「柔道を『オリンピックゲーム』へ…(2024年6月26日『毎日新聞』-「余録」)

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1964年の東京オリンピックで、移民先のブラジルから帰国してレスリングを観戦するパリ五輪銅メダリストの内藤克俊さん(中央)
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エッフェル塔近くを流れるセーヌ川の河岸に設置されたパリ・オリンピックのカウントダウンボード=フランス・パリで2023年11月7日、和田大典撮影
 
 「柔道を『オリンピックゲーム』へ」。100年前のパリ五輪報告書にこんな思いを記したのはレスリングで銅メダルを獲得した内藤克俊(ないとう・かつとし)だ。柔道選手だったが、渡米後に学んだ大学でレスリング部に入り、主将を務めた
▲米国で排日移民法が成立した年。駐米大使の推薦で代表入りした。寄稿文では排日論が日本への「不理解」から生じたと指摘し、柔道の「世界化」に期待する胸の内をつづった
第一次世界大戦と「スペインかぜ」の世界的流行の後で観客もまばらだった4年前のアントワープ五輪と違い、パリ五輪は盛況だった。後にターザン映画に主演した水泳のワイズミュラー(米国)らスターが生まれた
▲それ以来となるパリ五輪まで1カ月。コロナ禍で大半の競技が無観客で実施された東京五輪から一転し、大観衆が予想されるのは1世紀前に似ている。一方、ウクライナやガザでは戦闘が続き、五輪休戦も見通せない
▲内藤の夢は1964年東京五輪で実現した。その後も競技が増え、3年前の東京五輪ではスケートボードやスポーツクライミングなどが加わった。パリ五輪では若者文化を取り入れたブレイキンが初登場する
▲競技場以外では史上初めてというセーヌ川での開会式は選手入場も船を使う。「広く開かれた大会に」とうたう五輪前の仏総選挙で移民に不寛容な極右勢力の優勢が伝えられるのは皮肉だ。100年前にもナショナリズムの高揚を警戒する声があった。大陸をまたぐ国際主義こそ五輪精神のはずだが……。