小6で東京大空襲「多くの友達を失いつらい」 浅草の国民学校講堂は燃え、家族全員でプールに飛び込んだ(2024年3月9日『東京新聞』)

 
 一晩にして約10万人が亡くなった東京大空襲から10日で79年。当時、小学6年生だった元中学校教諭の岡崎吉作(よしなり)さん(91)=東京都台東区=は焼夷(しょうい)弾が降り注ぐ浅草の街を、家族と懸命に逃げた。「恐ろしい時代があった」。九死に一生を得た体験を語り続けている。(井上真典)
 数日前に降った雪が道端に残る寒い日だった。1945年3月9日午後11時過ぎ、空襲警報が鳴り響き、母親に手をひかれて家の外に出た。米軍のB29爆撃機が低空飛行し、焼夷弾を雨のように落としていた。
 両親ときょうだい2人の家族5人で、当時通っていた千束国民学校(現台東区立千束小学校)に避難した。講堂にいたら、ピアノがくすぶり始めた。息苦しくなり外に出ようと扉を開けた。足元に赤く焼けただれた男性の死体があった。足がぶるぶると震えた。

◆3月のプールは寒かったはずなのに

 熱さから逃れるため、家族全員でプールに飛び込んだ。燃えた校舎からは火の粉が飛んでくる。プールに投げ入れられていた布団で体を守り、校舎が燃え落ちるのを見ていた。ひどく寒かったはずなのに感じなかった。
 
姉の辞書を手に被災体験を語る岡崎さん=東京都台東区で

姉の辞書を手に被災体験を語る岡崎さん=東京都台東区

 プールには、位牌(いはい)や国語辞典を包んだ風呂敷を沈めた。翌日、七つ上の姉と父が引き上げた。「当時、辞書は高価だった。姉は大事にしていた」。岡崎さんはボロボロになった姉の辞典を大切に保管している。「貴重な記録。見れば当時のことが思い出される」
 学校内の防空壕(ごう)に避難して窒息死した遺体が運び出されるのも見た。自分の家族は助かったが「運がよかっただけ。めんこやビー玉遊びをしていた多くの友達を失ったことがつらい」と語る。

◆9・10日に浅草公会堂で体験語るイベント

 空襲体験は、8年ほど前に都内の戦争関連の催しで語るようになった。腎臓を患い、週3回、透析に通う体だが「現在も国外で戦争は起きている。戦争の怖さを全人類知ってほしい」と声を振り絞る。
 岡崎さんは9、10日、浅草公会堂で体験を語る。詳細についての問い合わせは、東京大空襲犠牲者追悼・記念資料展実行委=電090(5249)6766=へ。