「頑張ろうな!」と励まされた「あの日の中学生」、今度は能登で「きっと戻るよ」と元気づける(2024年3月9日『読売新聞』)

 

 能登半島地震で1000棟超の住宅が全半壊した石川県能登町。「仮設住宅はどうなるの?」「住むところがない」……。1月29日夜。避難所の町立小木中学校で、被災者らがストーブを囲み、口々に今後への不安を吐露していた。

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故郷を訪れた横山さん。県職員として地域の未来を見届けるつもりだ(2月25日、宮城県南三陸町で)=富永健太郎撮影
故郷を訪れた横山さん。県職員として地域の未来を見届けるつもりだ(2月25日、宮城県南三陸町で)=富永健太郎撮影

 輪に加わる宮城県職員の横山零さん(27)には、気持ちが痛いほどわかった。避難所運営の応援に入って3日目。少しでも勇気づけたい。中学生だったあの日の自分が、心細さを埋めてもらったように。

 いつまで待っても迎えは来なかった。同級生たちは親と無事の再会を喜びながら次々と帰って行く――。

 当時、宮城県南三陸町志津川中の2年生。13年前の3月11日、教室のカーテンの隙間から、街をのみ込む津波を見た。教室で一夜を明かした。翌朝。迎えに来た親と一緒に帰る友人らの背中をただただ見送った。「取り残されたなあ」

 両親も、小学生の妹も、消息はわからないまま。教室の床に段ボールを敷いて過ごす夜。毛布もなく、学校にあった暗幕にくるまった。寒くて、ひもじくて、心細くてたまらなかった。

 数日後、小学校に避難していた妹の無事がわかった。父親とも連絡がついた。しかし、母親の行方はわからない。妹は先生がいる小学校、持病がある父親は病院に身を寄せ、それから数週間は一人で避難所になっていた志津川中で過ごした。

 「頑張ろうな!」。ボランティアの励ましがうれしかった。炊き出しの温かいみそ汁は、体に染み渡る。ある日、頼まれて物資運搬をしていると声をかけられた。「ありがとう。若い力があると助かるよ」。沈みがちな気持ちが晴れ、率先して手伝うようになった。

横山由美さん
横山由美さん

 1か月以上が過ぎた頃、母親の由美さん(当時42歳)=写真=の遺体が見つかった。近所の人と手をつないで避難中に引き返し、津波に巻き込まれたようだった。

 「宿題はやったの?」が口癖の教育熱心な母親。しばしば叱られた。でも、それ以上によく笑う人だった。編み物が趣味で、小学生の頃、教わりながらマフラーを編むと、「上手にできたね」と褒めてくれた。

 火葬の日。何とも言えない喪失感に押し潰されそうだった。夜、家族に隠れ、ひとり泣いた。その後は、気持ちを吹っ切りたいと卓球部の練習に打ち込んだ。

 父親は病気がちで、妹は小学生。「自分がしっかりしなくちゃ」と高校卒業後は公務員になろうと決めた。2014年12月、宮城県庁から内定を得た。「がんばって働くよ」。母の墓前で手を合わせ、報告した。

 最初の仕事は、三陸海岸に整備された「三陸復興国立公園」の許認可事務。被災した電線の復旧や復興団地の造成の申請に対応した。津波で何もかもがなくなった場所に、少しずつ生活が戻っていくのを実感した。復興への願いは、働く前よりはるかに強くなった。

 元日の能登半島地震。失われた「日常」を思い、胸が締め付けられた。上司から応援職員に指名され、二つ返事で引き受けた。

 「おいしいね」。小木中の避難所で炊き出しの中華丼を手渡すと、被災者の表情がほっと緩んだ。元気づけたい一心で忙しく動き回った。時には自身の体験も交えながら、親身に、でも、できるだけ明るく声をかけた。「安心して暮らせる日がきっと戻って来るよ」

 1週間の応援から戻ると、久しぶりに志津川中に足を運んだ。高台にある母校からは、復興した街の姿が見える。「いろんな人たちが助けてくれたな」。しみじみとかみしめた。

 助け、助けられ、人々は未曽有の災害から立ち上がっていく。(大原圭二、おわり)