右を空けるか、左を空けるか――。エスカレーター利用時の「片側空け」は、旅行先で戸惑う慣習の一つだ。実は安全上の問題があり、鉄道会社はやめるよう呼びかけている。そこで2025年大阪・関西万博の会場最寄り駅には、片側空けをしないよう促すエスカレーターが登場する。どういった仕組みなのか。
発祥はロンドンの地下鉄
片側空けには80年ほどの歴史がある。始まった場所は英ロンドンの地下鉄だ。
エスカレーターのマナーについて研究している江戸川大の斗鬼正一(ときまさかず)名誉教授(文化人類学)によると、1944年ごろに駅で右に立ち左を空けるよう呼びかけたという。その後は徐々に世界各地に広がり、日本上陸は67(昭和42)年。場所は大阪だった。
阪急電鉄のターミナルである梅田駅(現・大阪梅田駅)でホームを移転する工事に伴い、動く歩道や長いエスカレーターが設置された。その際、右側に立つよう呼びかけられたとされている。
90年代以降はバリアフリー化の進展で各地の駅にエスカレーターの設置が進み、片側空けも都市部を起点に全国に広がっていった。
大阪は左、首都圏は右
大阪とは異なり、首都圏では右を空ける。斗鬼氏によると、世界でも自然発生的に片側空けが始まった地域では、現地の自動車の通行方法に準じて、追い越し車線に当たる側を空ける傾向があるという。
もともとエスカレーターは、立ち止まって利用するよう設計されている。それでも片側を空ける慣習があるため、空いた側を歩く人が転んだり他人と接触したりする恐れが生じる。病気や障害で片側に寄れない人もいる。輸送効率を考えると、片側空けより立ち止まって2列に並んだ方が多くの人数を運べるという。
光で視覚に訴える
そこで「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマに掲げる万博に登場するのは、緑色のLED(発光ダイオード)で視覚に訴え、2列に並んで立ち止まるよう促すエスカレーターだ。
さらに踏み段が上昇していくにつれて、その両脇の足元に配置されたLEDの光も踏み段と同じスピードで上昇していく。利用者が踏み段に立ち止まっていたら、光に合わせてエスカレーター上を動いているように感じさせる仕組みだ。
これは行動経済学に基づく「ナッジ理論」を応用している。「ナッジ」は英語で注意をひくために刺激するという意味だ。丸い光を照らす位置に立ち止まりたく思わせるのは、男性用小便器に貼った印を排尿時に狙いたくなるのと同様の効果を狙った。
開発したのは日立製作所と子会社の日立ビルシステム。万博の開幕に先駆けて25年1月末に開業する大阪メトロ夢洲(ゆめしま)駅は会期中、1日当たり約12万6000人の利用者を想定している。大阪メトロは両側並びを促して混雑緩和を図ろうと、これまでとは異なる片側空け対策を両社に要請していた。
従来は片側空けをしないように呼びかける文字を印刷したフィルムを手すり部分に貼ったり、踏み段に乗り込む直前に印を付けたりしていた。両社は22年6月ごろから開発を始め、さまざまなLEDの色を試した結果、誰にでも視認しやすい緑色を選んだ。新エスカレーターはホーム階の中央に3台並べて設置される。
日立製作所の三浦壮太技師は「実際にどのように使用されるのか注目している。片側空けを抑止するきっかけになってほしい」と期待する。
斗鬼氏は「片側空けが普及した根底には一斉に並んで猛烈に働くという20世紀的な価値観があり、現在でも根強い」と指摘する。未来社会を提示する万博がきっかけとなり、日本人に染み付いた慣習に変化が起きるだろうか。【妹尾直道】