発周辺の地域に集積させる国家プロジェクト「福島イノベーション・コースト構想」などを着実に進める必要がある。
今年の元日に起きた能登の地震は、過疎や高齢化の目立つ地域が津波に襲われたという点で東日本大震災と重なる部分も多い。東北の被災地の歩みを参考に、息の長い支援を続けることが大切だ。
復興に向けたまちづくりを進める上でも、東北の教訓は重い。
◆街の将来像を具体的に
13年前の津波で壊滅的な被害を受けた宮城県南三陸町は、復興の過程で、19ある漁港の統廃合を計画したが、地元の反対もあって実現できなかったという。
国の手厚い支援で、個々の漁港は再建できたが、今度はそれらの維持管理費が重くのしかかる。
佐藤仁町長は「人口減を見据えて、コンパクトな街にするべきだった」と自戒を込めて振り返りつつ、「能登には輪島塗があり、観光や伝統文化がある。そうした産業を再興すれば人は必ず戻ってくる」と助言している。
能登の再生にあたり、石川県の馳浩知事は「創造的復興」を掲げている。単に地震前の姿に戻すのではなく、人口減の時代に合わせて街を進化させていくという考え方だ。この視点は重要だろう。
県は5~6月にも復興計画を策定するという。住民が前を向くには具体的な将来像を示す必要がある。県と地元自治体は、住民の声を聞きながら、共にまちづくりを進めてもらいたい。
東日本大震災では、1995年の阪神大震災で芽生えたボランティアの活動がさらに広がり、個人だけでなくNPOなど多様な団体が駆けつけた。団体同士で役割を分担し、被災者のニーズと団体を調整する工夫も生まれた。
能登では今も、壊れた自宅で暮らす住民が多数いる。物資の配布や家の片付けなどボランティアの需要は高い。東北の被災地からもボランティアが参加し、過去の知見を生かして活動している。
東日本大震災の被災地、宮城県東松島市は、災害ごみを分別してから仮置き場に運ぶ「東松島方式」で、作業の効率化に成功した。
作業員に被災者を雇用し、津波で仕事を失った人の収入源にもなったという。こうした手法も能登で一考に値するのではないか。
◆課題は全国に通じる
東北の被災地が直面する課題は能登だけでなく、日本の各地域が向き合うべき問題でもある。
少子高齢化の時代に、地場産業や文化の振興、子育て環境や医療体制の整備はどうすべきなのか。自分たちの街が大地震に見舞われた場合、どう立て直すのか。
国や自治体は、東北や能登の被災地を支援する中で、課題解決への知見を地元に持ち帰り、防災や街の活性化につなげてほしい。
東北の復興支え次の震災に生かせ(2024年3月11日『日本経済新聞』-「社説」)
東日本大震災から13年を迎えた。未曽有の大災害が被災地に残した痛みはいまなお癒えず、2万人に及ぶ犠牲者に心から哀悼の意をささげたい。復興途上にある東北の被災地をしっかりと支え、さらにその教訓を来たるべき次の震災への備えに生かすことが、尊い犠牲に報いることになろう。
宮城、岩手両県では復興が進むにつれて復興住宅の空室が増えた。高齢の被災者の孤立が課題になっている。心のケアをいっそう充実させてほしい。
廃炉作業はヤマ場に
福島県では東京電力福島第1原子力発電所の事故で避難を強いられた沿岸部の復興が緒についた。駅周辺などを特定復興再生拠点区域として除染し、役場や店舗などが再開した。助成金の手厚さもあり、企業の立地や若い世代の移住が増えているのは心強い。
ただ避難先で生活基盤を築いた被災者の戻りははかばかしくない。それでも政府は希望者が全員戻れるようにする方針だ。そのために除染する特定帰還居住区域の設定も始まった。
除染やインフラの維持を考えれば、できるだけまとまって住むのが望ましいが、すでに居住区域はまばらに広がる傾向がみられる。希望者が少ないなかでの居住地域の拡大は慎重に考えたい。
