◆「死にたくない」泣き叫んだあの日
「死にたくない」。あの日、同級生と泣き叫んだことをはっきりと覚えている。宮城県山元町(やまもとちょう)の海岸から300メートルに位置する中浜小学校の3年生だった看護師、千尋真璃亜(ちひろまりあ)さん(22)=仙台市=は、真っ黒い波が海から襲ってくる様子を2階建ての学校の屋上から目の当たりにした。
千尋さんを含む児童59人と教職員と住民ら31人の計90人が屋上に避難。津波は2階の天井まで何度も襲ったが、全員が無事だった。それでも震災後、思い出さないようにしてきた。悲しくなってしまうから。周囲に積極的に語ることはなく、学生時代を過ごした。
転機は20歳の時だった。成人式で久しぶりに中浜小を訪れ、懐かしい場所を見てふと思ったという。
「このまま3・11を忘れてほしくない」
記憶のふたを開けて、あの日の経験を整理し、閉じ込めていた思いをつづった。A4判で10枚のリポートにまとめ、元中浜小校長で「やまもと語りべの会」の井上剛さん(66)に見せたのを機に、自身も語り部を始めた。「児童目線でのあの日のことを伝えたい」と言い、こう繰り返す。「忘れてほしくない」
井上さん(左)と当時のことを話す千尋真璃亜さん
震災遺構となった中浜小を訪れる人を前に語り部をしている途中、言葉に詰まって考えてしまうことがある。当時の動画を見ると、つらくなる。「親戚も亡くしたし、遺体安置所にも行った。当時はつらかったけど、そういう経験をしたからこそ周りの人を大切にできるようになったし、命の大切さを実感できた」
若い世代の語り部が増えたらいい。でも、それぞれのペースがあるとも思っている。「語り部をすることは、つらい記憶と向き合うこと。私もまだまだだけど、ゆっくりゆっくり日々を重ねて、ようやく一歩踏み出せるようになった」
◆「何もしなかったから家族が死んだ」自分を責めた
児童と教職員計84人が犠牲となった宮城県石巻市の大川小学校で、語り部をするのは団体職員の永沼悠斗さん(29)。「亡くなった一人一人にも未来があった」。心がけているのは、あの日より前に、ここに当たり前の生活があったことを伝えることだ。
「どんな生活があったかを知ることで、震災当時にどうしてその行動を取ったかにつながる。それが命を守る教訓につながる」
大川小2年だった弟と、帰りを待っていた祖母と曽祖母が津波にのまれて帰らぬ人となった。震災の2日前、地震があった。それがずっと心にとどまっている。「その夜に家族で地震の話をしなかった。次に地震があったときにどう命を守るのか。考えるきっかけがあったのに、何もしなかったから家族が死んだ」。後悔から自分を責めた。
高校卒業後、教員を目指して県外の大学に進学。しかし生きづらさを感じ、4年生で中退し、県内の大学に入り直して防災や減災を学んだ。2016年から「大川伝承の会」で、語り部を務めるようになった。
大切な人を失い、それでも頑張る人が美談として報じられることに「そうじゃない。後悔も生きづらさも、いろんなものを抱えてきた」と違和感を明かす。「それでも自分が生かされた理由を考えて悩みながら、正しく伝えようと思っている」。記者との勉強会に携わり、伝え方を模索する。
「語ることはしんどい。人に共有したくなければする必要はない」。語り部を無理強いはしない。でもやりたいならば、まずは誰にでもいいから見聞きしたことを話してほしい。「インターンやNPO活動のような感じで。一つの社会問題だと思って。自分の言葉で自然に話す人が増えたら、きっと100年後も震災の教訓は忘れ去られない」