「どうか助けてください」願い届かず…「ガラスのうさぎ」高木敏子さんが語る「改めて命の大切さを伝えたい」(2024年3月9日『東京新聞』)

 
 一夜で10万人が亡くなったとされる東京大空襲から10日で79年。ウクライナパレスチナ自治区ガザで空襲が続く中、「ガラスのうさぎ」著者の高木敏子さん(91)=千葉市=が東京新聞こちら特報部」のインタビューに応じた。244万部を超えるベストセラーの生みの親は、父母や妹を奪った「空襲」に何を思うのか。なぜこれほど、世界で読み継がれる作品になったのか。(山田雄之、岸本拓也)

 高木敏子 1932年、東京都生まれ。文化学院卒。「ガラスのうさぎ」は厚生省児童福祉文化奨励賞、日本ジャーナリスト会議奨励賞を受賞。出版する「金の星社」によると、英、中国、タイ、スペイン、マラーティーハンガリーポルトガル語に翻訳された。JR二宮駅前には、少女時代をモデルにした「ガラスのうさぎ」像が立つ。

◆「戦争が起きれば、味方も、敵も死んじゃうのよ」

 関東地方もうっすら積雪した8日、高木さんが暮らす千葉市を訪ねた。2019年夏で長年の講演活動にひと区切り。コロナ禍もあって最近はほとんど外出せず、本を読んで勉強したり、日記や手紙を書いたりして過ごしているという。
 
東京大空襲の記憶を話す高木敏子さん=千葉市で(坂本亜由理撮影)

東京大空襲の記憶を話す高木敏子さん=千葉市で(坂本亜由理撮影)

 部屋で車いすに座り、机にたくさんの資料を置いて迎えてくれた。久しぶりにインタビューに応じた理由を尋ねると、柔和な表情が一変した。「戦争が起きれば、味方も、敵も死んじゃうのよ。悲しみしか生まれないわ。改めて命の大切さを伝えたいと思ったの」。時に手を振りながら、語り続けた。

◆母と妹2人は見つからず 焼け跡から「ガラスのうさぎ

 1945年3月10日の東京大空襲で、本所区(現墨田区)の自宅にいた母と妹2人を失った。高木さんは神奈川県二宮町疎開していたが、妹2人は寂しさから戻っていた。
 「どうか助けてください」。父から3人が行方不明と聞き、毎日祈った。7月、東京に戻って自宅の焼け跡を掘り返した。江戸切子のガラス職人だった父が、娘たちを喜ばせようと作った「ガラスのうさぎ」が見つかった。火災による高熱で、ぐにゃぐにゃに溶けたうさぎを見ながら、父が「みんなの葬式をあげよう」と切り出し、涙ながらにうなずいた。
 見つからない3人の遺骨に代わり、葬式では茶わんやままごと道具を納めた。「遺体がないから、当時は3人が亡くなったと信じられなかった。疎開先に突然来てくれるんじゃないかと期待していた。父が亡くなるまでは」と振り返る。
 
東京大空襲直後の東京・下町付近。白い煙が漂っている=1945年3月10日撮影(東京大空襲・戦災資料センター提供)

東京大空襲直後の東京・下町付近。白い煙が漂っている=1945年3月10日撮影(東京大空襲・戦災資料センター提供)

 翌8月5日。新潟で新生活を送るために列車を待っていた二宮町の駅で、米軍機の機銃掃射に遭った。父は3発の弾を受けて即死した。「すごく混乱していた。夜、泣きたくて海に向かうと足がどんどん前に進んでね。ざばーっと大波が来て転んで、われに返ったの」。高木さん自身も死のうとした状況を語った。

◆「世界から戦争が消えないことを前提としていて許せない」

 終戦後、戦地から戻った兄と暮らしながら女学校で学んだ。「戦争体験を語り継ぐ」決意を込めて、太平洋戦争開戦日の12月8日を結婚記念日にした。77年に出版した「ガラスのうさぎ」はベストセラーとなり、ドラマや映画、アニメの原作にも。全国各地を回り、自ら戦争体験を語り平和の尊さを訴えてきた。
 それでも、ロシア軍によるウクライナ侵攻、ガザでのイスラエル軍イスラム組織ハマスの戦闘など、今も世界各地で空襲は続く。「話し合いをすれば人は殺し合わずに済むのに。『甘ったるい』と言う人もいるかもしれないけど、戦争したくない人、死にたくない人まで死んじゃうのよ」と首をひねった。
 
東京大空襲の記憶を話す高木敏子さん=千葉市で(坂本亜由理撮影)

東京大空襲の記憶を話す高木敏子さん=千葉市で(坂本亜由理撮影)

