ロシアによるウクライナ侵攻は24日で2年となった。ウクライナ東部のドニプロ市から東京都昭島市内の都営住宅に避難したダリーナ・ミロネンコさん(17)は、都立府中西高校(府中市)1年生としての日々を送る。日本になじみ、青春を満喫しながらも、祖国の友人や祖母の無事を願い続ける。(昆野夏子)
◆都立高1年ダリーナさん、日本語で「女子会」も
「まじか!」「それなー」。ダリーナさんの声が響く。高校のダンス部の練習中、部員たちの早口の若者言葉や、めまぐるしく変わる日本語での話題にも余裕で追いつく姿があった。
「この前のジャズダンス、最初にくるくるって回るとこ、かっこよかったし、きれいだった」「会場、めっちゃ沸いてたよね」と仲間に褒められ、頰を赤くするダリーナさんは言った。
「日本に来てしばらくは好きなダンスをできなかったけど、こうして友だちと一緒に踊れるのは楽しい。みんなと作品を作り上げられて、勉強も部活も充実している」
6歳から社交ダンスを続け、長い手脚のしなやかな振りが板についている。4月の大会では、忍者がテーマの創作ダンスに挑む。機敏に印を結び、足を蹴り上げる。振りを忘れた部員がいればすぐに寄り添い、動きを教える。
休みには友人と喫茶店や飲食店で「女子会」。「パスタとか、でっかいケーキを食べたの。納豆やあんこが好き。あとはギョーザ。何であんなにおいしいのかな」。クラスも部活も一緒の小林寧音(ねおん)さん(16)は「ウクライナから来たと意識したことはない。日本語が上手だし、特別だと思ったこともない」と言う。
◆「将来は日本とウクライナの架け橋に」
2年前の2月24日午前5時、ダリーナさんは耳をつんざく爆音で目が覚めた。戦争が始まった。「これからどうなっちゃうの?」。泣きじゃくり、母オルガさん(38)にすがった。
日本で暮らす伯母を頼り翌月、母子で昭島市へ。「やるしかない」と、あいさつすらできなかった日本語を来日後に1年間、語学学校で猛勉強し、府中西高に入った。「日本に来たのは何かの運命。日本の大学に進み、将来は通訳になりたい。日本とウクライナの架け橋になりたい」と話す。