支援の手差し伸べたい、台湾東部沖地震(2024年4月7日『産経新聞』-「産経抄」)

 
地震の影響で多数の人が取り残されていた太魯閣渓谷から陸軍のトラックで救出される人たち=台湾東部・花蓮(桐原正道撮影)

 日本統治下の台湾に、初めて官営の移民村ができたのは1910(明治43)年である。徳島・吉野川流域から渡った人が多く、「吉野村」と呼ばれた。当初は原住民やマラリアなどの風土病に阻まれ、開拓は困難を極めたという。

▼<始めは道も家もなく/雑木柱のカヤ建てて/ランプかこみて夕餉(ゆうげ)とる(中略)笑いも消えし吉野村>。入植者が詠んだ詩を『わたしの台湾・東海岸』(一青妙著)で知った。吉野村をはじめ多くの移民が集った東部の花蓮県には、豊田や瑞穂など日本ゆかりの地名が今も残る。

▼台湾東部沖で起きた地震では、その花蓮県が大きな被害を受けている。観光名所の太魯閣(タロコ)渓谷周辺では、大勢が孤立した。連絡のつかない人もいる中で、災害現場の「時間の壁」とされる発生から72時間が過ぎた。一刻も早い救助を願うほかない。

花蓮県は約9割が山地という。山肌が崩れ、巨大な岩石が道をふさぐなど復旧作業が難航する様子は、元日の能登半島地震と重なる。日本政府はすでに、無償の資金協力を表明している。地震の巣の上に暮らす者同士、わが国から可能な限り支援の手を差し伸べたいものである。

▼多くの犠牲者が出た25年前の台湾中部大地震では、中国の在外公館が各国で義援金を募り混乱を招いた。今回も、中国の国連代表部が、台湾を気遣う国際社会に「感謝」を表している。中台関係を巡る宣伝戦のためなら、震災さえも利用するのか。

▼かくも抜け目のない振る舞いに対し、台湾の外交部が「恥知らず」と反発したのも無理はない。この地震により、改めて気づかされたことがある。わが国にとって、信の置ける「隣人」とは誰なのか。連帯の矢印が向く先は、約2300万人の住む島である。