水俣病発見68年(2024年5月3日『しんぶん赤旗』-「主張」)

国は早期救済に足を踏み出せ

 1956年、熊本県水俣市チッソ水俣工場付属病院の医師が、市内で原因不明の脳症患者が出ていることを保健所に報告しました。行政が水俣病の存在を「公式発見」したとされるこの日から1日で68年がたちました。半世紀をゆうに超えながら、いまだに救済されていない患者が裁判での闘いを強いられています。

 水俣病は、チッソ水俣工場が不知火(しらぬい)海に垂れ流した有機水銀が魚介類に蓄積され、これを食べた住民に脳の萎縮などをもたらし、手足のしびれ、まっすぐ歩けない、けいれん、視野狭窄(きょうさく)、言語障害聴覚障害などを引き起こした公害病です。多くの死者を出しました。

 新潟県阿賀野川流域では、昭和電工鹿瀬(かのせ)工場の廃水により65年に患者・死者が報告されました。

■法による線引き

 当初、原因不明とされましたが、68年9月に政府は「チッソ水俣工場の有機水銀が原因」と認め、69年になってやっとチッソの廃水を規制しました。

 各地で患者が数次にわたって裁判を闘うなかで2004年、最高裁は、国や県がチッソに対し必要な規制をせず被害を拡大した責任を認め賠償を命じました。国・県は遅くとも1959年11月末までには原因はチッソの流す有機水銀だと認識できたのに規制措置を取らなかったと認めたのです。

 しかしその後も、住んでいた場所や出生年などにより法律で線引きされ、患者と認定されない人が多く残り続けました。国・県は被害の全容を明らかにするための不知火海沿岸や阿賀野川流域の健康・環境調査をしませんでした。

 民間の医師や水俣病の被害者団体が行った2009年の大規模検診では、未認定者の93%が水俣病の症状だと診断されました。法の線引きで除外された人のほか、差別や偏見を恐れたり制度を知らず認定を申請していない人もいました。

■闘い続ける患者

 未認定患者は全ての被害者の救済を求めて闘い続けています。大阪、熊本、新潟、東京の四つの地裁で裁判が行われています。判決が出た前者3地裁では救済されずにいる被害者の存在が明確にされました。

 昨年9月の大阪地裁判決は、09年の水俣病被害者救済法(特措法)の線引きにとらわれず原告全員を水俣病と認め、国の責任も認める原告完全勝利でした。

 3月の熊本地裁判決は認定基準を狭くとらえて原告のごく一部しか水俣病と認めず、認めた人についても発症から提訴までの期間が法律の定める期間を過ぎているとして賠償を認めませんでした。ただし、特措法の対象外でも水俣病と認定された人がいます。

 4月18日の新潟地裁判決は原告の6割近くを患者と認め加害企業に賠償を命じましたが、国の責任は「被害を予見できなかった」として認めませんでした。

 患者は高齢化し「生きているうちに救済を」「全ての被害者を患者と認めよ」と求めています。公式発見から68年もたちながら、いまだに救済されない人を多数残すのは恥ずべきことと言わねばなりません。国は、現行法の枠組みでは救済されない患者がいることを認めて、全ての被害者を救済するための解決のテーブルにつくべきです。