卒業式で歌われた「オールド・ラング・サイン」が上出来だった…(2024年3月3日『東京新聞』-「筆洗」)

 卒業式で歌われた「オールド・ラング・サイン」が上出来だった-。大森貝塚を発掘した米国の動物学者、エドワード・モースが1882(明治15)年7月、東京女子師範学校の卒業式に臨席した際の話を『日本その日その日』に書いている。当時の卒業式は7月だった

▼モースがほめている「オールド・ラング・サイン」とは無論、今も卒業式とは切っても切れない「蛍の光」。そんな時代から卒業式で歌われていたようだ

▼日本語訳は国学者の稲垣千穎(ちかい)だが、歌詞の雰囲気が元になったスコットランド民謡の世界とは大きく異なる。不思議である

▼「蛍の光」が学問にいそしんだ日々を振り返りつつ「別れ」を強調しているのに対し、原詞の方は旧友とかつての日々を懐かしみながら、酒をくみ交わすという内容である。別れよりも再会の喜びを歌っている

▼卒業シーズンとなった。今年も卒業生たちは「蛍の光」を歌い、別れを惜しむのだろう。とりわけ、能登半島地震の被災地の卒業生のことを思う。おだやかならぬ暮らしの中での友や恩師との別れ。地元を離れる卒業生もいる。歌詞の「けさはわかれゆく」が切なかろう

▼寂しい別れの歌よりも再会の歌の方を聞きたくなる。震災から立ち上がり、落ち着きを取り戻した地元で、今年の卒業生たちが再会し、手を取り合う。そんな日が早く来ないかと願う。卒業おめでとう。

 

ますらおの歌ーー新撰 軍歌・戦時歌謡

蛍の光 作詞 稲垣千穎/原曲 スコットランド民謡(2023年4月16日『産経新聞』)

篠原 章・評論家

蛍の光」の原曲が、スコットランド民謡の「オールド・ラング・サイン」(Auld Lang Syne)であることは広く知られているが、明治期に稲垣千穎(「千頴」と俗字表記されることもあるが、正字表記は「千穎」)によって作られた独自の日本語詞が第4連まであることを知る人は少ない。特に戦後は、国を護る意識、戦意昂揚の志が強く感じられる第3連、第4連が歌われることはきわめて稀になっている。

民謡であるが故に「オールド・ラング・サイン」の作曲者は不詳だが、原詞のスコットランド語を整えたのは、スコットランドの国民的詩人といわれるロバート・バーンズ(1759~1796年)とされる。バーンズの詞は、美しいが荒涼としたスコットランドの大地で育まれた友情を歌ったものだが、稲垣の歌詞は、7世紀半ば頃成立した中国の歴史書『晋書』所収の「車胤伝」に登場する故事が土台になっている。

その故事は、「(晋代に政府高官となった)車胤の家は貧しく、灯火のための油を買うことができなかったので、夏には絹の袋に数十匹の蛍を集め、その光で勉強に励んだ。同じ頃、(やはり政府高官となった)孫康は、夜には窓の外に積もった雪に反射する月の光で勉強に励んだ」というもので、苦労して学問を修める「蛍雪の功」を強調する言い伝えになっている。

この曲の初出は、1881(明治14)年に、明治政府(文部省音楽取調掛)が初めて編纂した五線譜付きの音楽のテキスト『小學唱歌集 初編』で、編纂の責任者は長野県高遠出身の東京師範学校(現在の筑波大学)校長・伊沢修二(1851~1917年)だった。このとき伊沢は、福島県棚倉出身の同校助教諭(国学者)・稲垣千穎(1845~1913年)に対して音楽取調掛兼務を命じ、稲垣は唱歌の作詞に力を尽くすことになったという。『小學唱歌集 初編』に稲垣の名は見当たらないが、伊沢の著書や新聞記事などから、稲垣が「蛍の光」の作詞者であることが確認されている。

『小學唱歌集 初編』では、20番目に収録されており(「君が代」は23番目)、曲名はたんに「蛍」である。「蛍」が「蛍の光」と改題された背景と正確な時期は不明だが、1894(明治27)年の唱歌集には「蛍の光」というタイトルが見える。

「オールド・ラング・サイン」が「蛍の光」の譜に採用された経緯には、「お雇い外国人」が関わっている。伊沢の米国留学中の恩師の一人であり、1879(明治12)年から1882(明治15)年まで音楽取調掛のお雇い外国人だったルーサー・ホワイティング・メーソンが持ち込んだ賛美歌集を、伊沢らは唱歌を選定する際の参考にしたが、そのなかに「オールド・ラング・サイン」と同じ譜の曲があった。

現在の日本のプロテスタントの賛美歌集でいえば、「370番 目ざめよわが霊」がそれに当たる。歌詞は、18世紀前半にイギリスで活動した会衆派(ピューリタン革命の原動力となった宗派)の牧師、フィリップ・ドッドリッジの手になるもので、「オールド・ラング・サイン」とはまるで異なっていた。

領土拡大で変わった歌詞

蛍の光」は、以上のような経緯を経て成立し、20世紀に入ると、日本で最もポピュラーな「別れの歌」として広まり、卒業式の定番曲に選ばれるようになった。だが、すでに触れたとおり、歌詞第3連と第4連は、国を護る志を高らかに謳いあげたもので、そこだけに注目すれば、紛れもない軍歌である。

第3連の「筑紫の極み」は九州を指し、「陸の奥」は文字どおり「みちのく」(東北)を指している。国民一丸となって、国に尽くすことを求める歌詞だ。第4連は、領土の変更がある度に、文部省が歌詞を書き換えている。日清戦争後に台湾がわが国に割譲されると、「沖縄」は「台湾」に置き換えられ、日露戦争後にわが国が南樺太の領有権を得ると、「千島の奥も 台湾も」は「台湾の果ても 樺太も」と書き換えられた。いうまでもなく、「八洲」とは日本の異称である。

領土名が挿入された軍歌というだけで珍しいのに、領土に変更が生ずる度にその部分が書き換えられた軍歌となると、おそらくこの「蛍の光」だけだろう。

閉店メロディーは別の曲

興味深いことに、「蛍の光」を軍歌として見ると、「日本最古の軍歌」という見方も可能となる。一般に、わが国最初の軍歌は1868(明治元年)年の「トンヤレ節(みやさんみやさん)」といわれるが、洋楽を基調とした軍歌に限っていうと、1885(明治18)年発表の「抜刀隊」が最古となる。ところが、「蛍の光」は1881(明治14)年である。「抜刀隊」になんと4年も先行している。

もっとも、戦後になってから、歌詞第3連と第4連は禁歌のような扱いを受けており、「蛍の光」は、第1連と第2連の「2連構成」というのが常識になっている。しかしながら、それは明らかに事実に反している。「蛍の光」は4連構成であり、日本最古の軍歌であるという事実に目を背けてはならないと思う。

なお、店舗などが閉店するときに流される「蛍の光」のほとんどは、戦後になって古関裕而が「オールド・ラング・サイン」を編曲して作った3拍子の「別れのワルツ」(1956年)であり、厳密には「蛍の光」とは異なる。

月刊「正論」2月号より)

しのはら・あきら

1956年生まれ。元大東文化大学教授。音楽評論や沖縄問題の評論には定評がある。著書に『沖縄の不都合な真実』(共著、新潮新書)など。