憲法公布の日(文化の日)に関する社説・コラム(2024年11月3日)

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日本国憲法の制定は、大日本帝国憲法の改正手続に従って行われた。1946昭和21)年6月、枢密院で可決された憲法改正案は、第90回臨時帝国議会に提出され、貴族院衆議院両院で修正が行われた後、同年10月7日可決。この改正案を10月29日に枢密院が可決したことを受けて、日本国憲法は同年11月3日に公布された。公布書には、第1次吉田茂内閣の各大臣が副署しています。天皇を国の象徴とし、国民主権基本的人権の尊重、平和主義を基本的原則とするとともに、三権分立を徹底した日本国憲法は、昭和22(1947)年5月3日から施行された。

文化の日 身近な宝に目を向けよう(2024年11月3日『産経新聞』-「主張」)

縄文土器の中でもよく知られている火焔土器の一群
文化の日」を迎えた。この日を挟んだ7日までの「教育・文化週間」は、各地でさまざまな催しが行われている。改めて文化に触れる時間を過ごしてほしい。
 同週間では、全国の美術館、博物館、動物園や水族館などで入館を無料にしたりイベントを開催したりと、特別な催しがある。文化庁のホームページに一覧が掲載されており、気軽に利用できる機会だ。
 とはいえ、絵を見てイベントに参加することだけが文化的というわけでもない。そもそも文化とは、とてつもなく大きな概念である。
 文化芸術基本法では基本的施策に芸術や芸能、生活文化が明示され、その振興・継承・発展などがうたわれている。具体的には文学、映画、落語に茶道、和食などが書かれているが、到底その範囲には収まらない。
 例えば、先日亡くなった編集者の松岡正剛さんが著書で、日本文化の見方について、3つのアプローチを提示していた(『日本文化の核心』)。
 1つは縄文文化、昭和の文化といった歴史文化的なアプローチである。2つ目は俳諧文化、オタクの文化などのジャンル分類型で、3つ目は旬の文化、粋の文化というようなキーワード抽出型だ。
 なるほど多様で文化の海はかくも広く深い。さらにいえばスポーツも文化の一つで、地域におけるサッカー文化や野球の応援文化といったとらえ方もできるだろう。
 概していえば、文化とは人がつくるものである。生活を高める中で得られる新たな価値の総称といえよう。では、日々の営みに文化があると考えると、最も身近なのがその中から生まれた生活文化だ。それらは華道や書道といった日本独自の文化に発展している。
 一方、実は何げない日常の中にも文化はある。食事を始める際のあいさつ「いただきます」しかり、手に持つ箸や椀(わん)にも潜んでいる。ハレの日でいえばもうすぐ七五三の時期だが、そんな祝い事も、子供に着せる和服の柄の一つ一つにも、積み重ねられてきた文化の一端を見ることができる。
 まずはそんな日常の小さな文化を発見してみてはいかがだろう。生きることは文化を紡ぐことである。

暦に取り戻したい「明治」(2024年11月3日『産経新聞』-「産経抄」)
 
 江戸中期の俳人、上島鬼貫(うえじまおにつら)がこんな句をひねっている。<むかしから穴もあかずよ秋の空>。秋高気爽を五七五に落とし込んだ、過不足のない描写だろう。絵筆で画布にしたためたかのような、突き抜ける青がまぶたに浮かぶ。
▼秋といえば、小説『三四郎』の一場面も思い出す。三四郎と美禰子(みねこ)、若い男女が空を見上げる。「何を見ているんです」「あててごらんなさい」。青年の問いに、美禰子は素直に答えない。互いの胸中を探り合う会話の後、こんな情景描写が続く。
▼<空はかぎりなく晴れて、どこまでも青く澄んでいる…>。場面の設定は11月3日、明治天皇の誕生日を祝う「天長節」である。『三四郎』が新聞に連載されたのは、明治41年だった。当時から晴天の多い特異日として知られていたようで「天長節日和」の言葉もあったと聞く。
▼さて今年は…と書きかけ手を止める。きのうは西日本で大雨が降り、東日本も厚い雨雲に覆われた。折からの温帯低気圧に秋雨前線が刺激され、11月らしからぬ記録的な雨量を観測した地域もあった。夏の名残か湿度も高く、秋高気爽にほど遠い。
▼今年の地球は史上最も暑い年になると見込まれる。長引いた残暑の余波は地上にとどまらず、富士山は初冠雪を見ぬまま10月を終えた。明治27年の統計開始から初めてという。<降る雪や明治は遠くなりにけり>と中村草田男が詠んだのは昭和初期だった。いまはその雪も遠い。
▼明治期に「天長節」だった11月3日は、昭和2年に「明治節」となり、戦後の改廃で「文化の日」に。明治天皇の遺徳をしのぶ日でありながら、そのよすがとなる「明治」が暦から消えて久しい。何とか呼称を取り戻せないものか。来年で昭和も100年になる。

