花の季節は短くて(2024年4月11日『産経新聞』-「産経抄」)

 
桜の花びらで覆われた東京・千代田区千鳥ヶ淵緑道=9日撮影

 東京・大手町には、高層ビルの谷間にちょっとした森がある。その中に一本、やせた桜がたたずんでいる。枝ぶりは頼りなく、それゆえ花の季節に枝頭を彩る薄桃色の群れが、かえって目を引く。孤木に宿るささやかな春である。

▼きのう、そばを通りかかった。ここ数日続いた雨風のせいだろう。残りわずかな花のひとひらが風になぶられ、はかなげな曲線を描いて落ちてきた。杉山平一さんの詩『桜』の一節を思い出す。<みんなが心に握ってゐる桃色の三等切符を/神様はしづかにお切りになる…>

▼「花七日」の言葉もあるように、花の命はほんの一瞬である。さりとて、哀切の余韻を残していくばかりではない。花を散らせたその先から、桜は次の春にほどく花弁の支度に取り掛かる。人の目に触れぬところで自然は静かに循環を続けている。

▼予報ではあと3、4日もすれば季節が駆け足になり、東京など地域によっては夏日が続きそうだという。都心の春はすでに旅装を整え、北へ向かおうとしているらしい。職場の先輩によると例年は5月に見かけるハナミズキが「もう咲いている」 

▼視線を上げれば、ほんの少し前まで枝の網目を透かして仰がれた空が、いまは若い緑に遮られつつある。空から花へ、花から若葉へと、季節の主役は慌ただしく移ってゆく。木立を抜ける風が、汗にぬれた頰や首筋に心地よいひとはけを残して吹き過ぎるのも、もうじきだろう。

▼足を延ばした千鳥ケ淵では、残る桜が風にさらわれ、堀の水面に花の浮橋を作るのが見えた。そこを棲(す)み家とするカモが時折、堀端に吹き寄せられた花の芥(あくた)を二つに割って悠然と泳いでゆく。小さな影の通り過ぎた後、そこだけが、せわしなく円を描いていた。