「誰かがやらないと行き詰まってしまう」 まだ7000人が残る1次避難所、運営を支える人たちの思い(2024年2月22日『東京新聞』)

 能登半島地震から1カ月半が過ぎた。被災地ではホテルや旅館を活用した2次避難所などに移る人も増えているが、石川県によると、学校の体育館などの1次避難所には今も7000人余りがとどまる。残った人や地域のために、と避難所の運営を支える人たちがいる。

◆母の介護で帰省して被災

 「誰かが運営しないと行き詰まってしまうから」。珠洲市若山町の旧上黒丸小中学校に設置された避難所で、運営に携わる本鍛治千修(もとかじ・せんしゅう)さん(71)は語る。住まいは横浜市にあるが、実家に戻っていて被災した。横浜の家族からは帰ってくるように促されているが、とどまっている。
支援物資の管理など避難所で多くの仕事をこなす本鍛治千修さん=石川県珠洲市の旧上黒丸小中学校で

支援物資の管理など避難所で多くの仕事をこなす本鍛治千修さん=石川県珠洲市の旧上黒丸小中学校で

 本鍛治さんは中学までこの地で過ごした。農林水産省職員として東京で勤めていたが、昨年7月から1人暮らしをしていた90代の母の介護のため、実家に戻った。11月末には母が岐阜県内の介護福祉施設に入り、自身も家の片付けを終えたら横浜に帰る予定だった。
 実家は一部損壊し、避難所に逃れた。中学時代の同級生ら顔見知りも多くいる状況に避難所運営のために残ることを決めた。「助けたいという一心。何かできることはないかと考えた」

◆高齢者の安否確認 涙流して喜ぶ人も

 避難所での作業は清掃や衛生管理、支援物資の管理など多岐にわたる。ピーク時の1月上旬、109人がいたが、大半が自宅に戻ったり、2次避難したりして今は13人。在宅避難者のケアも重要な仕事となった。
 避難所に来るのが難しい高齢者宅に物資を配りながら安否確認もする。本鍛治さんが訪れると「久々に人と話をした」と涙を出して喜ぶ人もいるという。
 心配する横浜の家族からは「しょっちゅう叱られている」。それでも断水が続き、生活がままならないうちは残りたいと思う。「避難者が自分で自分のことができるようになるまでは」(石井豪)

◆自宅は「赤紙」 子連れで避難しつつ運営

 午前7時、穴水町曽良の旧兜小学校にある避難所。そこで過ごす人たちにパンと飲み物を配るのが、高尾智之さん(47)の朝の仕事だ。
 自身も家族と身を寄せる避難所で、同町の甲(かぶと)地区の黒崎集落の責任者として運営スタッフを務める。現在いる人数を把握し、炊き出しをする自衛隊や地域の人たちに伝える。避難者が過ごす体育館の窓を何度も開け閉めし、感染症対策にも注意を払う。地震からの1カ月半を「あっという間だった」と振り返る。
床にひびが入った作業場=石川県穴水町甲で

床にひびが入った作業場=石川県穴水町甲で

 自宅は隣家の蔵の屋根がずれ、応急危険度判定で「危険」とされる赤い紙が張られている。妻の恵子さん(30)は近くの川で洗濯したり、片付けをしたりしながら自宅を守り続ける。高尾さんが避難所運営に当たる間、長女心結(みゆう)ちゃん(6)、長男和希ちゃん(4)は母の洋子さん(72)が面倒をみてくれている。

◆家業のみそ造りは見通し立たず

 父の良雄さん(77)、洋子さんとともに実家近くの作業場でみそ造りをしてきた。「かぶとみそ」の名で地元のスーパーマーケットなどで販売。本来、1~3月は一番忙しい時期だが、作業場も被災し、床には亀裂が入った。断水も続き「みそ造りが再開できるかどうかはやってみんと分からん」と話す。
 これからの甲地区は「確実に人が減るだろう」と覚悟している。「仕事のこともあるし、今のところ出ていくつもりはない」。まずは避難所の仕事に注力する。(島崎勝弘)