人は恐怖や絶望を前にしても笑ってしまうものらしい。奇妙な笑…(2024年3月10日『東京新聞』-「筆洗」)

 
 人は恐怖や絶望を前にしても笑ってしまうものらしい。奇妙な笑いについて作家の内田百閒が『東京焼盡(しょうじん)』の中に書いている。東京大空襲の夜のことである

▼火の手の明るさで逃げていく人の顔がはっきり見えたそうだ。みんな平気そうな顔で「声も晴れやか」だったという。「著(着)のみ著のままだよと、可笑(おか)しさうに笑ひながら行く人もあつた」
東京大空襲から10日で79年となった。約300機の米軍のB29爆撃機が下町を中心に焼夷(しょうい)弾を投下し、2時間半ほどの空襲で10万人が亡くなった
▼空襲の時間の短さに比べ、犠牲者数が大きい。不釣り合いな数字に空襲が引き起こした火の手の強さと、巻き込まれた人々の恐怖の大きさをあらためて想像する
▼百閒は空襲下の笑いを「江戸ツ子と云ふわけでもあるまいけれど、土地の空気でこんな時にもさらりとした気持でゐられるのかと考へた」という。それもあろうが、極限状態の中で人々は笑うことで心の均衡を保つしかなかったのかもしれない。それとも絶望の果ての捨て鉢な笑いか。泣き、叫ぶに匹敵する笑いが存在する現実を知る
▼79年が経過した。空襲、戦争は永遠に無縁となったかと問われれば、自信はない。国を守るため、防衛力を強化する。共同開発の戦闘機も輸出する。最近の武張(ぶば)った動きの先に何が待つか。臆病者は想像し、やはり恐怖の笑いを浮かべる。