<記者がたどる戦争>満鉄爆破「予言」通りに 根室支局 先川ひとみ(31)㊤㊦(2024年2月18日『北海道新聞』)

■「謎」語る祖父
 旧満州奉天市(現中国東北地方、瀋陽市)で育った祖父、先川祐次は2021年に101歳で死去するまで、何度も10歳のころ体験した「謎」について、孫の私に語りかけてくれた。
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 祖父は満州事変の発端となった1931年(昭和6年)9月の柳条湖事件の当時、現場から約9キロの奉天市街地に住んでいた。疑問を抱いたその日の出来事について、亡くなる6年前の2015年に手記に残した。
奉天に住んでいた当時の祖父・先川祐次の家族写真。祖父は後列右

奉天に住んでいた当時の祖父・先川祐次の家族写真。祖父は後列右

 「小学5年生の9月18日の夜の事だった。帰宅した父に突然たたき起こされた。『さっき、午後10時半の大連行きの列車が通過した。これから何か起こっても騒ぐんじゃない』と」
 柳条湖事件関東軍が中国軍の仕業と偽って、日本の会社である南満州鉄道の線路を爆破し、現地での軍事行動を開始した謀略事件。爆破自体は小規模だったが、翌9月19日午前1時半に関東軍は中国軍への報復を名目に正式な攻撃命令を出し、その日のうちに新京(現長春)など満鉄沿線の都市の多くを占領した。
終戦前の奉天駅

終戦前の奉天


 祖父の手記には、柳条湖事件の当日の奉天の様子についてこう記されている。
 「寝室の窓が真っ赤に染まり、後にズドーンと砲声がして地響きとともに家が揺らいだ」
 手記によれば事件翌日のラジオニュースは「奉天郊外の柳条湖付近で張学良軍(※1)に鉄道を破壊され、(関東軍が)やむを得ず応戦した」と報じていたという。祖父が見聞きした砲弾の音と光は鉄道爆破事件の後、市街地近くで起きた戦闘によるものだったと推測できる。
 もしラジオの通り中国軍が事件を起こし、日本側が応じたのなら、曽祖父は幼い息子に「これから何か起きるかもしれない。騒ぐな」と声を掛けただろうか。
■将校らと交流
 曽祖父は当時、日本軍とともにアジア各地の占領地へ進出した朝鮮銀行(※2)の奉天支店長だった。祖父は1989年発行の文集に「謎」への自分なりの答えを記している。
 「父は銀行支店長だったため、奉天独立守備隊の将校らが毎日のように家に遊びに来ては、囲碁をしていた。そんなこともあってか、父は事前に爆破のことを知っていたようだ」
 満州事変に詳しい学習院大の井上寿一教授(日本政治外交史)は、当時は中国の張学良が満州の日本の権益を揺るがし始めていたと指摘した上で「関東軍には、日本が満州を見捨てるのではないかという危機感があり、柳条湖事件を起こした。在満日本人には何らかの事件を期待する空気もあった。(日本人社会の有力者だった)銀行の支店長レベルに軍関係者が事前に情報を漏らしていても不思議ではない」と話す。
 当初、日本政府は米国や英国との協調路線を捨てず、満州での対立の不拡大方針をとなえたが、関東軍はこれを無視し戦線を拡大、政府や軍中央もこれを追認した。32年3月、日本のかいらい国家とされる「満州国」が誕生した。中国政府は日本の行動を不当として国際連盟に提訴。日本は翌年、連盟脱退を宣言し国際的孤立化の道を歩む。
 祖父はその後、満州の最高学府「建国大学」の1期生になり、卒業後は満州政府の国政の中枢、総務庁の日本人職員として働く。だが、中国東北部に住むさまざまな民族と日本人との「五族協和」を唱えた満州国は45年、日本の敗戦と共に崩れ去る。
 祖父と最後に会ったのは2021年の正月。住まいがあった福岡市から札幌に遊びに来てくれた時だった。祖父は食卓を囲み、満州での体験を熱心に語った。戦時中の日本軍の精神主義を忌み嫌い、そして言った。
「戦争は人を狂気にする」
 発足のきっかけから疑念に包まれた満州。祖父は青年時代、満州が掲げた「五族協和」のスローガンの理想と矛盾にも触れていた。
(2回連載します)
<ことば>
※1 張学良 1928年(昭和3年)に関東軍が父の張作霖を爆殺した事件の後、父が握っていた中国東北地方の実権を受け継ぎ、日本の圧迫に抗して南京の中華民国政府による中国の統一に努めた。
※2 朝鮮銀行 1910年(明治43年)の韓国併合(植民地化)に伴い、大韓帝国中央銀行を引き継いで11年に設立された植民地時代の朝鮮の中央銀行。日本軍とともに占領地へ進出したため朝鮮以外に内地及び満州、中国北部及びシベリアに支店等を持った。45年10月に閉鎖した。
<略歴>さきかわ・ひとみ 札幌市生まれ。2018年10月入社。本社報道センター、北見報道部を経て23年3月から根室支局
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<記者がたどる戦争>「五族協和」理想と苦悩 根室支局 先川ひとみ(31)㊦