こうした地域の復興は、近くにある福島第1原発の廃炉のゆくえと表裏一体だ。廃炉は30年近くかかる長丁場で、ささいなミスでも深刻な放射能事故につながりかねない。処理水の海洋放出は始まったが、ヤマ場はこれからだ。
最大の難関とされるデブリ(溶け落ちた核燃料)の取り出しは今秋にも着手する。3基同時に炉心溶融した原発の廃炉作業は過去に例がなく、技術的課題も多い。
福島県内の除染で出た土の最終処分に道筋をつける必要もある。中間貯蔵施設にためた除染土は東京ドーム11個分あり、これを2045年3月までに県外に搬出する。政府が前面に出て全国規模で支援する仕組みを構築すべきだ。
今年は元日に能登半島地震が起きた。奥能登では、押しつぶされた家屋と倒壊を免れた住宅が隣り合っているのを目にする。耐震補強の有無が明暗を分けたのだろう。地震対策はまず耐震改修や地震保険への加入、十分な備蓄といった自助努力が肝要である。
能登の復興で生かすべき東北の教訓は持続性の高い街づくりだ。観光などで民間投資を呼び込める地域産業のあり方と、人口減少を考慮したコンパクトな街づくりを構想することである。
宮城県女川町は居住地を高台に移し、港周辺で若い世代を中心に観光の街づくりを進めている。当初は住民が流出し、20年分の人口減少が数年で一気に進んだ。その後は観光地として投資や移住が増え、人口減は鈍化した。街の持続性は高まったといえよう。
東北の復興に携わった岡本全勝・元復興次官は「街の将来を担う若者のいる市街地や中心集落は残すべきだが、高齢者がほとんどの小さな集落は集約することもやむを得ない」と提言する。東北には300を超える集落移転の事例があり、参考にしてほしい。
東北では人口の見積もりが甘く、防潮堤が守る地区やかさ上げした土地に空き地が目立つ。自治体は住民をとどめようと復興を急ぐが、当初は戻りたいと考えた住民も冷静に将来を考える段階になると心境を変えがちだ。丁寧に住民の意向を確かめ、長期的な視点で街づくりを考えたい。
「事前復興」を進めよう
住民の流出を防ぐには、被災したらどうするかを発災前に自治体と住民が話し合うのがよい。「事前復興」と呼ばれる取り組みだ。
南海トラフ地震で20メートルの津波が想定されている徳島県美波町は、東日本大震災後、住民に被災したらどうするかの意向を調査した。どの程度の住民が残るかを把握し、それに基づいて仮設住宅を建設する高台の整備を始めている。
人口減少が進む地域が被災すると、その傾向は加速する。事前復興は将来の街の姿を考えることであり、人口減少という「静かなる危機」への備えになる。
復興のあり方を平時から考えておくことは国レベルでも重要だ。東日本大震災では、津波被災地でインフラ投資が過大になる一方、原発事故の被災地では今後も廃炉費用が膨らむ。災害時は思い切った政策判断をしがちであり、平時に戻っても修正が効きにくい。
南海トラフ地震も、首都直下地震もいつ起きてもおかしくない。災害時は備えてきたことしかできない。それが過去の教訓である。
東日本大震災から13年を迎えるのを前にJR双葉駅前でキャンドルが灯された。能登半島地震の被災地へのメッセージが書かれたキャンドルも置かれていた=10日午後、福島県双葉町(鴨川一也撮影)
13年がたった。
死者 1万5900人
行方不明者 2520人
震災関連死 3802人
決して忘れることはできない、忘れてはならない「鎮魂の日」である。
津波に襲われた岩手県釜石市で高校教師をしていた照井翠さんは、発災日の夜に避難所の外で仰いだ星空をこう詠んだ。
<春の星こんなに人が死んだのか>
鎮魂と再生決意新たに
