歓迎に応える昭和天皇=宮崎県内で1973年4月、吉村正治撮影
象徴天皇制は日本国憲法とともに突然生まれたわけではありません。特に天皇の政治関与をめぐっては、試行錯誤がありました。
「象徴天皇制の成立」の著書がある、志学館大学教授の茶谷誠一さんに聞きました。【聞き手・須藤孝】
◇ ◇ ◇ ◇
――日本国憲法には第1条に象徴という言葉があります。
◆連合国軍総司令部(GHQ)の憲法草案が日本側に伝えられたのは1946年2月13日です。昭和天皇が知るのは2月22日です。そこではじめて象徴という言葉が昭和天皇の目の前にあらわれます。
象徴という言葉で天皇がどこまで政治に関与できるかは、つきつめて議論する必要がありました。しかし、昭和天皇の戦争責任問題も絡み、日本政府はGHQ草案をのまざるを得ない状況でした。
考える余裕はなかったのです。昭和天皇にしても、側近にしても、どうやって政治に関与し、あるいはできないのかは試行錯誤でやるしかありませんでした。
――昭和天皇はどう対応しようとしたのでしょうか。
◆新憲法下での自分の立場は、ある程度は理解していたと思います。しかし、一定の政治関与はできると考えていたのではないでしょうか。前提になっているのは昭和天皇がよく知っていた、英国の立憲君主制です。
1973年の増原事件(※1)の直後に、当時の入江相政侍従長に「英国首相は毎週1回、クイーンに拝謁する」と言っています。閣僚の天皇に対する国政報告(内奏)を君主の政治的権限として認識していたことがわかります。
――昭和天皇が政治に関与しようとした時に止める人たちがいました。
◆歴代首相のなかでも厳しく考えていたのは芦田均です。片山哲内閣の外相だった時には、内奏を巡って、「新憲法になって以後、余り陛下が内治外交にお立ち入りになる如き印象を与へることは皇室のためにも、日本全体のためにも良いことではない」と日記に書いています。
芦田が推薦して初代宮内庁長官になった田島道治も、内奏自体は認めていますが、内奏で天皇が閣僚に政治的な発言をすべきではないという考えでした。
吉田茂内閣で、昭和天皇から、講和や再軍備などについて知りたいと言われた時に、田島は、内奏の際に陛下から直接聞くのはよくないのかもしれないので、私から聞いておきます、などと言っています。
吉田は内奏にはよく行っています。ただし、戦前のような、政府が決める前にお伺いを立てる形ではありません。情報は知らせるが、政治的な決定には関与させない考え方でした。
――田島の果たした役割は大きいのですね。
◆田島の昭和天皇拝謁記(※2)を見ると、側近として天皇の政治的な動きを抑制し、納得させる形で動いた田島の役割が大きいことが読み取れます。
昭和天皇は、政治的な発言をしたいけれども、田島から制止されます。吉田から情報は入ってくるけれども、それに対して意見を言うことは、やはり田島に止められます。
天皇は1949年に、「憲法の正文で政治外交に関係せぬことは文理上そうだが、GS(GHQ民政局)など厳格にそう考へてる様だが、あれはもう少しゆとりを持つ様にしたい」(拝謁記、49年10月31日)と言っています。もう少し政治に関与したいということです。これに対して田島は、「陛下は憲法上厳格に申せば、政治外交に御関係なれば憲法違犯(反)になります」(同49年11月1日)といさめています。
田島から止められた時には、昭和天皇は従っています。自分で考えていた以上に、政治に関与できない立場になったという昭和天皇の自覚が、田島長官時代にできていったように思います。
――昭和天皇が納得したわけではありません。
◆政治的な関与をしようとする昭和天皇の動きはその後も続きます。代表的なのは増原事件です。「天皇の政治利用」と批判されましたが、本当の問題は、天皇が閣僚に政治的発言をしたことです。
この時、昭和天皇は当時の宮内庁長官である宇佐美毅に「はりぼてにでもならなければ」と不満を漏らします。GHQが象徴天皇の機能として求めたのは「はりぼて」、つまりお飾りなのですが、昭和天皇は後年になっても納得していません。
政治への関与を探り続けることは昭和天皇のなかでは終生変わらなかったのではないでしょうか。
※1 1973年に増原恵吉防衛庁長官(当時)が、昭和天皇に国政報告(内奏)後に、「近隣諸国に比べ自衛力がそんなに大きいとは思えない」などの昭和天皇の発言を明らかにしたことが問題になり、辞任した。
※2 初代宮内庁長官の田島道治(1885~1968年)が49年から5年近い昭和天皇との対話を記録した書類。「昭和天皇拝謁記 初代宮内庁長官田島道治の記録 全7巻」(岩波書店)として刊行。(政治プレミア)