憲法公布の日に考える 「帰るべき日」はありや (2024年11月3日『東京新聞』-「社説」) 
 
 終戦間もない1945年12月27日のことです。昭和天皇は46年の元旦に発表する詔書、いわゆる「人間宣言」について、ある指示を出しました。宮内庁が編さんした「昭和天皇実録」には次のように記されています。
 <国家の進路を示す観点から詔書案中に五箇条の御誓文(ごせいもん)の趣旨を挿入するよう御希望になる>
 「五箇条の御誓文」とは、1868(明治元)年に明治天皇が公布した基本方針のことです。
 「広く会議を興(おこ)し、万機公論に決すべし」-この一カ条は特に有名です。政治のことは会議で多くの意見を求め、話し合って決めよう-という意味でしょう。
 なぜ昭和天皇終戦直後に明治元年の御誓文を持ち出したのか。1977年に真意を記者会見で明かしました。本紙は昭和天皇の言葉を次のように報じています。
 「すでに五箇条の御誓文で民主主義を採用していると示すことが一番の目的だった。神格(否定)は二の問題だった」
 「民主主義は戦後輸入のものではない。日本の誇りを国民が忘れることを心配し、わたしが希望して掲げた」
 「広く会議を興し」の一カ条は、まるで議会制民主主義のようにも読めます。少なくとも焦土に立った昭和天皇にとって「帰るべき日」は明治元年だったわけです。
 幕末に大政奉還をした最後の将軍・徳川慶喜も会議を開く考えでした。でも頭にあったのは公家や大名らによる列侯会議でした。
身分超えた公共の討論
 「五箇条の御誓文」も案の段階では列侯会議でした。ただ、背景に朱子学者・横井小楠の「公論」の思想があったとされます。政治学者の宇野重規・東京大教授は「民主主義とは何か」(講談社現代新書)で記しています。
 <小楠は、身分を超えた公共の討論によって政治を改革することを目指したのです>
 「身分を超えた公共の討論」とは実に先進的です。実際の御誓文では「列侯会議」の文字を消し、「広く会議を興し」と修正しました。「公論」の言葉もあります。
 そのため、この一文が日本の民主的な議会の基礎になったともいわれます。そして明治時代の自由民権運動につながったとも…。
 もっとも今日、民主主義と呼ぶためには、「国民主権」が必須の条件です。国民こそが力を持ち、その声を政治に反映させるシステムなのですから…。
 明治期の自由民権運動は、民衆が国会開設や自由と権利を求めました。全国で68もの憲法私案ができたそうです。「主権在民」を前提にした案もありました。
 ですが、明治政府はこの運動を弾圧し、1889(明治22)年に明治憲法を公布しました。「天皇主権」の憲法と解されています。
 神格化された天皇は大きな権力を持ちました。臣下たる国民にも権利や自由がありましたが、不十分だったのは明らかです。
 大正デモクラシーの時代はあったものの、終戦まで軍国主義の重苦しい世の中になりました。
 さて、再び冒頭に書いた終戦の年の風景に戻ります。12月26日のことでした。
 民間の「憲法研究会」が政府と連合国軍総司令部GHQ)に「憲法草案要綱」を提出しました。自由民権運動を研究した在野の法学者・鈴木安蔵たちです。
 「統治権ハ国民ヨリ発ス」と国民主権をうたった憲法案でした。民主主義の諸原理を備えてもいます。天皇については「国家的儀礼ヲ司ル」とまとめました。
 それにしても、昭和天皇が「人間宣言」で民主主義に思いを巡らせた日付とほぼ同じとは…。きっと歴史の必然だったのでしょう。
 18世紀の哲学者ルソーによれば、戦争とは敵国の社会契約、つまり憲法原理に対する攻撃です。敗戦国の日本は、国民との社会契約を結び直さねばなりません。天皇主権から国民主権への大転換が必要だったのです。
 GHQ側も「この憲法案は民主主義的で賛成できる」と高く評価しました。
「新しい戦前」の時代に
 そして、基本的人権も備えた日本国憲法ができました。自由民権運動憲法私案が息を吹き返したことにもなります。平和な戦後社会の出発点でした。
 ところが、どうしたことか。政治家が改憲を叫び、軍事力の強化が進みます。「新しい戦前」と呼ばれる今日です。行く末が案じられます。心配になります。
 いつかわれわれが道に迷い「帰るべき日」を問うときが来るかもしれません。その日とは、きっと平和主義の下、自由と権利が保障された1946年の「憲法公布の日」のことでありましょう。

