13回目の追悼・誓いの日を迎える。年明け早々の能登半島地震は、いつ大きな地震に直面してもおかしくない現実を突き付けただけに、今年の3.11の意味は重い。被害を最小限に抑える備えと行動をあらためて学び直したい。
東日本大震災・東京電力福島第1原発事故という未曽有の複合災害は、震災関連死を含め死者2万人弱、行方不明者2500人余り、いまだに避難を余儀なくされているのは約3万人と甚大な被害をもたらした。インフラやハード面の復旧は原発周辺を除き完了したものの、福島県の7市町村で帰還困難区域が残っている。
政府は2021年からの5年間を「第2期復興・創生期間」と位置付ける。
ただ、宮城、岩手県の沿岸部でも、かさ上げされた広大な空き地があちこちで見られる。第1原発の周辺自治体に特定復興再生拠点区域が設けられたが、再建は緒についたばかりだ。人口減少の加速が直撃しており、かつてのにぎわいを取り戻すのは容易ではない。まして10年前後も立ち入り禁止となっていた地域はなおさらだ。
巨大防潮堤を造らなかった宮城県女川町の駅前には、海に向け一直線に続くれんが道の両脇に商業施設などが並ぶ。復興計画策定の主役になったのは、30代、40代だ。還暦以上は口を出さずに側面支援に徹し、独自のプランを作成して行政と連携したという。新たな街の営みづくりには、交流人口や活動人口を創出する視点から、移住者を含む若い世代の斬新な発想を積極的に取り入れることも必要だろう。
能登地震では、3.11の経験を生かしたケースがあった。石川県珠洲市三崎町寺家の下出地区。高台への階段を増やし、夜間避難用に太陽光パネルの電灯を設置、「10分以内に上ろう」と避難訓練を重ねていた。約80人の住民は全員無事で、区長は「大震災の教訓がなければ犠牲者が出ていたかもしれない」と振り返る。
また今回の地震では、北陸電力志賀原発に大きな被害はなかったとはいえ、変圧器の破損に伴い外部電源の一部が、放射線監視装置も18カ所で使用・測定不能に陥った。高齢者らが一時避難する30キロ圏内の放射線防護施設のもろさも露呈した。半島の道路が寸断され、従来の避難計画は揺らぐ。原発回帰に転換した岸田政権には、今後の再稼働・運転延長に当たり、何よりも安全対策に万全を期すことが求められる。
2月に宮城県南三陸町で開かれた「全国被災地語り部シンポジウム」では、参加者が「経験を伝えることがより重要になる」と訴えた。1923年の関東大震災も体験した物理学者で随筆家の寺田寅彦はこう警鐘を鳴らす。「地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである。科学の方則とは畢竟(ひっきょう)(=つまり)『自然の記憶の覚え書き』である」(原文のまま)
数年ごとに大地震が列島を襲う。被災の当事者でなくとも、さまざまな手段で記憶と経験を集積し、継承していく。そこから教訓を引き出し、「想定外」をつぶしていく作業の大切さを再確認しながら、復旧・復興の過程を含め、自助・共助・公助の在り方を考えたい。それが未来のかけがえのない命を救う。