児童の権利宣言から100年 「声なき声」を聞く社会に(2024年3月14日『佐賀新聞』-「論説」)

 今年は、1924年に国際連盟が「児童の権利に関する宣言」を採択してから100年、「子どもの権利条約」が89年に国際連合で採択されてから35年、日本が94年、この条約に批准してからちょうど30年になる。日本では昨年4月、「こども家庭庁」の発足と同時に「こども基本法」が施行された。以前に比べると子どもを取り巻く環境が好転したと感じる一方で、増加傾向にある児童虐待など子どもの人権は厳しさを増しているとも思える。100年前の原点を再確認し、子どもの権利を守りたい。

 子どもの権利条約は「生きる」「育つ」「守られる」「参加する」の四つを子どもの権利として掲げている。子どもは自分一人で生きる力を持たない、持っていても小さいため、まずは親をはじめとする養育者がこの四つの権利を保障しなければならない。

 だが、乳幼児期は特に、この権利が踏みにじられがちだ。作家の町田そのこさんの小説『52ヘルツのクジラたち』は両親の離婚、再婚、虐待、ヤングケアラーといった子どもの苦難を描く。主人公が発する「SOS」は周囲に届かない。

 最も大切な「生きる権利」が養育者によって脅かされる事態は小説の世界だけではない。東京では今年2月、4歳の娘に薬物などを与え、中毒死させた容疑で両親が逮捕された。

 そもそも、子育ては時間とお金がかかる。ちょっとしたつまずきで子どもが“重荷”となり、ささいなことで八つ当たりしてしまう。経済的苦境に立たされた時、しわ寄せは子どもにいきがちだ。

 こうした厳しい状況にある家庭を日本社会は「自己責任」で済ませてこなかっただろうか。家庭が困窮していれば子どもは我慢して当たり前、という雰囲気がなかったとはいえない。

 だが、「養育者の自己責任」を問うだけでは、子どもの苦しみは解決しない。家庭が子どもの権利を保障できない時は国や市町村が代行すべきなのに、日本は財源不足を理由に子育て支援の優先順位が低かった気がする。その結果、少子化が進んだと言わざるを得ない。家庭を守ることが子どもを守ることにつながる。ひとり親家庭をはじめ困っている家庭があれば、児童手当の特別給付など救済手段の充実を急ぎたい。

 一方、子どもを「守るべき存在」とする意識が強すぎるからか、大人はしばしば、子どもと大人が対等な関係であることを忘れてしまう。しつけと虐待、教育と「行きすぎた指導」の差は紙一重。家庭に限った話ではない。子どものためという「大人側の論理」が都合よく使われ、子どもを一人の個人として扱わず、その人権を踏みにじっていないだろうか。教育現場や地域社会でも検証が必要だ。

 子どもが自分の言いたいことを言えなくなれば、孤独という殻に閉じこもってしまう。その意味で、弱い立場にいる子どもの「声なき声」に耳を傾けることが必要だ。佐賀県は新年度から、虐待に遭った子どもの意思を聞き取り、関係者に伝える「子どもアドボケイト(代弁者)」制度を始める。いい取り組みであり、広がりを期待する。

 子どもは決して「親のもの」ではない。「社会からの預かりもの」と考えたい。子どもたちから「こんな大人に出会いたかった」と思われる大人であろう。そのためにも、普段から子どもの声に耳を傾けたい。子どもの権利を守るための第一歩である。(中島義彦)