 その上で、「私しっかり新聞読んでいるからね」とうなずいた。政府が2023年度から5年間の防衛費総額を約43兆円に増やし、米国への武器輸出を加速させる方針を掲げていることを指摘。「世界から戦争が消えないことを前提としていて許せないわ。人の悲しみでお金もうけをしようなんて、私は許せない」と語気を強めた。

◆戦争とは、平和とは…次の世代が学ぶ場を

 先月末には、東京都が長年「封印」していた東京大空襲など戦争体験者の証言ビデオ122人分の一部公開が始まった。だが、そもそもビデオを展示するはずだった「仮称・都平和祈念館」の建設計画は、展示内容を巡り都議会が紛糾した20年以上前から止まったまま。以前から建設を切望している高木さんは「戦災地だった東京に平和祈念館がないのはおかしい。『戦争とは』『平和とは』を次の世代の人々が学ぶ場が必要でしょ」と訴える。
 「ガラスのうさぎ」とともに、平和の大切さを伝えてきた高木さん。今世の中に一番伝えたいことを尋ねると、きっぱり言った。
 「ずっと一緒よ。『戦争を起こそうとするのは人の心。起こさせないようにするのも人の心』。皆にその思いを持ってほしい。それが私の願いなのよ」
   ◇   ◇

◆「読む者の心を強くゆさぶった」ガラスのうさぎ

 「ガラスのうさぎ」が刊行された1970年代はベトナム戦争の激化とともに、日本の空襲被害に注目が集まった時期だ。東京大空襲を体験した作家の早乙女勝元さんらが70年に「東京空襲を記録する会」を結成。都民の空襲体験記や米軍資料を集めた同会は「東京大空襲・戦災誌」(全5巻)で菊池寛賞を受賞。空襲被害の聞き取りなどを行う「記録する会」活動も全国に広がった。
 早乙女さんが71年に著したノンフィクション「東京大空襲」(岩波新書)はベストセラーに。神戸空襲を描いた野坂昭如さんの小説「火垂るの墓」(67年)など空襲文学にスポットが当たる中、主婦だった高木さんも84ページの小冊子「私の戦争体験」を77年春に自費出版。知人の子どもたちに戦争の恐ろしさ、平和の尊さを知ってほしい思いで、60年代に書いたものだった。
 
世界で読まれている「ガラスのうさぎ」=金の星社提供

世界で読まれている「ガラスのうさぎ」=金の星社提供

 編集者の目に留まり、加筆修正して77年12月に出版されると、大ヒット。「新版ガラスのうさぎ」の解説で早乙女さんは「(膨大な空襲の記録を読んでいたのに)思わず目を覆いたくなった」「息もつまる思いでページをめくりながら、何度か涙ぐまずにはいられなかった。読む者の心を強くゆさぶらずにおかぬものがあった」と記している。
 映画やドラマにもなり、空襲を扱った児童書としては異例のロングセラーに。高木さんのコーナーを長年設けていた立命館大学国際平和ミュージアム名誉館長の安斎育郎さんは「自身の具体的な体験をもとにドキドキするような臨場感で分かりやすく物語られており、焼け跡の中のガラスのうさぎというモチーフも印象的で、長く愛読されているのだろう」と推察する。

◆「原爆投下さえ知らない子どもたちも」…今なお意義大きく

 金の星社の担当者は、作品の持つ平和へのメッセージ性に加え、読書感想文の指定課題図書となったことや、小学校上映会で映画鑑賞の場が多数あったことなどを挙げる。高木さんが平和を訴えて全国を行脚したことも大きいといい、「1700回以上の講演会を通じて、戦争の悲惨さと平和の大切さについて多くの方の心に響いた」という。
 作品が世に出て半世紀近く。ガラスのうさぎのアニメ映画など、平和や人権の尊さを描く作品を配給してきた九州共同映画社(福岡市)の井上裕治社長(64)は「原爆投下さえ知らない子どもたちも出てきた。今後も絶えず平和を訴え続けていかないといけない」と気を引き締める。
 前出の安斎さんは「人々が戦争の悲惨さを知って平和創造に努力することが一層大切になっている。『ガラスのうさぎ』は子どもたちにも戦争の惨禍を伝える力を持つ名作。その意義はますます大きくなっている」と説く。

◆デスクメモ

 「焼夷(しょうい)弾/炎と高熱によって人を焼き殺し、建物を焼きはらう爆弾、砲弾」。2000年の新版ガラスのうさぎは戦時中の語句説明を多数追加している。子どもたちに分かってほしいとの思いが、ロングセラーの原点では。かつて読んだ子どもたちも次の世代に伝えたい。(本)