第32軍創設80年 「新しい戦前」沖縄で抗う(2024年3月22日『琉球新報』-「社説」)

 政府が国民の自由や権限を制限し、自治体行政の意思決定に介入する法整備が着々と進む。戦後日本の防衛政策が覆され、自衛隊増強が進む。沖縄戦の経験を踏まえ、「新しい戦前」の到来とも呼べる状況に沖縄から抗(あらが)いたい。

 沖縄戦を戦った第32軍の創設から80年の日を迎えた。第32軍の作戦指揮によって県民は戦場に駆り出された。「集団自決」(強制集団死)やスパイ視虐殺という住民犠牲の要因を生んだ軍隊でもあった。私たちは沖縄戦の実相と第32軍の罪科を厳しく見つめ、非戦の誓いを立てたい。
 第32軍は、沖縄戦の最大の教訓である「住民を守らない」軍隊そのものであった。牛島満司令官が発した1944年8月31日付の訓示が第32軍の性格を言い表している。
 「現地物資を活用し、一木一草といえども戦力化すべし」「地方官民をして喜んで軍の作戦に寄与し進んで郷土を防衛する如(ごと)く指導すべし」という訓示は沖縄の人的資源や社会資本を全て戦力化するという軍の論理の表明であり、行政・教育機関、報道機関、一般県民にも厳守を迫った。
 同じ訓示にある「防諜(ぼうちょう)に厳に注意すべし」は県民に対する猜疑(さいぎ)心と蔑視の表れと言えよう。方言使用を禁じた32軍の規定と同様、県民スパイ視虐殺につながった。
 第32軍傘下の部隊が中国からの転戦であったことは県民に災いした。住民虐殺や略奪に関わった軍隊が沖縄に配備されたのだ。地域社会で兵士と一般住民が同居する特殊な環境の中で、中国民衆に対する蛮行の経験談と共に、敵軍の捕虜となることを禁じた「戦陣訓」が住民に植え付けられた。それが「集団自決」の悲劇を招いた。
 本土決戦への時間稼ぎという「戦略持久戦」を基本方針とした第32軍司令部が45年5月末、拠点とした首里を放棄し、住民が避難する島尻に撤退したことで、軍民混在の惨状を生んだ。住民保護を度外視した軍の論理は地上戦の最後まで貫かれた。
 訓示に表れる「根こそぎ動員」「軍官民共生共死の一体化」という軍の論理と県民蔑視は過去のものではなく、復活の兆しがあることを見逃すわけにはいかない。
 敵基地攻撃能力(反撃能力)保持を明記した安保関連3文書の閣議決定とそれに基づく自衛隊増強、空港・港湾の軍事拠点化を図る「特定利用空港・港湾」指定、国の指示権を拡大する地方自治法改正などの動きだ。
 80年前と異なるのは、国の方針に抵抗する権利と力を私たちは持っていることだ。国の防衛政策に異論を唱え、陸自訓練場整備の断念を迫り、1200人が結集したうるま市民集会はその証左である。
 私たちは「新しい戦前」を拒否する。そのためにも、沖縄や日本の現状を厳しく見つめ、進むべき道を定めるための指標である沖縄戦体験の継承を重ねていく。