ゴジラ70年(2024年11月3日『中国新聞』-「天風録」)
 
 70年前のきょう歴史に残る映画が封切られた。「ゴジラ」。水爆実験で南の海を追われた巨大な怪物が東京を襲い、放射能の熱線を吐いて破壊の限りを尽くす。その8カ月前のビキニ事件への怒りを込めた物語と言えよう
▲961万人を動員した作品は大戦の記憶を節々で伝える。ゴジラ出現を聞いた男性は疎開を口にして「また厭(いや)な世の中になりやがったな」。その中で元気あふれるのが女性の国会議員だ
▲若き日の菅井きんさんの熱演が目を引く。怪物が水爆の落とし子なのは重大な国際問題だ、と公表に反対する男性議員に「重大だからこそ公表すべきだ」と叫ぶ…。参政権を得た女性が発言力を持ち始めた時代を映す
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▲現実の戦後史とも重なる。ビキニでの第五福竜丸の被曝(ひばく)に危機感を抱き、いち早く原水爆禁止の署名に立ち上がったのは東京・杉並のごく普通の女性たちだ。風評被害で売り上げが減った鮮魚商の妻の訴えを踏まえて
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▲70年を経た今はどうか。この衆院選で女性議員は少し増えて衆参でゴジラ公開時の5倍強となったが、まだ全体の2割以下。国連の委員会も何とかせよと勧告した。思えば11月3日は男女平等をうたう日本国憲法の公布日でもある。

没文化(2024年11月3日『琉球新報』-「金口木舌」)
 
 中国語に「没文化」という言い回しがある。「没」は「持っていない」の意。直訳すると「学問がない」「教養がない」となる。「そんなことも知らないのか」と突っ込む形で使い、小ばかにした意味合いを含む。日本語にはない表現だ
▼「文化」の意味は「哲学・芸術・宗教などの精神的活動によって作り出され、生活を高める価値を生み出すもの」などと辞書にある。「没文化」を字面通り「文化がない」と捉えると別の意味が浮かぶ
▼きょう「文化の日」は1946年11月3日の日本国憲法公布を記念して制定された。「国民の祝日に関する法律」は、その趣旨を「自由と平和を愛し、文化をすすめる」と定めている
明治天皇の誕生日でもあるこの日を「明治節」と定めて、国に忠誠を誓った時代への反省を心にとめながら考える。今の日本は文化の日にふさわしいだろうか。今回の米軍と自衛隊の共同演習を見ても、憲法がうたう平和主義とは相いれない動きが国内に広がっている
▼この祝日が希求する自由と平和、文化は守られているか。理念と現実の乖離(かいり)は大きい。「没文化」の三文字がふと頭をよぎる。