◆再建記念に創業者が揮毫を依頼
正面玄関の壁に年輪が微細に刻まれた柾目(まさめ)板がある。大きさは縦45センチ、横148.5センチ、厚さ3.5センチ。
「松本楼」。ためらいのない力強く流麗な3文字が右から横書きされ、続いて「大正十三年四月為 小阪(こさか)詞兄(しけい)嘱 青渕(せいえん)書」とあった。詞兄は相手を敬って記し、嘱は依頼されること。青淵は渋沢の雅号だ。
4代目社長の小坂文乃(あやの)さん(56)は「曽祖父で初代の小坂梅吉が渋沢栄一先生に揮毫(きごう)していただいたと聞いています」と話す。
日比谷公園は1903年6月、練兵場跡に開園したが、設計した林学者の本多静六が園内に洋風飲食店を提案し、落札した梅吉が松本楼(のちに日比谷松本楼と改名)を同時開業した。バルコニー付きで「カレーを食べてコーヒーを飲むのがハイカラ」といわれた。
しかし、23年9月の関東大震災で焼失。翌24(大正13)年に木造3階建て本館などを再建し、記念として、当時50歳の梅吉が渋沢に揮毫を依頼したとされる。
◆戦火、放火からも免れた木額
東京大空襲の戦火を免れたものの、71年11月、沖縄返還協定の批准に反対する過激派学生らによる放火で全焼し、現在の建物は3代目。ただ、放火された際、渋沢の木額は別の場所にあり、次代に受け継がれた。文乃さんは入社から30年以上、木額を見てきたが、昨年7月に渋沢関連のセミナーで講師を務めたときに由縁を知ったという。
東京都北区の飛鳥山公園にある渋沢史料館顧問の井上潤さん(64)は「梅吉は養育院常設委員長として渋沢と関係があった記録がある」と説明する。
◆養育院の院長を務めた渋沢、補佐した梅吉
養育院は身寄りのない子や老人を養う救貧施設。渋沢は34歳で運営に関わり、91歳で亡くなるまで50年にわたって院長を務めた。板橋区にある都健康長寿医療センターの前身に当たる。
伝記資料によると、梅吉は委員長の時代、後藤新平・東京市長に養育院の重要性を説いた。また、手狭となった本院を大塚から板橋に移転する新築工事の完成前に関東大震災が発生。急きょ移転を繰り上げ、918人の収容者を板橋に無事避難させた。
さらに、渋沢の院長としての功績を顕彰する銅像の建設を進め、渋沢の死去に際し厚い追悼文を寄せた。
渋沢は10代のころに父と伯父から書を学び、生涯請われれば好んで筆を執った。「松本楼」は84歳の揮毫で、小坂ではなく「小阪」とあるが、同じ音に別の字をあてることもあったという。
井上さんは「渋沢は経済発展の陰で増える困窮者を救うことなしに真のより良い社会には近づけないと、福祉に力を尽くした」。その渋沢を補佐した梅吉の姿に、文乃さんは「日比谷松本楼の120年の歴史に深みが出ました」と語った。
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渋沢史料館は、新一万円札発行記念企画展・渋沢栄一肖像展Ⅱ[造形作品]を11月24日まで開催中。月曜休館(祝日は開館し、その翌平日休館)。午前10時〜午後5時。300円(小中高100円)。7月3日(翌4日は午後1時開館)と11月10日は無料。問い合わせは同館=電03(3910)0005=へ。
文・野呂法夫/写真・須藤英治
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