■大学寮に憲兵
 「反満抗日分子の摘発があった朝、寮で隣に寝ているはずの中国人学生の姿が消えていた。まさか、と思ったが、自分の甘さを思い知らされた」
札幌市の実家で満州について語った祖父=2021年1月

札幌市の実家で満州について語った祖父=2021年1月

 2021年に101歳で死去した祖父、先川祐次が15年7月に残した手記には、旧満州(現中国東北地方)の首都、新京(現長春)の建国大学(※1)在学中に、中国人の親友が憲兵隊に摘発された事件が書かれていた。
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 反満抗日分子とは、戦前の日本によるかいらい国家の満州国を認めず、日本の支配に抵抗した中国の人たちのことだ。
 建国大学年表要覧には「昭和17年(1942年)3月2日満系学生15名反満抗日の政治犯容疑にて憲兵隊に検挙さる」とある。建国大学の卒業生が89年に記した文集には41年(昭和16年)から42年に複数回、中国人学生が日本の憲兵隊に摘発された記述が登場する。
 建国大学は、満州国が掲げた複数の民族が共存する「五族協和」(※2)を体現することを目指し、諸民族の学生が寝食を共にした。38年の建学からしばらくは言論の自由が広く認められ、日本政府を批判してもとがめられることはなかったとされる。
 当時、満州国では配給により、日本人はコメ、貧しい中国人は雑穀のコーリャンを食べていたが、大学内では学生たちの提案で全民族で同じ食事になった。
 祖父と交流のあった建国大学6期生の田中光雄さん(96)=福岡市在住=は、寝食を共にした時代をこう振り返る。「食堂で中国人の学生が立ち上がり、『みんな楽しそうに飯を食べているけど、中国人が日本人の爆撃で死んでいる』と叫んだこともある」。多様な考えを認め合う雰囲気が、確かにあった。
建国大学の外観

建国大学の外観

 建国大学に1期生として入学した祖父は手記で自身の大学時代をこう振り返っている。
 「民族は違っても寝食を共にしていると自然に仲間意識が培われることを実証してくれた。信じ合える友を得てこそ、国際協調の道が開かれると信じていた」
 だが、建国大学が創立された38年は、4月に日本で国家総動員法が制定された年。前年37年7月には中国・北京郊外で盧溝橋事件により日中戦争が全面化、12月には日本軍が南京を占領した。39年9月には欧州でドイツがポーランドに侵攻し第2次世界大戦が始まり、戦時色が濃くなった時期だ。
 祖父の手記など複数の資料によると、中国人の摘発が相次いだ1942年ごろを境に雰囲気は変わっていったという。
 祖父が手記で中国人同級生の連行を「甘かった」と振り返るのは、自由な雰囲気の大学の中で、当局による厳しい言論統制は無いだろうと考えていたことへの後悔があったからだろう。
■民族越えた絆
 祖父の遺品の中には、当時、憲兵隊に連行された中国人の同級生のひとり、楊増志(ようぞうし)さん(故人)から2014年2月に届いた手紙があった。
楊増志さんから祖父に送られた手紙

楊増志さんから祖父に送られた手紙

 「私は一生災難ばかりであった」
 祖父は「楊さんは、大学内の反満抗日運動のリーダーだったんだ。大学在学中、日本の憲兵隊に逮捕されて拷問を受けただけじゃなく、終戦後は中国でインテリだと批判されて強制労働させられたこともあった」と語っていた。民族を越えた絆は戦後も引き継がれ、祖父は苦難の人生を送った友人を気にかけていた。
 満州国史が専門で、建国大学を研究する国際基督教大学非常勤講師の宮沢恵理子さんは論文で、当時、建国大学に在学した学生は戦後、日本のかいらい国家建設に加担した「親日派」として、出身地の中国や韓国などで苦難を強いられた人が多いと指摘。宮沢さんは「満州国の民族協和は理想的な面はあったが、徐々に日本人を指導民族として、中国、朝鮮人を指導するようになってしまった」と話した。
 祖父からこんな言葉を聞いたことがある。
 「建国大学の理念は『戦争をしないための国造り』のはずだった。ならば、日本が仕掛けた真珠湾攻撃や日中の争いは何なのか。建国大学の存在意義をも否定する行為に感じた」
 祖父が青春時代を過ごした満州の建国大では学生たちは理想を追い求め、民族を越えた絆があったのは確かなのだろう。だが、そこでうたわれた「五族協和」は、かいらい国家・満州で他民族の日本への隷属を覆い隠す欺瞞(ぎまん)に満ちたものだった事を、祖父は感じ取っていた。祖父の苦悩の一端を見たような気がした。
<ことば>
※1 建国大学 五族協和を建学の精神として、満州国の指導者となる人材を育成しようと1938年(昭和13年)、新京(現長春)に関東軍と「満州国」によって設立された。45年8月の満州国崩壊により解散した。
※2 五族協和 旧満州(現中国東北地方)の国家スローガンのひとつ。日本人、漢族、満州族朝鮮族モンゴル族などが協力して作り上げる国を目指した。