朝ドラで父親が逮捕された収賄騒動は「帝人事件」がモデルか…時の首相をも失墜させた昭和史の大いなる謎(2024年5月2日『プレジデントウーマン』)

朝ドラで父親が逮捕された収賄騒動は「帝人事件」がモデルか…時の首相をも失墜させた昭和史の大いなる謎

ドラマ「虎に翼」(NHK)で帝都銀行に勤めるヒロインの父親が逮捕された汚職疑惑「共亜事件」は、当時、実際に起こった「帝人事件」を基にしている。昭和の政治史を研究する菅谷幸浩さんは「帝人事件では、銀行の頭取や行員、帝人社長など、政財界人が次々に検挙された。ついには内閣が総辞職するにまでに発展した謎の多い事件だ」という――。

※本稿は、筒井清忠・編著『昭和史研究の最前線』(朝日新書)の一部、菅谷幸浩「第八章『帝人事件』」を再編集したものです。

斎藤内閣発足時の記念撮影。2段目左から鳩山一郎文相、斎藤実首相兼外相、岡田啓介海相。1932年5月25日
斎藤内閣発足時の記念撮影。2段目左から鳩山一郎文相、斎藤実首相兼外相、岡田啓介海相。1932年5月25日(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

戦前の1934年、斎藤内閣が総辞職する大事件に発展

帝人事件は1934(昭和9)年、当時の斎藤実まこと内閣が総辞職する要因となった戦前最大の疑獄事件である。大蔵省幹部や閣僚経験者など、政財官界要人が株取引にまつわる不正を問われて起訴されるが、公判の過程では検察による自白の強要、自殺防止を名目とした革手錠の使用、劣悪な収容環境が明らかとなり、「検察ファッショ」「司法ファッショ」の言葉を生む。

のちに被告人全員の無罪で結審するが、判決文は検察側の主張を「空中楼閣」「あたかも水中に月影を掬きくせんとするの類」とまで評した謎多き事件である。当時、日本は1932(昭和7)年の五・一五事件によって政党内閣時代が終わり、非政党代表者を首班とする挙国一致内閣時代に入っていた。

このうち、1936(昭和11)年の二・二六事件以前に政権を担った斎藤内閣と岡田啓介けいすけ内閣はいずれも海軍出身の穏健派を首班とし、政党との協調関係を優先していたことから「中間内閣」と称されている。

現在、昭和戦前期研究のなかでは挙国一致内閣時代に政党内閣復帰の可能性が様々な局面で存在したことや、必ずしも軍部による政治介入だけでは説明できない側面が明らかになっている。

当時の斎藤内閣や中央政界の動きをたどることで、帝人事件の政治的背景にアプローチしていく。そのことで斎藤内閣の果たした役割や、帝人事件が昭和史に残した影響を考えてみたい。

五・一五事件で犬養首相が殺された後に成立した斎藤内閣

1932(昭和7)年5月15日、時の首相・犬養毅いぬかいつよしが海軍青年士官らにより暗殺されると、総裁を失った立憲政友会20日の臨時党大会で元田中義一ぎいち内閣内務大臣・鈴木喜三郎を新総裁として承認する。この年2月の第18回衆議院議員総選挙で政友会は303議席を占め、立憲民政党の147議席に大差をつけていた。それまでの「憲政の常道」の原則に鑑みれば、衆議院第一党の総裁である鈴木に大命が降下するはずであった。

しかしながら、元老・西園寺公望さいおんじきんもちは26日、元朝鮮総督・斎藤実(元海軍大将)を後継首班として奏薦する。斎藤内閣には政友会から高橋是清これきよが大蔵大臣、鳩山一郎が文部大臣、三土忠造みつちちゅうぞうが鉄道大臣、民政党から山本達雄が内務大臣、永井柳太郎が拓務大臣として入閣し、衆議院二大政党から支持を受ける超党派連立内閣の形をとる。斎藤にとって、この内閣は「非常時」に対処するための暫定政権であり、将来的には政党内閣復帰を意図していた(村井良太『政党内閣制の展開と崩壊』)。

