水俣病の患者・被害者団体と環境相との懇談「マイク切り」問題 書いたのはなぜ地方紙だけだったのか(2024年6月21日『西日本新聞』)

【永田健の時代ななめ読み】
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出席者の発言途中でマイクが切られ、紛糾する水俣病患者・被害者団体との懇談。右上は伊藤信太郎環境相=1日午後4時49分、熊本県水俣市
 5月1日、熊本県水俣市水俣病の患者・被害者団体と伊藤信太郎環境相との懇談が行われた際、予定の3分を超過したとして、環境省職員が被害者の発言中にマイクを切った。市井の人々の声に耳を傾けるより、大臣のスケジュールの方を大事にするという中央省庁の体質を浮き彫りにする出来事だった。
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水俣病患者連合の松崎重光副会長(左)に頭を下げる伊藤信太郎環境相=8日午後6時16分、熊本県水俣市(撮影・星野楽)
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水俣病被害者の位牌が並ぶ仏壇に頭を下げる伊藤信太郎環境相=8日午後5時19分、熊本県水俣市(撮影・星野楽)
 
 この件が広く報じられたことから、伊藤環境相は団体側に陳謝、改めて懇談の場を設けることになった。
 興味深い事実がある。当日は多くの報道機関が懇談の現場を取材していたのだが、翌日の朝刊で「マイク切り」に焦点を当て、項目を立てて報じたのは西日本新聞(本社・福岡市)熊本日日新聞熊本市南日本新聞鹿児島市)の地方紙3紙だった。
 全国紙は1紙が地域版で懇談の一シーンとして軽く触れた程度で、他紙は記事化しなかった。その後テレビなどが取り上げるにつれ報じるようになったという経緯である。
 なぜ地方紙だけが書いたか。自分の社のことを書くと自慢話と思われそうなので、熊本日日新聞の亀井宏二編集局長に話を聞いた。
        ◇   ◇
 -なぜ熊日熊本日日新聞)さんは「マイク切り」に即座に反応したのでしょうか。
 「うちだけでなく西日本さんも南日本さんもそうだが、長年水俣病問題を取材していて、記者も患者、被害者と同じ視点を持つようになっている。だからあの場面で『えっ』『何だ? これ』という怒りを覚えたのでしょう。『意見を聞かせてください』という懇談なのに、それを『長いから切ります』ですから」
 -翌日、全国紙の紙面を見た時どう思いましたか。
 「なんで載ってないの、普通書くでしょ、と。ただ、在京紙(全国紙)にも長年水俣の現地で取材している記者がいる。これはあくまでも想像だが、現場の記者は反応したかもしれない。在京紙の本社サイドの反応がどうだったのかが気になります」
 「在京紙の報道が本格化したのは、連休明けに官房長官がコメントするなど政界や官界の反応が出てから。在京紙の価値判断の基準が、霞が関や永田町に寄りかかっているのではないでしょうか」
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 ここからは私の持論であるが、地方メディアの仕事とは「クマソの言い分」を記録することだと思っている。
 日本最古の歴史書古事記」には、ヤマトタケルが朝廷に従わないクマソ(九州の豪族)を征伐したと書かれている。ヤマトタケル英雄伝説の一幕だ。クマソにも「従わない理由」-つまり言い分があったはず。しかし中央の権力者が作る歴史書には、地方からの「異議申し立て」は記録されないのが常である。
 国策のひずみは主に地方に出る。水俣病など高度成長下の公害はその典型であり、福島原発事故や沖縄の米軍基地集中も同じだ。ひずみに苦しむ人々の声は国の公式記録では無視され、矮小(わいしょう)化される。それを拾い集め、しつこく書き留めていくのが地方メディア。周縁から中央への「異議申し立て」の記録者なのだ。
 今回の「マイク切り」報道も、日頃の水俣病被害者取材の中で培った問題意識の表れだ。もし地方紙が報じなかったら、この一件は環境省の公式記録に全く残らなかっただろう。九州の3紙は地方紙らしい仕事をした。やはり「クマソの子孫」だからか。
 (特別論説委員