沿岸部の家々は津波にのまれ、東京電力福島第1原発事故による避難指示が出され、発災後の避難者は全国で最大47万人にも上った。家族や友人を失い、生活の基盤を奪われ、故郷を離れざるを得ない過酷な状況に多くの人々が直面した。
その困難から立ち上がり、再生と復興に向け歩む人々を、支え続けていきたい。一人一人が震災を忘れず、できる貢献を続けたい。きょうは、その決意を新たにする日でもある。
一方、今も2万9千人を超える人が避難生活を余儀なくされている。仮設住宅で暮らす多くの人がいる。福島県では7市町村の一部にまだ帰還困難区域が設定されており、原則立ち入り禁止の状態だ。被災地の復興と再生はまだ途上である。
だが、再生と復興に時間を要するほど、被災地では人口流出に拍車がかかっている。創造的復興を掲げて進められた大規模事業には時間がかかり、そうした地域に戻った人は少ない。岩手県の沿岸12市町村の人口は震災前の平成22年からの10年間で約1 7%も減少した。宮城県女川町では36%、南三陸町は30%という大幅な減少だ。
復旧復興を急ぎすぎれば住民不在に陥りかねないが、時間がかかりすぎると住民は戻らない。ふるさとの未来図が見えない中では、被災住民が「戻る」選択肢を選び、生活を立て直していくのは容易ではない。 この教訓を、元日に起きた能登半島地震の復興に生かしたい。能登では道路などのインフラ被害が大きく、復旧には時間がかかる見通しだ。石川県は復興プランの最終案を5月中にもまとめる方針だが、輪島港は地盤の隆起で船が出せなくなっている。なりわいやにぎわいをどう取り戻し、被災者の「戻りたい」を叶(かな)える再生と復興を進めるか。東日本の教訓を、能登の被災地に生かしたい。
東日本大震災の直接的な犠牲者のほとんどは、激しい揺れの後に襲った大津波にさらわれた。警察庁の調査では、検視した1万5786体の91%が溺死で、大半は65歳以上だった。避難できずに死亡した高齢者が多かったとみられる。
津波から命を守る手段は「避難」しかない。規模や被害の大小を吟味してからではなく、まず避難することが不可欠だ。東日本大震災では第一報の発表後、津波の予想波高の上方修正があった。能登半島地震でも警報が大津波警報に切り替えられるなど、初期情報には不確実性がある。だからこそ、この鉄則は後発地震や津波の恐れがある地域だけでなく、全国各地で徹底される必要がある。
避難の徹底で命を守れ
大震災の猛威を何度も目の当たりにするうち、私たちはその惨状にさえ慣れてしまう。それは「ひとごと」になるうちに「無関心」になり、風化へとつながる。東日本大震災を風化させてはならない。
政府中央防災会議は津波被害を含め日本海溝地震で約19万9千人、南海トラフ地震では約32万人の死者が出ると想定する。一方、早期避難や耐震化率向上などの対策で人的被害を8割減らせるとも試算する。避難行動とその意義を伝え、意識を高く持ち続けなければならない。
照井さんの句を改めて引く。
<三月の君は何処(どこ)にもゐないがゐる><春光の揺らぎにも君風にも君>
かけがえのない大切な人を思わぬ日はなく、忘れることなどできない。悲しみや辛(つら)さ、苦しさがなくなることもない。
福島県双葉町に昨春、新工場を建設した撚糸(ねんし)加工「浅野撚糸」(岐阜県)の浅野雅己社長は8日に開かれた政府の復興推進委員会で、新工場を訪れた高校生に「復興とは」と尋ねられた女性新入社員が「私がここにいることです」と答えたエピソードを語った。
その覚悟を、全国民で共有したい。ともに歩み、支え、教訓を伝え続ける。それは、今を生きる私たち皆の責務である。
震災を伝え続けるために(2024年3月11日『産経新聞』-「産経抄」)
【東日本大震災13年】岩沼市の千年希望の丘で行われた追悼行事では約530基の灯ろうが点灯された=10日午後、宮城県岩沼市(鴨志田拓海撮影)
