この4月から、「医師の働き方改革」が本格始動する。実質青天井だった勤務医の残業時間に規制がかけられるなど、過酷な労働環境の是正に期待が寄せられる一方で、実はこの制度、まだまだ“抜け穴”だらけの実態があるという。
***
関東の病院に勤務する若手医師の話。
「朝から晩までの勤務を終えた後に、深夜の当直で救急対応。そして朝が来たら帰る間もなくまた通常勤務が始まって……ということが当たり前のようにあるので、正直、精神的にもしんどいところがあります」
2022年には、神戸市の甲南医療センターで当時26歳の医師が、過労によって自殺するという悲しい事件が起こったばかり。それにも関わらず、二の舞になりかねない労働環境は、全国にはびこったままなのだ。
こうした折、19年に施行された「働き方改革関連法」に基づき、この4月から、医師の労働時間にも規制が設けられることになった。これまでは“働かせ放題”だった勤務医の残業は、原則として年間960時間、研修医や地域医療に関わる医師らの場合は例外的に1860時間が上限とされ、違反した病院には罰則が科される。業務の特殊性を考慮され、法の施行後5年間は適用が猶予されていたのだが、いよいよ変革の時がやってきたというわけだ。しかし、 「これで現場の働き方が変わるかというと、そう単純な話ではないと思います」
そう話すのは、埼玉医科大学総合医療センター准教授の松田祐典氏。麻酔科医として自らハードワークを行いながらも、院内の働き方改革を推進し、対外発信も積極的に行っている。
何でも“自己研鑽”に
「もちろん、残業時間を規制するという方向性自体は間違ってはいないと思います。ですが、残業できる時間に上限ができたなら、“見かけ上の労働時間を減らす”という考え方をする病院経営者が多いのも現実なんです。よく用いられるのが、“自己研鑽”という言葉。業務時間外に文献を読み込んだり、処置を見学したりということだけでなく、病院側の指示で学会発表の準備を行った場合や、ひどいケースでは、実際の診療に当たった場合でも、『自己研鑽としてやった』ということにしてしまう。こうして、実際に勤務医の負担が生じていたとしても、労働時間にはカウントされないということが往々にして行われてきたのです」
神戸で過労自殺した医師も、まさにこの“自己研鑽”という名のもとに過剰な長時間労働が黙認されていた。これが社会に大きな影響を与えた事件であることに違いはないが、「残念ながら“氷山の一角”にすぎない」として、松田氏は続ける。 「医療行為の報酬は、あらかじめ一律に定められた『保険点数』によって決まってきます。収入のコントロールが効きづらいからこそ、病院を経営する側には、経営を圧迫する人件費を下げようという行動原理が働く。そのため、なかなか賃金を上げられないどころか、残業代もできる限り抑えたいという意識が強いんです。こうした事情も相まって、“自己研鑽残業”が横行してしまう実態があります」
急増する「宿日直許可」
さらに“抜け穴”となりうるのが、「宿日直許可」だ。「宿日直」とは一般的に、患者の緊急対応に備えて医師が夜通しで待機しておくことを指す。労働基準監督署からこの「許可」を得ておくと、実際に医療行為が発生した時間以外は、労働時間としてカウントされないのだ。
「例えば、月曜の朝から勤務を開始し、宿日直を経て火曜の昼まで働き……という24時間以上の勤務が、どこの病院でもふつうに行われています。もちろん、宿日直の際中でも、何かしらの対応に当たった時間は『残業』として扱われるのですが、そのような対応がない時間だって、いつ何が起こるかわからない緊張感の中で拘束されているわけですし、もうヘロヘロになります。減っているとはいえ、ひどいケースだと、いくら緊急対応があったとしても関係なく『宿日直=休憩時間』かのようにみなされている病院もあるくらいです。こうして“隠れ残業”が増えてしまう構造があるのです」
