水俣病判決 被害救済の扉を閉ざすな(2024年3月29日『信濃毎日新聞』-「社説」)

 水俣病の被害を限定して捉え、外れる人たちを切り捨ててきた国の姿勢を追認する判決である。司法が果たすべき役割を自らなげうつに等しい。

 特別措置法による救済を受けられなかった144人が、国と熊本県、原因企業のチッソに損害賠償を求めた裁判で、熊本地裁が全員の請求を棄却した。25人を水俣病と認めたものの、発症から20年以上が過ぎ、請求権は既に消滅していると判断した。

 残る119人は水俣病と認めなかった。長く水俣病の診療にあたってきた地元の医師による「共通診断書」の所見だけでは信用性が乏しいとし、公的な検診の記録がない原告は因果関係の立証が不十分だと述べている。

 同じ趣旨の集団訴訟で大阪地裁は昨年、原告128人全員を水俣病と認める判決を出した。地元医師の診断書の信用性を認めて救済の範囲を広げ、賠償の請求権が消滅する期間についても、起算点を医師の診断時として、まだ経過していないと判断している。

 それとは全く相反する判決だ。被害者が水俣病の症状と早期に気づくのは難しかったことも顧みられていない。戦後最大の公害を引き起こした重大な責任を免じる判断は受け入れられない。

 1956年に公式確認された水俣病は、工場の排水が原因と早くから指摘されながら、産業経済の利益を優先して対策を怠る間に被害が拡大した。被害者は10万人を超すとも言われる。全容はいまだつかめていない。

 患者認定の門は狭く、認定された人は2300人足らずだ。政府が定めた基準は、感覚障害に加えて視野狭窄(きょうさく)などの症状の組み合わせを必要とする。最高裁が感覚障害だけで認定する判断を示してもなお、改められていない。

 認定されない人への救済策も、被害の実態にそぐわない線引きで対象者を限ってきた。2009年に施行された特措法は、感覚障害がある人に一時金を支給したが、区域や出生の時期を限定した上、申請を2年余で打ち切った。

 また、住民の健康調査を速やかに行うとしながら、15年を経て、いつ始めるのかすらはっきりしない。法がうたう「あたう限りの救済」にはほど遠いのが現実だ。

 患者と認めて補償するのを極力避け、わずかな一時金で救済の体裁を取り繕おうとする国の姿勢が事態をより複雑にし、解決を遠のかせてきた。その責任を厳しく問う必要がある。司法は救済の扉を閉ざしてはならない。