言葉を生業(なりわい)にしていてなんだが数字の力に、より幅広さを感じることがある。例えば1・17の神戸、3・11の東北、そして能登の1・1。それは自然と意味を持って単に日付の記録にとどまらない。簡潔なだけに記号化されて周知のごとく日々に定着する。
▼その3・11から13年の早春である。災害が相次ぐ昨今、「傾聴」という言葉を耳にするようになった。耳を傾けて聴く。辞書には熱心に聴く、共感をもって聴くなどとある。古めかしいが、どこか優しい敬意を含んでいる。
▼作家、いとうせいこうさんの新著『東北モノローグ』でその味わいを実感した。東日本大震災に関わるさまざまな記憶が、17人の一人称語りで再現されている。農家や消防士もいれば元新聞記者もいる。一人一人の話を〝聴〟いて背後にあろう何万もの物語にも改めて気づいた。
▼少し引かせていただく。切実だったのは宮城県の「在宅被災者」の男性だ。能登半島地震でもまたクローズアップされているが、彼の場合10年以上たった今も壊れた家で暮らしている。なぜかと問われ「お金がないから。支援が足りてないわけ」と答えた。「もう自分でも諦めてんだ。死ぬまでこのまんまだ」と。
▼聞き手のいとうさんは本紙文化面のインタビューで「今までの十数年とこれからの何十年かの年月の重みが見えてくる」と語った。震災はずっと続いていることを忘れてはならない。
▼千人いれば千通りの被災がある。数字の向こうの生身の話に真(しん)摯(し)に耳を傾けなければ何も見えない。伝え続けることもやめるわけにはいかない。そうだ、そのために言葉があると思い至る。父を亡くした語り部の女性が伝えたいとこう言った。「命が当たり前じゃないってこと」
3・11から13年 能登半島からの警告(2024年3月11日『東京新聞』-「社説」)
「原子力災害対策指針については、特にこの地震を受けて見直さないといけないところがあるかというと、私はないと考えています」。原子力規制委員会の山中伸介委員長は、1月末の定例記者会見で、こう述べました。
北陸電力志賀原発のある石川県・能登半島。地震による道路の寸断=写真、志賀町=や家屋の倒壊などにより、原発事故で放出される恐れのある放射線から逃れることの難しさがあらためて浮き彫りになりました。
ところが規制委は、その現実を見た後でも、見直しは微調整にとどめ、「避難と屋内退避を適切に組み合わせることで、被ばく線量を抑える」という原子力災害対策の基本方針を維持していくというのです。
文字どおりの当事者である志賀町の稲岡健太郎町長が、同じ現実を見て、再稼働容認から慎重へと態度を変えたのとは対照的です。規制委の姿勢には当事者意識が希薄、いや、どこか他人事(ひとごと)の感じさえ漂います。
2011年の福島第1原発事故の際には、避難先や避難ルートなどがあらかじめ決められておらず、特定の施設に避難者が集中したり、道路が渋滞したりするなどの混乱が生じ、多くの周辺住民が長時間、被ばくの危険にさらされました。それを教訓に翌12年、発足したばかりの規制委が策定したのが、原子力災害対策指針。県や市町村はこの指針に基づいて、地域の実情に応じた防災計画や広域避難計画を定めています。
現行の指針では、大量の放射性物質が外部に飛散するような原発事故が発生した場合には、渋滞などの混乱を避けるため、原発から5キロ圏内の住民の避難を優先し、5~30キロ圏内は、放射線量が一定量を超えるまでは屋内退避としています。
しかし、能登半島を襲った地震の猛威を考えれば、それはとても現実的とは言い難い。
