学術会議と学問の自由 「戦前」が蘇らぬように(2024年5月8日『東京新聞』)

 昭和天皇が学術分野への政治介入を戒めたことがあります。1935(昭和10)年の天皇機関説事件のときでした。
 侍従武官長だった本庄繁の「本庄日記」(原書房)の同年4月25日の項に記されています。
 <陛下は、若(も)し思想信念を以(もっ)て科学を抑圧し去らんとするときは、世界の進歩は遅るべし。進化論の如(ごと)きも覆へさざるを得ざるが如きことゝなるべし>
 思想や信念で科学を抑圧すれば世界の進歩はなくなってしまう。ダーウィンの進化論を覆すようなものだという、生物学者らしい昭和天皇の考えでした。
 天皇機関説とは国家を法人にたとえ、天皇はその最高機関である-憲法学者美濃部達吉=写真=のこの学説に対し、「緩慢なる謀反だ」などと議員や右翼らが一斉に攻撃した事件でした。
 機関説は当時の最有力の学説でしたが、貴族院議員でもあった美濃部は辞職に追い込まれ、著書も発禁処分になりました。
 でも、進化論にせよ地動説にせよ、正しいかどうかは、科学のみが判定できます。教会も国王も政治権力も判断できません。
キャプチャ
 政治が野心を見せるときは、野蛮な下心があるからでしょう。天皇機関説事件から2年後には日中戦争、6年後には太平洋戦争。10年後にはついに敗戦です。
 明治憲法になかった「学問の自由」が、日本国憲法で新たに定められたのも、戦前に学問分野が国家権力によって侵害された歴史を踏まえてのことです。
 日本国憲法の制定時、憲法担当大臣の金森徳次郎が中国の始皇帝による焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)や進化論、天動説と地動説の論争を引き合いに、議会でこう答弁しています。
 <各人正しいと思う道に従って学問をしていくことを、国家が権力を以て之(これ)を妨げないことです>
 つまり「学問の自由」とは、学問分野への政治的干渉を排除することにこそ眼目があるのです。人事への介入もいけません。
 2020年に日本学術会議の会員候補6人が当時の菅義偉首相によって任命拒否された問題は、明らかに「学問の自由」の領域を侵していると考えます。
◆任命拒否を白紙に
 今なお、この問題がくすぶり続けているのは、政治の力で学術会議をねじ伏せようとしているからに違いありません。
 そもそも歴代内閣では「政府が行うのは形式的任命にすぎない」との答弁が国会で繰り返されています。それが確立された政府解釈で、首相による任命拒否などありえないことなのです。
 かつ学術会議は法により「政府から独立して職務を行う」と規定された独立機関でもあります。
 ですから、各分野の約1300もの団体が抗議声明を出す事態になりました。それでも政府は任命拒否を撤回せず、説明責任も果たしません。公文書もほぼ開示せず、裁判が起こされました。
 現在、政府がもくろんでいるのは、学術会議の法人化です。現行の「国の特別の機関」から「国から独立した法人」に移行する基本方針を示しています。
 でも法にある「独立」の言葉を「独立の法人」と言い換え、政府自らが組織改編に乗り出すのは矛盾です。あえて「透明性」の言葉を使い、従来の選考方法などを変えてしまいたいのでしょう。
 なぜ政府は干渉したいのか。学術会議がかつて「軍事目的の科学研究を行わない」との声明を出したからでしょうか。
 学術会議は「ご意見番」たる存在ゆえに、ときに政府に批判的であることも大事です。ですから、この問題は任命拒否こそ「白紙」に戻すべきだと考えます。
 冒頭の天皇機関説事件ですが、憲法学者の美濃部が右翼らの攻撃対象となったのはなぜか。原因の一つに事件前年の1934(昭和9)年にあった「陸軍パンフレット事件」が考えられます。
◆戦争は創造の父か
 「たたかいは創造の父、文化の母である」-そんな書き出しの戦争賛美の冊子でした。
 これに真っ向から反対する論文を「中央公論」(同年11月号)に書いたのが美濃部でした。
 <「創造」や「文化」は、個人の偉大な天才と、自由の研究とによってのみ生(うま)れ出(い)ずるものであり、それはもっぱら平和の産物で、戦争はかえってむしろこれを破壊する>
 実に明快ではありませんか。科学と戦争を結びつけるのは何とも浅はかです。学術会議問題の政府の真意が軍事にあるのなら、まるで「戦前」が原色を帯びて蘇(よみがえ)ってくるようです。