陸自「大東亜」発言 根の深い深刻な問題だ(2024年4月19日『信濃毎日新聞』-「社説」)

 陸上自衛隊第32普通科連隊(さいたま市)が公式X(旧ツイッター)で「大東亜戦争」との表現を使い、批判を受けて削除した。

 硫黄島での日米合同の戦没者慰霊行事を投稿した際のことだ。防衛省陸上幕僚監部は「交流サイト(SNS)の発信は適切な表現で行うようあらためて指導していく」とコメントした。

 言葉の問題に矮小(わいしょう)化しては、事の本質を見誤る。その奥にある歴史認識のゆがみにこそ目を向けなくてはならない。

 「大東亜戦争」とは1941年12月の日米開戦後に当時の政府が決めた呼称だ。「アジアを解放し大東亜共栄圏を建設する聖戦」との位置付けを広めようとした。

 敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は使用を禁じ、太平洋戦争という呼称が定着した。

 独立を回復した後も、政府は「大東亜戦争」を使っていない。この呼称は歴史的に、アジア諸国を支配しようとした日本のおごりと侵略の正当化を含んでいる。曲がりなりにも戦後政治は「戦争の反省」の上に立ってきた。

 連隊がそうした歴史の知識も、思慮も欠いていたなら深刻だ。ただ、この連隊だけの問題なのか。

 防衛大学校の等松春夫教授が昨年公表した論考で指摘している。外部から招かれた「商業右翼」が、教室で政治的に偏向した「講演」を学生たちに行っている―。その中には「大東亜戦争肯定論」の講演もあり、等松氏も現場を目撃している。「大東亜戦争」は隊員教育の中で日常的に、無批判に使われている言葉ではないのか。

 懸念される動きは、ほかにも相次いでいる。今年1月、陸上自衛隊の幹部らが靖国神社に集団参拝した。今月には元海将宮司に就任している。

 靖国神社には戦死者が「英霊」としてまつられている。戦時中、天皇を現人神(あらひとがみ)とする国家神道の中心的な神社として、戦争に国民を動員する役割を担ってきた。

 集団参拝について、防衛省は「私的参拝」とするが、苦しい言い訳だ。憲法の定める政教分離の原則に抵触しかねない。宗教上の礼拝所への部隊参拝を禁じた防衛事務次官通達にも反する。

 旧日本軍を受け継ぐような振る舞いの目立つ組織が、日本が軍拡に進む中で国防を担う。危うい状況を自覚する必要がある。

 軍事を民主政治が制御する文民統制は、行政府と国会の役割だ。自衛隊員の教育のあり方、文民統制から逸脱する行為に対し厳しく監視しなくてはならない。