土砂崩れや路面の崩落、ひび割れなどが相次ぎ、志賀原発周辺では、県が原発災害からの避難ルートと定める国道や県道11路線のうち、7路線が通行不能。避難ルートにつながる町道なども各地で寸断され、30キロ圏内の同県輪島市と穴水町では8集落で435人が孤立状態に陥りました。
◆現行指針は通用するか
今月はじめ、志賀原発の正門前から輪島市方面に車を走らせました。国道249号を北上する県の避難ルートです。発災から2カ月以上たち、通行止めこそ解消されていたものの、路面はパッチワークのように応急の補修が施され、ひび割れや段差も目立ちます。
傾いた信号の下をくぐって峠道に入ると、ところどころに土砂崩れの跡があり、復旧工事のための片側交互通行区間が続きます。地震直後、その上、雪でも積もっていたら…。有事の際の大混乱は、想像に難くありませんでした。
さらに屋内退避の前提も崩れたというべきでしょう。
石川県によると、住宅被害は志賀町だけで6400戸以上。原発事故に備え、被ばく対策を施した学校や病院などの「放射線防護施設」も、30キロ圏内にある21施設のうち6施設で損傷や異常が生じ、2施設は閉鎖に。すべての施設で断水になりました。万が一の時、乳幼児や高齢者、傷病者らが一時避難する先に想定されている施設が、こんな状況なのです。
この現実が語っているのは、リアルな災害時に現行の指針は通用しない-ということなのではないでしょうか。抜本的な見直しが必要と考えるのが自然でしょう。
無論、能登半島だけの問題ではありません。日本の原発のほとんどが半島の付け根や先端など交通網の脆弱(ぜいじゃく)な海沿いの過疎地に立地しています。柏崎刈羽、伊方、浜岡、島根…。避難の実効性を疑う声が各地から聞こえてきます。
◆立ち止まって考えよう
政府はもう「福島の教訓」を忘れたらしく、昨年、「原発復権」に大きくかじを切りました。
能登半島地震の発生から13日後、ようやく被災地を訪れた岸田文雄首相は、志賀原発の再稼働について記者から問われ、「新規制基準に適合すると認めた場合のみ、地元の理解を得ながら再稼働を進める方針は変わらない」と答えています。やはり、現実を見ていないとしか思えません。
あの大震災から、今日でちょうど、13年。危険な「非常口なきマンション」に国民を住まわせ続けてよいわけがない。一度、立ち止まって考えよ-。「能登半島からの警告」ではないのでしょうか。
『審判』などの作家、フランツ・カフカがある日、公園で泣いて…(2024年3月11日『東京新聞』-「筆洗」)
『審判』などの作家、フランツ・カフカがある日、公園で泣いている少女に出会った。大切な人形をなくしたという。一緒によく捜したが、見つからなかった
▼翌日、カフカは人形から預かったと一通の手紙を女の子に手渡した。「悲しまないで。世界が見たくて旅に出ました。また手紙書きますね」。別の日には「学校に入って、いろんな人と出会いました」。また、別の日には「あなたが大好きです」-。もちろん手紙はカフカが書いていた。カフカと交際のあった女性の回想に基づく物語だそうだ
▼東日本大震災から13年となった。ハクモクレンが真っ白な花弁を広げるころだった。震災の日にカフカの手紙の温かさを思う
▼真偽は分からないが、カフカは作品の執筆以上に手紙に熱心だったそうだ。何かを失う。誰かと別れる。女の子の悲しみが寂しい幼少期を送ったカフカにはよく分かっていたのだろう。あの手紙のようにわれわれは震災の痛みの背を今もさすり続けているか。もう大丈夫と決めつけてはいないか
▼現地の痛みは歳月の分、薄らぐことはあっても帰らぬ人、かつての故郷を思い出せば、その悲しみは何年たとうと消えることはあるまい
▼遠ざかる記憶に被災地への関心や思いやりまで遠ざけたくない。わが身に置き換え、あの日起きたことを思い続ける。それは決して災害への備えとも無関係ではあるまい。