ふつうに難しい「普通」(2024年3月10日『産経新聞』-「産経抄」)

 貧しい小説家の「僕」は旧知の名家に招かれ、つい酒を過ごす。酔いざましにと蜆(しじみ)汁に手を伸ばし…。太宰治の掌編『水仙』である。貝の肉をほじくる僕に、先方の夫人は驚く。「そんなもの食べて、なんともありません?」。

▼<純粋な驚きの声>に、僕は打ちのめされる。具材として味わう作家、出汁(だし)を取れば捨てる富家。両者にとっての「普通」がすれ違う。小さな貝が描き出す鮮やかな対照は一読して忘れ難い。「普通」という物差しの残酷な正体を見る思いがする。

▼犯罪(不正)と法律(制度)の関係も同じことがいえるかもしれない。コンビニのコーヒーを巡り、公立中学校の校長(60)が懲戒免職になった。レギュラーサイズの額を払い、Lサイズの量をセルフサービスの機械で注ぐ。元校長は不正を重ね、窃盗容疑で書類送検されていた。

▼店から指摘がなかったことに味を占め、不正が「普通」になったらしい。少しの差額を懐に入れ、多額の退職金を棒に振った。やや厳しく映る懲戒免職も、制度や過去の事例にならえば「普通」なのだろう。ここで処罰の適否を書くつもりはない。

▼こんな思いも脳裏をよぎる。よこしまな感情が自分に兆したら。間違えてボタンを押したら。誰にでもあり得ることだ。踏みとどまれるか、正直に申告できるか。自制や規範意識は必要だが、自分の尺度で社会の「普通」が決まるわけでもない。「普通に生きる」が実は難しい。

▼結婚を発表した米大リーグの大谷翔平選手は、お相手について「至って普通の人というか、普通の日本人です」と明かした。二刀流を普通にこなす人が伴侶にした人だ。【普通】=『特別』という本音の照れ隠し。当方の辞書に、新たな意味を書き加えておく。