世界恐慌から脱した1933年、「非常時」からの復帰が求められた

かつては1931(昭和6)年の満州事変から1945(昭和20)年の敗戦に至るまでの期間を「十五年戦争」として一括する見方が一般的であった。しかし、今日の研究では1930年代における日本の政治外交は急激な変動を伴うものではなく、戦時体制の連続として捉えられないことが明らかになっている。1933(昭和8)年5月、塘沽たんくー停戦協定成立により日中関係は過渡的安定期に入り、同年半ばには高橋財政の成果により、日本経済は世界恐慌から脱却している。このように1933年を境として、日本国内では「非常時」の空洞化が認識されるようになるのである。

1933(昭和8)年10月頃になると、中央政界では斎藤内閣退陣と政党内閣復帰を求める声が高まっていく。とくに鈴木ら政友会執行部は「非常時」解消の目途がついた段階で、政権を円満な形で斎藤から政友会に移行させるべきだと考えていた。しかし、この年5月22日、高橋蔵相が斎藤に対して留任を約束したことは鈴木の期待を裏切るものであった。

軍部を抑えるため二大政党の政友会と民政党が接近した

5月24日、政友会元幹事長・久原房之助くはらふさのすけは一国一党論を宣言し、6月上旬になると、久原派は「非常時」未解消での政党内閣復帰は認められず、政党と軍部が連携した強力な挙国一致内閣樹立を求める檄文を公表する。これらは鈴木による党指導の行き詰まりに付け込んだ総裁派攻撃を意味していた(奥健太郎『昭和戦前期立憲政友会の研究』)。このため、斎藤内閣としても政友会との関係を鈴木ら執行部だけに依存できない状況になっていたのである。

当時の商工大臣・中島久万吉くまきちの回想によれば、この年秋、元老・西園寺公望秘書・原田熊雄の呼びかけで出席した「朝飯会」の席上、軍部抑制のためには政党の浄化と強化が必要であり、その手段として政民両党の接近が急務であると申し合わせていた。これに基づき、中島は政友会の島田俊雄、民政党の町田忠治を新橋の料亭で会談させ、斎藤の了解も得たうえで、政民両党幹部懇談会を開催することになる(中島久万吉『政界財界五十年』)。このように政民連携運動を御膳立てしたのは斎藤内閣の側であった。

2党が団結できなかったことが斎藤内閣総辞職につながった

12月25日の政民両党幹部懇談会には政友会から顧問・床次とこなみ竹二郎、幹事長・山口義一、政調会長・前田米蔵久原房之助、浜田国松、島田俊雄、山崎達之輔、松野鶴平、内田信也、望月圭介、山本条太郎、秋田清、川村竹治、民政党から顧問・町田忠治、幹事長・松田源治、俵孫一、小山松壽、頼母木桂吉たのもぎけいきち、櫻内幸雄、富田幸次郎、小泉又次郎小橋一太こばしいちたが出席し、憲政の基本は政党政治にあることを確認する。

政界のフィクサーと呼ばれた久原房之助、久原房之助翁伝記編纂会編『久原房之助』より(1939年撮影)
政界のフィクサーと呼ばれた久原房之助久原房之助翁伝記編纂会編『久原房之助』より(1939年撮影)(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

民政党側は主流派のみが参加しているのに対し、政友会側は総裁派(山口、島田、松野、川村)に加え、1924(大正13)年の分裂時に残留した旧政友系(前田、浜田、山崎、望月、山本、秋田)のほか、久原派(久原、島田)、床次系(床次、内田)など、複数の勢力が混在していた。

当時、政民連携運動には、①満州事変期に協力内閣運動を展開した久原房之助と富田幸次郎を中心とするもの、②衆議院議長・秋田清(政友会長老)と小泉又次郎民政党元幹事長)を中心とするもの、③鳩山一郎ら政友会幹部を中心とするもの、という三つの潮流があった(升味準之輔ますみじゅんのすけ『日本政党史論』第6巻)。

