模擬原爆「パンプキン」の着弾地点を79年ぶり特定なるか 不明だった神戸市の1発 神戸大学院生が調査(2024年3月16日『東京新聞』)

 
 太平洋戦争末期、全国に49発投下された模擬原爆「パンプキン」。詳しい着弾地点が分からない3発のうち、神戸市の1発の調査を現地の大学院生が進めている。全国の研究者の協力で昨年末に模擬原爆の可能性がある金属片を回収し、特定を目指して分析中だ。戦後79年を経ても残る、日本本土空襲の謎。神戸に最初の大空襲があった3月17日を前に考えた。(宮畑譲、山田雄之)

◆長崎原爆と同じ形状、中身は高性能爆薬

調査で見つかった金属片=西岡孔貴さん提供

調査で見つかった金属片=西岡孔貴さん提供

 「もし何も出なかったら、調査が一からやり直しになる。何かしら爆弾が落とされたと言える証しが出てひと安心しました」。神戸市の模擬原爆を調査した、神戸大大学院の西岡孔貴さん(26)=大阪市=が、爆弾の一部とみられる金属片を見つけた瞬間を振り返る。
 広島に原爆が投下される13日前の1945年7月24日、神戸市内に4発の模擬原爆が投下された。原爆投下訓練用に開発され、カボチャのようなずんぐりとした形から「パンプキン」と呼ばれた。長さ3.5メートル、直径1.5メートル、重さ4.5トンで、プルトニウム型の長崎原爆「ファットマン」と同サイズ。高性能爆薬を詰められていた。
 米軍が神戸市内に投下したと記録した4発のうち、1発は着弾地点が確認されておらず、不明となっている。投下したのは、広島に原爆を投下したB29爆撃機エノラ・ゲイ」と同じ機体とみられている。全国的には、同年7月20日〜8月14日にかけ、約30都市に計49発が投下され、計400人以上が亡くなったとされる。そのうち着弾地点が不明なのは福島県平市(現いわき市)、徳島県、そして神戸市の各1発だ。

◆地元警防団副団長の日記からヒントを得て

 西岡さんが模擬原爆を知ったのは、大学1年生の時。広島平和記念資料館で模擬原爆の着弾地点を記した地図を見て、今も分からない場所があることに興味を持った。
 
山中で模擬原爆の残骸を探す西岡さん=神戸市で(本人提供)

山中で模擬原爆の残骸を探す西岡さん=神戸市で(本人提供)

 「神戸製鋼所を目標にした」という米軍の記録は残っていたが、着弾地点には触れていなかった。資料を調べるうち、地元警防団副団長の日記に「(B29が)製鋼所付近北方山中に投弾」とあるのを見つけた。終戦直後の航空写真を見ると、六甲山系の中央に位置する摩耶山中に爆弾が投下された跡のようなクレーターがあった。目標の神戸製鋼所からは北に2キロほど。他の模擬原爆でも同じくらい離れて着弾した記録がある。
 登山道からそれた場所にあり、急な斜面を下りなくてはならない。登山未経験の西岡さんは、初めて登山靴を購入。地元登山会の協力を得て着弾地点を探った。現地を訪れた際、斜面を滑り落ちることもあった。

◆別地点の模擬原爆の金属片と成分比較する予定

 昨年12月の現地調査では、「空襲・戦災を記録する会」事務局長の工藤洋三さん(74)らと金属探知機を使った。地表付近や地中10センチ程度の深さから長さ約5〜40センチの金属片8個が見つかった。さびもあり形もまちまちだが、ねじ山の形跡があるものもあった。厚さ1センチ前後で、資料で9.5ミリとなっている模擬原爆とほぼ同じだった。
 ただ、金属片は模擬原爆と推定されるものの、確定したわけではない。この調査をきっかけに年明け、他に模擬原爆を調べる人たちと「パンプキン爆弾を調査する会」を立ち上げた。今後は、別の場所に落とされた模擬原爆の破片とともに金属片の成分を分析して比較、確認する予定だ。

◆まだまだ判明していない事実がある第2次世界大戦

 西岡さんは「戦後、長い年月がたっているにもかかわらず、新しい事実が発見される可能性があることが分かった。米側で確認できていないことを日本人の手で明らかにしていく作業に意義がある」と考える。
 
