戦艦大和乗員295人も「平和の礎」に追加 敵味方、軍民の区別なく刻まれた「非戦の誓いの塔」込められた理念は(2024年6月21日『東京新聞』)

 
 23日の沖縄慰霊の日を控えた平和祈念公園の「平和のいしじ」(沖縄県糸満市)に、新たに犠牲者365人分の刻銘板が加えられた。大半の295人を占めるのが、沖縄に向かう特攻作戦で撃沈された戦艦大和広島県出身の乗組員だ。埋もれていた人々は、どのように掘り起こされたのか。凄惨せいさんな地上戦が行われた沖縄で、軍民の区別も国籍も問わない「平和の礎」に込められた理念を振り返った。(山田祐一郎、大杉はるか)

◆「水上特攻」の犠牲者、2021年に県外出身者の漏れが判明

 「大和で沖縄に向かって戦死した人の名が刻まれることの意味は大きい」。大和が建造された広島県呉市の「呉海軍墓地顕彰保存会」の竹川和登副理事長(78)が追加刻銘があった20日、感慨深げに話した。
 大和は、全長約263メートル、基準排水量64000トンの当時世界最大の戦艦だった。内径46センチの主砲は射程40キロ以上を誇り、「大艦巨砲主義」の象徴とされるが、太平洋戦争では主役は航空機に移っていた。1945年4月、米軍が上陸した沖縄に航空機の護衛もなく突入する「水上特攻」に出撃。鹿児島県沖で米軍機の集中攻撃を受けて沈没した。
1941年10月に高知・宿毛沖で撮影された戦艦「大和」=大和ミュージアム提供

1941年10月に高知・宿毛沖で撮影された戦艦「大和」=大和ミュージアム提供

 呉市海事歴史科学館大和ミュージアム)によると、3332人とされる乗組員のうち3056人が死亡。護衛の5隻も沈没し、約1000人が犠牲となった。
 今回の大規模な追加のきっかけをつくったのは、那覇市在住で戦没者遺骨収集に取り組んでいる南埜安男さん(58)。一昨年、「戦没船員名簿」と平和の礎のデータベースを照合した結果、沖縄県外出身者約400人の刻銘漏れを確認した。その後の調査で、大和の戦死者の多くが刻銘されていないことが判明し、旧知の広島経済大の岡本貞雄名誉教授に調査を依頼した。
 岡本さんは、呉海軍墓地を訪れ、戦艦大和の慰霊碑に刻まれた内容や名簿から、沖縄に向かう大和の戦死者のうち広島県出身者を確認。広島県に、沖縄県に追加申請するよう求めた。調査に協力した竹川さんは「岡本先生はすべての都道府県出身者も調査し、沖縄県へ申請するよう要請しようという思いがあった」。だが昨年12月に県が追加申請を行う直前、岡本さんは70歳で病気で亡くなり、思いはかなわなかった。

◆まだ2000人以上の刻銘漏れも調査は難航

 無謀な作戦で、生還の可能性を断たれた大和の乗組員。南埜さんの照合では、僚艦を含め戦死者約2400人が刻銘されていなかった。「今回、300人近くが追加されてもまだ2000人以上が残っており、大和関連の戦死者の半分にも満たない」と訴える。都道府県では、遺族への確認が難しいことを理由に追加申請が進んでいないケースがあるといい、「今回、2年前から取り組んでやっと追加された。遺族は年々把握しにくくなっており、戦後80年に向けて時間がない」と危機感を抱く。
 実際、今回の追加について広島県社会援護課は「名簿の提供を受け、県出身者として確認が取れたので申請をした。そもそも遺族から要請を受けて沖縄県に申請するのが本来の形。県として誰を申請するか調査しているわけではない」と説明する。
 南埜さんは各地の自治体が出身地として積極的に申請することを求める。「平和の礎は、沖縄戦で亡くなったすべての人々が対象のはず。大和だけでもあまりに多くの人が放置されている現状でいいのか。戦争の実相を後世に伝えるには、一人一人の名前が正しく刻まれなければいけない」