先の懇談会出席者の内訳で明らかなように、政友会側で政民連携運動に関与していた勢力は一つではなかった。そのことがのちに政民連携運動の挫折と斎藤内閣総辞職をもたらすことになるのである。

レーヨンで急成長した帝人の親会社である総合商社が経営破綻

大正時代、日本経済は第一次世界大戦終結後の戦後恐慌、関東大震災に伴う震災恐慌により甚大な打撃を受ける。震災手形の処理問題は昭和初期まで引き継がれ、1927(昭和2)年に発生する金融恐慌の背景となる。

ちなみに同年4月に経営破綻した鈴木商店は大戦間期に急成長した総合商社の一つであった。当時、鈴木商店系列の帝国人造絹糸株式会社(以下、帝人)の株式42万株のうち、22万株が台湾銀行に担保として預けられていた。台湾銀行日本銀行から特別融通を受けており、本来、帝人株式はその返済に充てられるはずであった。

その後、折からの人絹市場好況によって買い付けの動きが高まり、1933(昭和8)年5月30日、台湾銀行帝人監査役河合良成かわいよしなりを代表とする買受団との間で帝人株式10万株を1株125円で売却する契約を交わす。まもなく帝人株式は値上がりし、買受団側は高配当を手にすることになる。

台湾銀行帝人株を売却した後に株価が上がり、疑惑の報道が

当時、この売却契約は一部で報道されていたが、1934(昭和9)年1月から始まる『時事新報』の連載記事「番町会を暴く」(全56回)により政治問題化していく。この連載は時事新報社相談役・武藤山治さんじの指示により、同紙記者・和田日出吉ひできちが大森山人の筆名で執筆したものである(武藤治太『武藤山治帝人事件』)。

番町会とは日本経済連盟会会長・郷誠之助を中心とする財界人グループの通称であり、1923(大正12)年に麹町こうじまち番町にある郷の私邸で開かれた懇談会が始まりである。1933年末から議会政治擁護、政民連携の必要性を掲げており、政民連携運動の仲介役を務めていた実業界出身の中島商相もそのメンバーであった。『時事新報』は、その番町会が有力者に仲介を依頼することで帝人株式を廉価で不正入手し、かつ、政民連携運動を名目にして利権劇を繰り広げていると攻撃したのである。

検察当局は1934年2月から内偵を始め、4月から9月にかけて関係者を検挙していく。のちに島田茂台湾銀行頭取)、長崎英造(旭石油社長。番町会)、高木復亨(帝人社長、元台湾銀行理事)、柳田直吉(台湾銀行理事)、永野護帝人取締役。山叶商店取締役。番町会)、小林中あたる(富国徴兵保険支配人。番町会)が背任および瀆職とくしょく(汚職)、河合良成(日華生命専務、帝人監査役。番町会)が背任、越藤恒吉こしふじつねきち台湾銀行経理第一課長)、岡崎旭(帝人取締役。元台湾銀行秘書役)が背任および贈賄、黒田英雄(大蔵次官)、大野龍太(大蔵省銀行局特別銀行課長)、相田岩夫(大蔵事務官・台湾銀行監理官)、志戸本次朗(大蔵省銀行局検査官補)、大久保偵次(大蔵省銀行局長)、中島久万吉(元商工大臣)が瀆職、三土忠造(元鉄道大臣)が偽証(帝人株式300株収受の否定)の容疑で起訴される。

台湾銀行頭取や帝人社長らが汚職で次々に検挙された

なお、この帝人事件に関連して失脚することになる閣僚のうち、中島と鳩山に対しては検察の捜査開始前から議会内で攻撃が始まっていた。

鳩山一郎文部大臣。犬養内閣編纂所編『犬養内閣』より(1932年撮影)
鳩山一郎文部大臣。犬養内閣編纂所編『犬養内閣』より(1932年撮影)(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