西岡孔貴さん=本人提供

西岡孔貴さん=本人提供

 自身がそうであったように「原爆投下につながる模擬原爆の着弾地点が分かっていくことで、原爆の被害も身近に捉えるきっかけになるのでは」と話す。模擬原爆だと確認できれば、広島、長崎に投下された原爆に関係する新事実の特定と言える。「第2次世界大戦については、まだまだ分からないことがある」
 そもそも模擬原爆の存在が初めて明らかになったのは1991年。「春日井の戦争を記録する会」の金子力代表(73)=愛知県春日井市=が地元に投下された大型爆弾を調査中、国立国会図書館の米軍記録にあった一覧表に着目した。広島と長崎の欄に「アトミック」とあり、他の49の欄の「1万ポンド(約4.5トン)」は模擬原爆を指すことが判明した。

◆詳しい資料を残していた米軍

 各地で犠牲者が出たのに、戦後50年近く知られていなかった事実。「原爆被害は模擬原爆からの一連の流れ。戦争をきちんと記録するには、全て明らかにする必要がある」と、全国の専門家に連絡を取り、調査を呼びかけた。
 
テニアン島の飛行場に置かれたパンプキン=米国立公文書館所蔵、工藤洋三・金子力著「原爆投下部隊」より提供

テニアン島の飛行場に置かれたパンプキン=米国立公文書館所蔵、工藤洋三・金子力著「原爆投下部隊」より提供

 その一人が前出の工藤さん。85年に地元・山口県の空襲の記録集を出し、米軍資料をすでに活用していた。「体験者の話だけでは記憶なので、どうしても曖昧な部分が出てくる。資料は投下時間や米軍の目的など詳細を明らかにしてくれた」と振り返る。
 「春日井の戦争を記録する会」は着弾したとされる地域に出向いて聞き取りを行い、地元紙の記録や体験者を探した。工藤さんは、模擬原爆投下時に米軍が撮った写真や、爆発後の円形のクレーターが写る航空写真から特定を進めた。

◆「戦争と接点がない世代の人たちが出てきてくれてありがたい」

 神戸とともに今なお着弾地点不明のいわき、徳島の現状はどうか。いわきで調査を続け、工藤、西岡さんとともに「パンプキン爆弾を調査する会」共同代表を務めるジャーナリスト藍原寛子さんは「米軍資料に投下したとの記録は残るが、記憶している証言者に出会えておらず特定は難航している」と話す。
 
模擬原爆の調査で見つかった破片と金属探知機(上)=2月、和歌山県有田市で(藍原寛子さん提供)

模擬原爆の調査で見つかった破片と金属探知機(上)=2月、和歌山県有田市で(藍原寛子さん提供)

 工藤さんも「徳島は全く手掛かりがない。3発はいずれも体験者や写真が見つかっていない。従来の手法では特定は難しい。新たな方法、科学の力を借りる必要がある」。そこで導入したのが金属探知機だった。
 B29の墜落調査で活用している航空戦史研究家の深尾裕之さん(53)に、昨年12月に神戸市で行った着弾地点特定への協力を依頼。今年2月、和歌山県有田市のパンプキン着弾点で破片を捜した調査にも加わってもらった。深尾さんは「長い時間がたち、地面に潜って見えなくなった破片を捜すのは(墜落機の調査と)同じ作業だ。効率を考えると、金属探知機は大変有効な手段」と話す。
 パンプキン調査に西岡さんらが加わったことについて、工藤さんは「僕たちの世代は戦争は経験していないが、親や祖父母がいないといった戦争の傷痕は知っている。戦争と接点がない世代の人たちが出てきてくれることはありがたい」と歓迎。金子さんも「六甲山系の険しい土地に入っていき、新しい調査手法を見いだしてくれた。戦争の本当の姿はまだ分かっていない。具体的な事実をつかむことにどんどん挑戦してほしい」と話している。

◆デスクメモ

 1945年3月10日の東京大空襲から、米軍は大都市の「焼夷(しょうい)電撃戦」を開始。12、19日の名古屋、13〜14日の大阪とともに、神戸も17日に無差別爆撃を受けた。5、6月にも大空襲があり「火垂(ほた)るの墓」や「少年H」の舞台に。模擬原爆の調査にも注目したい。(本)