実はこの4月の残業上限導入を前に、残業時間を抑制したい病院による「宿日直許可」の申請が相次ぎ、21年には200件ほどだった許可数は、翌22年には約1300件にまで急増している。松田氏の職場ではこの許可が下りていないため、「深夜勤務のすべてが労働時間としてカウントされるから勤務医側としてはありがたい」と言うが、経営者側にとっては、“見かけ上の残業時間抑制”が目下の死活問題である実態が垣間見えるのである。
「考えてみれば、年間960時間という上限自体、月にならすと80時間ですから、一般的には“過労死ライン”とされている水準です。その上、医師が不足しがちな地域医療や、スキルを身に着ける必要のある研修医の場合は、例外的に年間1860時間まで残業が許されています。ある程度は仕方がない面もあるとはいえ、異常であることに変わりありませんよね。その上で“自己研鑽”や“宿日直”によって見えない残業まで加わってくるとあらば、病院によっては、全く労働環境が改善されない可能性だってあるということです」
「本気でやれば改革できる」
そもそも、残業上限が設けられたからといって、患者が減るわけでもなければ、医師の数が増えるわけでもあるまい。そんな中で、医師の労働負担を減らすことなど可能なのか。 「例えば当院の麻酔科では、手術対応から術後の診察までを一人が対応し続けた体制を見直し、術後の診察だけを一手に引き受けるシフトを組むなどして、全体にかかっていた労働時間を大きく短縮することができました。
まだ道半ばですが、事務作業の電子化や、看護師さんらでも対応可能な業務はお任せする『タスクシフト』なども含め、できることから業務効率の改善を図っています。その結果、横行していた当直明けの業務は一切なくすことができ、その働きやすさに惹かれて人員も集まるという好循環が生まれてきたところです」
埼玉医科大学総合医療センターといえば、高度救急救命センターに認定されていることもあって、昼夜問わず緊急手術がひっきりなしの病院だ。
「緊急手術が絶えない病院で、かつそのたびに対応が必要になる麻酔科でも、これだけの働き方改革が実現できたのですから、本気でやろうと思えば、どの病院でもできることではないかと思うのです」
“薄利多売”と“厚利小売”
一方、こんな指摘も。 「本来は、ただ労働時間を減らそうという話ではなく、『適正な労働時間に抑えたら、どれくらい医療サービスが縮小されてしまうのか』を先に考えた上で、その縮小幅をどうやって抑えるのかという議論をしていくべきだと思うんです。『これまでの半分くらいの医療しか提供できなくなってしまう』ということであれば、『ではその50%をどうやって20%に抑えようか』という話です。状態が安定している患者さんの定期フォローは1か月ごとから2、3か月ごとにするとか、業務によっては外部に委託するとか、現実的な方法が見えてくるはずです」
すると病院の収支にも関わってきそうだが、 「差額ベッド代(個室に入院した際の追加費用等)を値上げしたり、医療材料費のコスト削減を図ったりする必要も出てくるでしょう。あるいは、大きな病院に負担が集中してしまっている意味でも、診療所やクリニックは多くの患者を受け入れるほど収益が増える“薄利多売”の設計にした上で、大病院は提供できる医療の高度さや専門性を、“厚利小売”の形で活かすような構造に棲み分けていく。こうした“役割分担”ができれば、適切な医療を適切な料金で提供することに繋がり、また勤務医に偏った労働時間も、業界としてバランスがとれていくことにも繋がるのではないでしょうか」
そしてこうも言う。 「神戸の過労自殺のような事件は、絶対に繰り返してはならない。その思いは、どの医療従事者も持っているはずです。適切な休養を得ることができれば、生産性だって向上し、現場に良いアイデアだってもたらされるでしょう。医師の自己犠牲で成り立つ現状を変えるためにも、制度の抜け穴を探すのではなく、社会全体として医師の働き方改革に本気で向き合っていく必要があると思っています」
デイリー新潮編集部
【関連記事】