1934年2月3日、第65回貴族院本会議で同和会の関直彦は帝人株式が政府高官の仲介で不当売却されたことを追及するが、この演説内容は1月中旬、武藤山治から提供された資料に基づくものであった(前島省三『新版・昭和軍閥の時代』)。

同月7日、公正会の菊池武夫(元陸軍中将)は中島の雑誌論文「足利尊氏」(『現代』1934年2月号)の内容が逆賊賛美にあたると批判する。これは中島が中島華水の筆名で発表した「鶏肋けいろく集(其三)」(『倦鳥』1925年3月号)が無断で転載されたものであった。菊池は三土鉄相に対しても田中内閣蔵相在任中の神戸製鋼株処分や、鉄道工事をめぐって不正疑惑があることを指摘する。さらに研究会の三室戸敬光みむろどゆきみつ(元海軍大佐)も緊急質問として登壇し、尊氏問題に関する中島の所見を追及する。

帝人株問題が飛び火し鳩山一郎文部大臣も辞職、政局は混乱

2月6日、内大臣牧野伸顕のぶあきは昭和天皇に対し、「中島商相の尊氏論云々の事情も只ただ御参考として御聞取りの事なれば何等支障は無之これなく」と述べ(伊藤隆・広瀬順皓編『牧野伸顕日記』中央公論社)、楽観的に捉えていた。しかしながら、中島はこの3日後には辞任を余儀なくされる。

筒井清忠・編著『昭和史研究の最前線』(朝日新書)
筒井清忠・編著『昭和史研究の最前線』(朝日新書

この間、同月8日の衆議院本会議では政友会久原派の岡本一巳かずみが三土、鳩山、中島の3閣僚を名指しして帝人株問題を取り上げ、樺太工業株式会社をめぐる鳩山の収賄疑惑を暴露する(五月雨さみだれ演説)。岡本はこの2日後に政友会を除名処分となるが、同15日には同じく政友会の江藤源九郎(元陸軍少将)も衆議院本会議での緊急動議で鳩山と三土の背任疑惑を追及している。

3月3日、衆議院の事実調査委員会は岡本の発言内容を事実無根とする報告書をまとめ、議長宛に提出するが、鳩山は文教政策への影響に鑑み、同日付で辞任する。鈴木ら政友会執行部にとって、岡本の五月雨演説はまったくの寝耳に水であり、党内の混乱を印象付けるものであった。

  1.  

検察の横暴で起訴された帝人社長ら16人は全員無罪に…朝ドラの元ネタにもなった

 

ドラマ「虎に翼」(NHK)で描かれる「共亜事件」のモデルは、1934年に起こった戦前最大の疑獄事件「帝人事件」。政治学者の菅谷幸浩さんは「政財界から16人が逮捕、裁判にかけられたが、4年後には全員無罪になる。これは当時の軍部も絡んだ複雑な政局と、無根拠のマスコミ報道によって作り出された、教訓の多い歴史的事件だ」という――。

※本稿は、筒井清忠・編著『昭和史研究の最前線』(朝日新書)の一部、菅谷幸浩「第八章『帝人事件』」を再編集したものです。

帝人事件をめぐる軍部陰謀説と平沼陰謀説

前記事で述べた中島(編集部註:商工大臣)と鳩山(文部大臣)に対する攻撃の背景として、軍部の関与を推測する先行研究もあるので、その正否から検討する。

満州事変後、陸軍では天皇親政による国家改造を目指す勢力として皇道派が生まれる。その領袖であった真崎甚三郎まさきじんざぶろう大将の浩瀚こうかんな(膨大な量の)日記が公刊されているが、そこには中島や鳩山の辞任につながる記述は見当たらない。

1934年1月、荒木貞夫陸相の病気辞任に伴い、林銑十郎せんじゅうろう大将が入閣し、3月には永田鉄山てつざん少将が陸軍省軍務局長に就任する。この林・永田ラインを軸として、陸軍内では反皇道派系勢力の結集が進む。4月11日、林陸相実弟である東京市助役・白上佑吉が疑獄事件に関与して有罪判決を受けたため、辞表を提出する。

