文豪・島崎藤村(1872~1943年)の教員時代の教え子の女性が関東大震災の際、神奈川県茅ケ崎市で命を落とした。女性の夫が自宅の庭に亡き妻の胸像を建てた際、藤村が追悼文を寄せた。胸像は太平洋戦争中に供出されたが、追悼文を刻んだ碑銘板は女性の故郷で藤村とも縁の深い長野県小諸市に残り、約80年ぶりに茅ケ崎に「里帰り」した。
島崎藤村(しまざき・とうそん) 旧中山道・馬籠村(現岐阜県中津川市)の旧家生まれ。本名春樹。小諸時代にロマン主義の詩から散文に創作法を変え、小説家に転身。明治から昭和に活躍した。代表作に「千曲川のスケッチ」「夜明け前」など。晩年の2年間を神奈川県大磯町で過ごす。享年71。
「信濃の山の上に咲く石楠(しゃくなげ)の花の純粹(じゅんすい)にも譬(たと)えたいようなその美しい性質は…」
茅ケ崎市で開催中の企画展「茅ケ崎純水館物語~糸もつくるが 人もつくる~」で公開されている碑銘板には「小山喜代野夫人の記念に」と題し、藤村が書いた190文字の追悼文が刻まれている。縦39センチ、横57センチ。左上の一文字が欠けている。ボルトの跡があり、胸像の台座から引き抜いた際に欠損したとみられる。
◆喜代野は私塾の教え子だった
喜代野は1887年、長野県小諸町(現小諸市)の豪商で製糸所「純水館」創業者小山久左衛門の長女として生まれた。町に創設された私塾「小諸義塾」に99年、藤村が27歳で赴任。6年間英語と国語を教えた。
喜代野は1901年に併設された女子学習舎で藤村から2年間学ぶ。その後、婿入りした小山房全(ふさもち)が17年に神奈川県茅ケ崎町(現茅ケ崎市)に進出し、純水館茅ケ崎製糸所を経営。生糸は横浜港から米国に輸出され、町の発展に貢献した。
だが、23年9月の関東大震災で製糸工場敷地内の自宅が倒壊し、36歳だった喜代野は子どもをかばって圧死した。房全は工場を再建し、25年、残された4人の子のため、喜代野の胸像を建立。藤村は小山家の依頼に応じ、恩師の立場から追悼文を書いた。
30年代の世界恐慌を経て37年、製糸所は廃業。胸像は43年の金属類回収令で失われたが、藤村の碑銘板は小諸市立藤村記念館の収蔵庫に長らく眠っていた。小山家の歴史に詳しい信州味噌株式会社(小諸市)会長の森健(たけし)さん(77)は「誰がいつ記念館に持ち込んだのかは謎のまま。胸像の供出時に碑銘板を残そうとした関係者が秘匿を望んだのではないか」と話す。
◆藤村にとって自分の気持ちを表せる相手
今回の企画展で日の目を見た追悼文について、市民団体「茅ケ崎純水館研究会」の名取龍彦さん(65)は「追悼文から、藤村自身の家族への思いも見て取れる」と思いをはせる。
藤村は1905年に小諸から上京し、現在の新宿区歌舞伎町の借家で小説「破戒」を完成させるが、貧困や病で幼い娘3人を失う。台東区浅草橋に転居して妻冬子(ふゆ)、3人の息子と暮らすが、四女の出産後に冬子が亡くなる不幸にも遭う。
名取さんは「娘たちを亡くした悲しみを喜代野への手紙に書くなど、喜代野は藤村が自分の気持ちを表せる相手だった。4人の子を残して早世した喜代野に自身の悲しみや喪失感を重ね合わせて記した可能性もある」と語った。
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文と写真・野呂法夫
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