沖縄戦悼み95年に建立、03年に対象拡大し24万人超

 1945年3月26日に米軍上陸が始まった沖縄戦は、6月23日の牛島満司令官の自決で組織的戦闘が終結。地上戦で日米双方で計20万人以上が死亡し、県民の4人に1人が犠牲になった。
 「平和の礎」は、戦争終結50年となる95年に建立された。国籍を問わず、沖縄戦で亡くなった加害者と被害者、戦争指導者、一般県民23万4183人の名前が当初刻まれた。2003年には、遺族団体の要望もあり、対象を拡大。県出身者は、沖縄戦に限らず、満州事変(1931年)から46年ごろまでに戦争が原因で亡くなった人まで広げ、外国を含む県外出身者は、南西諸島周辺での戦没者や戦後約1年以内に戦争が原因で亡くなった人も加えた。
「平和の礎」の前で手を合わせる人々=沖縄県糸満市の平和祈念公園で(2018年撮影)

「平和の礎」の前で手を合わせる人々=沖縄県糸満市平和祈念公園で(2018年撮影)

 対象者拡大で、2004年には戦艦大和の元乗組員約180人やハンセン病療養所で亡くなった111人が追加された。沖縄県によると、今回の大和乗組員を含む365人の刻銘などで計24万2046人に。内訳は同県出身者14万9634人、他の都道府県出身者7万7823人となっている。
 国外は1万4589人で、米国が1万4010人を占める。日本の植民地だった朝鮮半島出身者も1万人余り命を落としたとされるが、実態把握は難しく、日本政府も調査していないため、刻銘者は463人にとどまっている。

◆平和祈念資料館とともに、戦争の愚かさを

 「平和の礎」建設には、沖縄戦鉄血勤皇隊に動員された大田昌秀知事(当時)の思い入れがあった。著書「死者たちは、いまだ眠れず」(新泉社)で「『平和の礎』はたんなる慰霊の塔ではありません」「『非戦の誓いの塔』と言えます」「戦争の不条理、愚かさに対するわたしたちなりの認識にもとづいているのです。それはまた、県民に共通の痛恨の思い、悔しさの表明」と書いている。
 そして「戦場で地獄を体験した人たちは、国籍をこえて人間同士の立場に立って平和を求めた」「敵として戦った米英軍の戦没者だけでなく、朝鮮半島出身や台湾出身の犠牲者をも刻銘することによって、沖縄戦における日本側の被害状況について理解するだけでなく、他国民に与えたわが国の加害の責任についても自覚することがある程度可能になると考えた」と記す。
 1977年から戦没者実数調査を進め、「平和の礎」刻銘検討委員会座長を務めた石原昌家・沖縄国際大名誉教授(平和学)は、県主導で調査に当たるよう進言したことを明かす。「戦傷病者戦没者遺族等援護法の対象となる軍人・軍属の戦没者は把握できても、名前がつけられる前に戦場で亡くなった赤ちゃんもいたし、戸籍名簿は空襲や日本軍の命令で焼却されていた。米国や英国、朝鮮半島出身者の名簿も必要で、県も相当苦労した」
 対象時期を広げると、海外で亡くなった沖縄の戦没者も明らかに。「沖縄の人たちも皇軍兵士で、加害の側面が明るみに出た」。一方、バックナー米司令官や牛島司令官の名前も。「官位は取り払い、五十音、アルファベット順に名前が並んでいる。司令官も一兵卒もない。要するに『戦場の跡』を記録している。ある人にとっては見つからない遺骨の代わりになり、ある人にとっては慰霊や追悼になる。訪れる人の立場によって違う」
 「戦場の跡だから敵も味方も戦争指導者も被害者もない」。米兵や英兵の名前を刻むことに批判はなかったが、日本の戦争指導者の刻銘には「『内なる加害』である皇軍兵士への怒りが相当あった」と石原さんは話す。「刻銘だけでなく(隣接する)平和祈念資料館を見て、どうしてこういう惨状が生まれたのか、戦争の原因と結果が分かるようにしてある」

◆デスクメモ

 コロナ禍が始まった3年前、慰霊の日の追悼式会場を平和の礎付近から国立沖縄戦没者墓苑に移す案が出た。各都道府県の軍人を顕彰する慰霊碑が立ち並ぶ丘で、「殉国史観と結びつく」と批判され、元に戻った。今年もまた、軍民、国籍の区別ない追悼の場に多くの人々が訪れる。(本)