しかし、斎藤や参謀総長閑院宮戴仁かんいんのみやことひと親王に慰留され、同月15日の陸軍三長官会議で留任が決定している(宮内庁編『昭和天皇実録』第6巻)。これは当時の斎藤内閣や天皇・宮中は林を陸軍統制回復の主体として認識していたためであり、この状況下で林や永田が斎藤内閣打倒工作を仕掛ける理由はない。

「平沼擁立を目指していた司法省行刑局長の謀略」という見方

また、帝人事件を枢密院副議長・平沼騏一郎ひらぬまきいちろう(司法官僚出身)の策謀とする説も根強い。平沼は国家主義団体「国本社こくほんしゃ」の会長を務め、元老の西園寺と対立する一方、軍や右翼の中に平沼を慕う勢力がいたのは事実である。このため、平沼陰謀説は当事者の間でも囁ささやかれていた。

帝人事件の黒幕という噂もあった平沼騏一郎、『憲政50年史』より
帝人事件の黒幕という噂もあった平沼騏一郎、『憲政50年史』より(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

1934年6月3日、番町会の渋澤正雄(昭和鋼管・富士製鋼社長)は、「目下本事件を担当せる検事等は平沼男〔爵〕の子分にして、政府打倒の目的を以て仕組まれたる策動」と述べており(甲南学園平生釟三郎ひらおはちさぶろう日記編集委員会編『平生釟三郎日記』第15巻)、警視総監・藤沼庄平も戦後の回想録『私の一生』で、帝人事件は平沼擁立を目指していた司法省行刑局長・塩野季彦すえひこの謀略と述べている。

これに対し、近年では萩原淳氏による評伝的研究により、司法部における平沼閥や、1930年代の平沼内閣運動の全容が明らかになっている。そこでは平沼が帝人事件の捜査情報を知りえる立場にいたが、事件そのものに関与したと断定する根拠はないことが指摘されている(萩原淳平沼騏一郎と近代日本』『平沼 騏一郎』)。筆者も史料状況からして、この見解が妥当であると考えている。

政党と軍部が連携した挙国一致内閣を求めた政友会久原派

基本的事実として、岡本の五月雨さみだれ演説が政友会内部からの造反行為であった以上、帝人事件の背景として政界との関連性は除外できない。もともと武藤ら『時事新報』が支持していたのは、政友会元幹事長の久原を中心とする親軍的な大同団結運動であり、政民両党主流派による政策協定中心の政民連携運動には批判的な論調をとっていた(松浦正孝『財界の政治経済史』)。

この時期、久原房之助くはらふさのすけは、政党と軍部が連携した強力な挙国一致内閣樹立を求めていた。政友会久原派は党内で第3位の勢力にあったが、1934年4月以降、政民連携運動から離れていく(佐々木隆「挙国一致内閣期の政党」)。久原にすれば、総裁派主導で政民連携運動が進展し、鈴木内閣が成立することは決して望ましいことではなかったからである。

検察当局による帝人事件捜査は東京地方裁判所検事正・宮城長五郎宛の三つの告発状をもとに開始される。告発人の一人である中井松五郎には武藤山治の妻と親しい内妻がいた(大島太郎「帝人事件」)。のちの公判で、中井は自分自身に法律知識がまったくなく、大沼末吉弁護士に相談のうえで告発状を作成したことを認めている。

検察に出された告発状は、久原派が仕組んだものか

大沼は政友会久原派の代議士だった津雲国利つくもくにとし(1934年2月16日、党紀紊乱びんらんにより除名処分)と非常に懇意であった。帝人事件前後に行われた鈴木喜三郎や望月圭介への告発、それ以前の小泉策太郎に対する鉄道横領疑惑の告発はすべて大沼によるものであった(菅谷幸浩『昭和戦前期の政治と国家像』)。以上のことから、帝人事件の背後には久原派による政民連携運動への妨害工作が見え隠れする。

