道程を見守る目(2024年3月31日『宮崎日日新聞』-「くろしろ」)

 「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」。詩人高村光太郎の、教科書にも載る有名な詩「道程(どうてい)」の冒頭だ。わずか9行。何もない荒野に、だれかが歩んでこそ道は切り開かれていくことを教えてくれる。

 110年前の1914年に発表されたこの詩、当初は102行に及ぶ大作だった。そちらの方は大自然の中、手探りで進むべき道を模索するしかない若者の決意がより情熱的にうたわれている。「人類の道程は遠い そして其(そ)の大道はない」と覚悟を問うようだ。

 今日で一般の会社や学校の年度は終わる。明日から新しいステージに踏み出す人は同様の覚悟を抱えていることだろう。先人の残した道をなぞりながら試行錯誤を繰り返し、自分だけの道ができる。道に車輪が通ると轍(わだち)が出来て、それがまた後進の指針になる。

 先日、宮崎市で「宮崎芸術文化人団 轍」という文化団体の設立会があった。県内の芸術家や文学者のほか学者や実業家らが名を連ね、地域文化の振興や県文化賞への推薦を目的に掲げる。轍という漢字の中には「育」の字がある。後進を育てる意図が団体の名称の由来に込められているのだろう。

 厳しさに満ちた「道程」だが「父」に「僕から目を離さないで守ることをせよ」と命令口調で説く。「父」は神的な存在、自然、先達者を含め、広く共同体を指すのではないか。荒野に放り出された新人も団体も、地域の温かい理解や支援があって道を歩める。

 

どこかに通じてる大道を僕は歩いてゐるのぢやない
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
道は僕のふみしだいて來た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立つてゐる
何といふ曲りくねり
迷ひまよつた道だらう
自墮落に消え滅びかけたあの道
絶望に閉ぢ込められたあの道
幼い苦惱にもみつぶされたあの道