極寒のモンゴル抑留、「仲間の命の保証」を訴えたリーダーの過酷な運命… ジャーナリストが機密情報を入手(2024年4月2日『東京新聞』)

 
 
 飢餓、極寒、重労働によって約5万5000人の旧日本軍の将兵らが死亡した、戦後のソ連によるシベリア抑留。このうち約1万4000人が抑留され、約1700人が異国の土となったモンゴルでの抑留実態はあまり知られていない。ジャーナリストの井手裕彦さん(68)は、モンゴルの公文書館で機密記録を入手し、日本政府に届いていなかった死亡者の情報を今年2月に遺族に伝えた。(瀬口晴義)

◆水牢に4カ月、最後は自分の耳にくぎを刺し…

 読売新聞記者として抑留問題を取材してきた井手さんは、仲間の命の保証を求めて危険を顧みず「嘆願書」を書いた抑留施設のリーダーがモンゴルにいたことを知り、2020年、ウランバートルに向かった。
 
「1人でも多くの遺族に死亡記録を届けたい」と話すジャーナリストの井手裕彦さん

「1人でも多くの遺族に死亡記録を届けたい」と話すジャーナリストの井手裕彦さん

 

 ソ連の衛星国だった外蒙古民共和国政府(当時)に嘆願書を書いたのは、旧満州熱河省の日本人居留民団団長だった久保昇さん、ウランバートル収容所の部隊指揮官・小林多美男さん、抑留者病院の軍医の本木孝夫さんの3人。久保さんは、民間人の抑留は国際法違反だとして早期帰国を要求、小林さんと本木さんは凍傷に備える防寒具の整備などを求めた。
 わずかな待遇改善と引き換えに待っていたのは、苛烈な仕打ち。久保さんと小林さんは投獄。日本人抑留者が一斉に帰国した1947年秋以降も本木さん、小林さんは佐官だったという理由でソ連残留を強いられた。スパイ協力を拒んだ小林さんは水牢(みずろう)に4カ月以上入れられ、最後は自分の耳にくぎを刺して精神障害を装い、帰国できたという。

◆349人の死亡情報を確認

 3人の記録を探す過程で、旧社会主義国の秘密主義と格闘しながら見つけ出したのが、抑留中の日本人の死亡記録を含む1100ページ超の資料。「抑留者の人生や記録を見捨てることはできませんでした」。20万円の自費を投じて、大量のデータファイルを入手した。
 帰国後、2カ月かけて精査すると、日本政府が持っていない38人分を含む349人の死亡情報が確認できた。薬剤がなく治療ができずに衰弱死した27歳の元陸軍上等兵の状況など、最期をみとった軍医らが遺族に伝えようとした思いが伝わった。

◆出版をきっかけに遺族と連絡

 井手さんは取材過程も交えた著書「命の嘆願書 モンゴル・シベリア抑留日本人の知られざる物語を追って」(集広社)を昨年8月に刊行。巻末には死亡記録にあった氏名と出身の都道府県を明記した。A5判1296ページの大著は同年のシベリア抑留記録・文化賞を受賞した。
 
井手裕彦さんの著書「命の嘆願書」

井手裕彦さんの著書「命の嘆願書」

 今年2月、読者からの情報提供をきっかけに、鹿児島県内の遺族と連絡が取れた。死因が書かれた死亡記録や墓地の区画図のコピーなどの書類を郵送した。旧満州国の警察官だった。

◆「抑留は過去の出来事ではない」

 「敗戦直前に召集され1946年1月に39歳で亡くなりました。ご遺族は、父親が手厚く葬られていることが分かって安堵(あんど)されていました」。新たに遺族2人と連絡が取れたという。「まだまだ道は長く曲がりくねっていますが、一人でも多くの遺族に死亡記録をお届けしたい」
 ウクライナ戦争では、子どもを含む多くのウクライナ市民がロシア軍に強制連行された。井手さんは言う。「抑留問題は過去の出来事ではないのです」
 死亡情報の問い合わせは、井手さんの携帯電話=090(2705)9901=か、メール=idei5487@outlook.jp=まで。
 

新聞記者生活の最後の年 著者はモンゴルへ向かった
「命」の呼称がある文書と言えば、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツ の迫害から逃れようした多くのユダヤ人にリトアニアの日本領事館領事代理だった 杉原千畝が発給した「命のビザ」が知られる。一方、私が見つけた「命の嘆願書」 はモンゴルやロシアの公文書館の奥深くに「外交文書」や抑留の「公的記録」とし て厳重に保管され、誰の目にも触れず、歴史の中に埋もれようとしていた。 こんな抑留者やその妻、母、子がいた真実を置き去りにしたまま、出会った記録を 墓場まで持っていっていいものだろうか。新聞社を後にして筆を執ってから脱稿ま で三年を要したが、私は伝えずにはおれなかったのである。
目次



第1章 モンゴル出発六日前に「全面拒否」された
第2章 なぜ勇気ある抵抗は知られていなかったのか
第3章 モンゴルは国の調査から抜け落ちていた
第4章 「嘆願書」の単語が引っかかった
第5章 モンゴルへ足を踏み入れるまでに
第6章 居留民団長は努力の人だった
第7章 嘆願書を書いていた軍医

II

第8章 公文書館の厚い扉が開いた
第9章 嘆願書を無視することはできなかった
第10章 死亡記録から真実を追った
第11章 抑留体験者が見ていた「死」
第12章 抑留者を巡る意外な歴史があった
第13章 閲覧可の公文書館に賭けた 第14章
見たことがなかった資料に胸が震えた
第15章 日本政府が入手していない死亡記録があった
第16章 家族を喪ってしまった帰還者
第17章抑留中死亡者の総数について迫った
第18章民間人抑留者が次々に死んでいった病院


III
第19章 嘆願書執筆者の抑留の足取りは
第20章 満洲「根こそぎ動員」の犠牲に
第21章 父の抑留がきっかけで孤児に
第22章 日本人抑留の現場を辿った
第23章 地獄の農場収容所の跡地へ
第24章 「暁に祈る」事件の真相に迫る
第25章 モンゴルには二人の日本人女性が抑留

IV

第26章 個人記録から浮かび上がったものは
第27章 ソ連でも日本人の抵抗運動はあった
第28章 「第三の執筆者」の抑留こそ凄絶だった
第29章 帰還するには精神病者を装うしかなかった
第30章 「収容所から来た遺書」の真実
第31章 無罪と処遇改善の嘆願書を出していた男
第32章 嘆願書の執筆者たちの帰国後は

V

第33章 『シベリアのサムライたち』を読み解く
第34章 他人の「身代わり」になろうとした抑留者
第35章 「スターリンへの感謝状」から見えるものは
第36章 通訳として抑留を生きた人たち
第37章 なぜ簡単に署名をしたのか
第38章 将官や高級将校は何をしていたのか
第39章 ソ連に魂を売ってスパイとなった抑留者がいた
第40章 関東軍総司令部の責任を考える

エピローグ 私の情報提供で国が記録を入手した

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関連年表
参考文献一覧