判決が出る前に検察が告訴する見込みを報じた『東京朝日新聞』1937年12月22日付
判決が出る前に検察が控訴する見込みを報じた『東京朝日新聞』1937年12月22日付

この年2月以降、鈴木ら政友会執行部は民政党との間で、運動目的を政策協定に限定した政民連携交渉に着手する。その狙いは久原派と床次派の抑え込みにあり、5月11日の両党政策協定委員会第1回会合までに総裁派が主導権を掌握するに至る(前掲『昭和戦前期立憲政友会の研究』)。同委員会は6月29日に第2回会合が開催されるものの、具体的成果を残すことはなかった。

7月3日、法相・小山松吉は閣議帝人事件捜査の中間報告を行う。この報告は黒田大蔵次官の前月22日付嘆願書に基づくものであり、自らが受け取った帝人株式の一部が高橋蔵相の長男(貴族院議員・高橋是賢これかた)に渡っていたと記されていた。

すでに2閣僚が失脚し、5月19日に黒田が起訴されたことは斎藤内閣が政綱に掲げた綱紀粛正の方針を根底から揺るがすものであった。そのうえ、重要閣僚の親族まで逮捕されれば、政治的影響は計り知れない。ここに斎藤は内閣総辞職を決断し、中間内閣としての2年余りの使命を終えることになる。

ついに斎藤内閣は総辞職、収賄疑惑が政局を崩壊させた

しかし、のちの公判で、右の嘆願書はアルコール中毒に苦しむ黒田が主任検事・黒田越郎えつろうの誘導により書かされたものであることが判明している(河合良成帝人事件』)。黒田は島田茂への取り調べの際、「政党巨頭連中の内には兎角とかく問題になる奴が居る、之等これらの奴等は国家非常時の此際何どうしても葬らなければならぬ」と述べている(前掲『昭和戦前期の政治と国家像』)。

このように帝人事件と政党政治家を重ね合わせる見方は「番町会を暴く」と重なる。「紅葉館で中島君の御馳走を食つたのは政友床次君、民政町田君を始め、政民の錚々そうそうたる大幹部多数」であり、「政治家と実業家と棒組みとなって、良からぬ手段方法で資金を集め政界財界を腐敗せしむることは断じて許してはならぬ」(『時事新報』1934年1月27日)という言葉は、そのまま黒田ら担当検事の認識を代弁したものと言っていいだろう。

時事新報の武藤は1934年3月9日、神奈川県大船町の自宅を出た直後、かねてから原稿料支払いをめぐってトラブルになっていた相手に拳銃で撃たれ、翌10日に死去する。黒田越郎も6月22日に胆石病で倒れ、そのまま7月23日、築地の聖路加国際病院で死去する。このため、帝人事件の核心には未解明な部分が残されたままだが、時代背景として次のことが言える。

検事は世論に動かされ、一大疑獄事件で政治への信頼は失墜

この斎藤内閣期、1933年7月から五・一五事件の陸海軍側公判が始まり、メディアは陸軍の誘導する形で被告人たちの純真さや、政党と財閥の腐敗を強調する報道を繰り返していた(小山俊樹『五・一五事件』)。そして、続く岡田内閣期に至るまで、多くの選挙違反事件や自治体疑獄事件が国内各地で摘発されるが、警察や検察による強引な捜査手法も顕在化していた。そこには汚職撲滅に向けた正義感や、検挙実績への執着があったことは想像に難くない。帝人事件捜査に携わった検事たちもそのなかに数えられるだろう。

五・一五事件に関わったとされた民間人の裁判。歴史写真会『歴史写真(昭和9年3月号)』より。1934年。
五・一五事件に関わったとされた民間人の裁判。歴史写真会『歴史写真(昭和9年3月号)』より。1934年。(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

五・一五事件後、中間内閣として成立した斎藤内閣にとって、1933年から本格化する政民連携運動は政党内閣復帰に向けた足がかりとなるものであった。しかし、政友会の党内対立によって政民連携運動は破綻を迎えていく。斎藤内閣後半期の政治を方向付けたのは、軍部ではなく政党の動きであった。

こうした政治状況のなかで、帝人事件は世論に影響された検事たちの手も加わり、その構図が作られていく。綱紀問題への取り組みを非常時の重大使命と位置付けていた斎藤内閣の下で、政財官界にまたがる一大疑獄事件が発生したことは政治への信頼を大きく揺るがすものであった。

財界人や官僚を悪とし、検察を正義として報じたメディアの罪

最後に、帝人事件がその後の歴史に残した影響を挙げておく。

第一は天皇機関説事件との連続性である。検察当局による人権蹂躙じゅうりん疑惑は岡田内閣期の議会でも度々取り上げられ、とくに1935年1月23日の第67回貴族院本会議における美濃部達吉みのべたつきち(東京帝国大学名誉教授)の質問演説は多方面から注目を集める。

筒井清忠・編著『昭和史研究の最前線』(朝日新書)
筒井清忠・編著『昭和史研究の最前線』(朝日新書

しかし、帝人事件が政財界腐敗の副産物と目されていたなか、浜口内閣のロンドン海軍軍縮条約批准を支持するなど、民政党に近いと思われていた美濃部が検察批判を展開したことの波紋は大きかった。斎藤内閣に続く昭和第二の中間内閣の成立に反発していた勢力にとっては、美濃部学説への批判を通じて、岡田内閣・宮中の排除を目指す運動の口実となる(前掲『昭和戦前期の政治と国家像』)。

第二は政党政治家や財界への不信感を強めたことである。大半のメディアは当初から事件に関連した財界人や官僚を悪とし、検察の側を「社会革正」の旗手として捉えていた。その結果、政党の後退、官僚と軍部の台頭に向けたポピュリズムが加速することになる(筒井清忠『戦前日本のポピュリズム』)。これは私益に対する公益の優位など、のちの日中戦争期における統制経済の思想を正当化するものになる。

現代にも通じる教訓「検察が公正さを見失うと何が起こるか」

帝人事件で起訴された被告人16名は266回の公判を経て、第一次近衛文暦このえふみまろ内閣期の1937年12月26日、東京地方裁判所(裁判長・藤井五一郎)で全員無罪が言い渡される。当時法相だった塩野季彦は、黒田ら担当検事が「敏腕ではあるが奔馬的(編集部註:勢い余って乱暴な)捜査をする連中」であり、「捜査が長引いたのと、其間そのかん多少の無理があつたやうに感じられる。事件は半ば真実で、半ば架空であると思ふ」と述べている。

そのうえで、検察側が控訴しても勝算は見込めず、「事変漸ようやく拡大したる今日、斯かかる闘争は速かに消散せしむるが、国家の為にも、司法部の為にも宜よろしからん」と判断したという(塩野季彦回顧録刊行会編『塩野季彦回顧録』)。

帝人事件で無罪が確定し、被告であった大野龍太(大蔵省銀行局特別銀行課長)、三土忠造(元鉄道大臣)の喜びの表情を写真入りで報じた『東京朝日新聞』1937年12月24日付
帝人事件で無罪が確定し、被告であった大野龍太(大蔵省銀行局特別銀行課長)、三土忠造(元鉄道大臣)の喜びの表情を写真入りで報じた『東京朝日新聞』1937年12月24日付

本来、公権力に求められるのは法的手続きの遵守と中立性である。検察が時代の空気に流され、公正さを見失ったときに何が起こるか。その恐ろしさを帝人事件は現代の私たちに伝えていると言えるだろう。

菅谷 幸浩(すがや・ゆきひろ)
政治学
1978年茨城県生まれ。学習院大学大学院政治学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(政治学)。亜細亜大学法学部・高崎商科大学商学部兼任講師。著書に『昭和戦前期の政治と国家像』(木鐸社)、共著に『立憲民政党全史1927-1940』(講談社)がある。