農家に生まれ、小学生のころから田植えを手伝ってきた。黄金色に染まる古里をもう一度見たい。そう願う男性がいる。福島県葛尾村の農家、半沢富二雄さん(70)。東京電力福島第1原発事故から11年後にようやく避難指示が解除された野行(のゆき)地区で農業再開に向けて励む。半沢さんはなぜこの地にこだわるのか。 【地図】葛尾村野行地区の特定復興再生拠点区域
「もっと解除が早ければ」
2022年6月12日、朝から大粒の雨が自宅の屋根をたたいた。この日、11年3月の原発事故に伴う避難指示がようやく解除された。 11年ぶりに古里を取り戻した半沢さんだったが、胸中は期待に不安が入り交じっていた。自宅に詰めかけた数十人の報道陣にこう伝えた。「豊かな自然の中に住み、できる限り野行の再建に貢献したい」 今も離れて暮らす野行地区出身の人々にその思いが届いてほしかった。 野行地区には原発事故前126人が暮らしていた。だが、この日戻ったのは半沢さんだけ。その後の帰還者もわずかだった。「もっと解除の時期が早ければ」。半沢さんは11年という歳月の長さを恨んだ。
食卓に並んだ野菜や山菜
コメ農家の長男として野行地区で生まれた。毎年6月には子どもも大人も住民総出で苗を植えた。農業を学ぶ県立専門学校に2年間通った後、村役場で働き始めた。村職員となっても両親らと1.3ヘクタールの農地などでコメやトマトなどの野菜を作り続けた。 震災前は、両親と妻、娘2人との6人暮らしだった。半沢さんが3歳のころから住む五右衛門風呂のある木造平屋の一軒家があった。 村役場での業務が忙しい時は、娘2人も畑仕事を手伝ってくれた。コメは出荷し、野菜は家族の食卓に並んだ。近くの山で採れるフキやワラビも漬物にした。「家を訪れる親戚らに振る舞い、たわいもない話をする日々が幸せだった」
原発事故、見通せない帰郷
夏には蛍が舞う自然豊かな野行地区。南東約20キロにある福島第1原発が爆発し、この地に放射性物質が降り注ぐとは思ってもみなかった。 葛尾村は全村避難となった。村民は福島市や会津坂下町などに逃れ、半沢さんも村民とともに転々とした。11年4月から住民生活課長として村民の避難生活をサポートした。 野行地区は空間放射線量が高かったことから、村の全11地区で唯一帰還困難区域に再編された。野行地区を除く10地区の避難指示は原発事故から5年後に解除された。 野行地区の解除の見通しがつかない中、地区の住民たちは避難先に定住していった。半沢さんも郡山市に家を建てた。だが、いつでも故郷に戻って来るつもりだった。
10年以上へて「我が家」に
18年、ようやく解除の見通しが示された。帰還困難区域であっても優先的に除染とインフラ整備を進めて帰還を目指す「特定復興再生拠点区域(復興拠点)」を設けることを国が決め、約1600ヘクタールの野行地区の約6%が復興拠点に設定された。 半沢さんは自宅が復興拠点に入ることが決まると、解体した上で、21年に木造平屋の一軒家を再建した。解除前の準備宿泊で1人で泊まった。風呂に入り、床についた時には、「今、野行にいるんだな。ようやく自分の家に帰ってきた」という安堵(あんど)感に包まれた。 遠くから聞こえるホーホーというフクロウの鳴き声が懐かしかった。10年以上止まっていた時計の針が、ゆっくりと動き出したように思えた。
収穫したコメ、処分場へ
12年3月、村役場を58歳で早期退職してからは、JAや県農業振興公社で農業復興に携わるようになった。 半沢さんの1.3ヘクタールの農地も復興拠点に入り、宅地とともに除染された。表土をはぎ取り、客土した。 野行地区でコメの試験栽培が始まったのは21年からだ。1年目は地区内で最も放射線量が高い農地で行った。 国の基準値(1キロ当たり100ベクレル)は超えなかった。それでも、半沢さんは持って行き場のない収穫したコメを軽トラックに積み込み、県指定の廃棄物処分場に運んだ。「せっかくここまで作ったのに、投げる(捨てる)のか」。やるせなかった。 2年目は自らの田んぼでも作付けした。サンプリング用に5カ所で収穫し放射線量を測定した。やはり国の基準値は超えなかったが、残り全てを処分した。出荷制限の解除に向けた手順を示した国の規定に基づいて全量廃棄しなければならないからだ。
ビニールハウスで自給自足
22年12月、半沢さんはビニールハウスを新しく建て、村外の土を入れた。「販売以前にまずは自給自足用に栽培し、自分の中で大丈夫だと理解しないと次に進めない」との思いからだった。 福島県によると、原発事故で被災した12市町村で、事故後に営農を休止した面積は最大1万7298ヘクタールに上った。このうち、営農を再開したのは22年度末時点で8015ヘクタール、46.3%にとどまる。葛尾村でも398ヘクタールで営農休止となり、22年度末時点で再開されたのは29.3%にすぎない。 県の担当者は「避難指示の解除が早かった地域は住民が戻り、営農を再開しやすい傾向にある。一方、避難指示の解除が遅れた地域の住民は、避難先で新たな生活基盤を築いており、帰還の動きが鈍く、営農再開も進まない」とみている。 こうした状況を受け、国は営農再開に向けた支援策を用意する。半沢さんもトラクターなどの購入代金約800万円のうち4分の3で国と県の補助金を活用した。しかし、この補助金も26年3月には終わる。
「自分がやりたいことを」
今年1月、半沢さんは葛尾村に隣接する浪江町津島地区出身の石井絹江さん(71)と20年ぶりに会った。お互い役場職員で旧知の仲だった。 石井さんの自宅は今も帰還困難区域に入り、帰郷がかなわない。23年に津島地区に整備された町営住宅に入居した。 石井さんは避難先の福島市で15年に農園をオープンさせた。カボチャやエゴマを栽培・加工し、販売してきた。今後、津島地区でも農園を開き、義母から教わったカボチャを練り込んだまんじゅうづくりの後継者を育てたいという。「国の支援や住民の帰還を待っていてはダメ。自分がやりたいことをやらないと」 どんな状況でも前を向く石井さんの言葉を聞いた半沢さんは決意した。「野行の農業は今は絶望に近い。それでも自給自足から始め、いつか自分が作った野菜を親戚や近所の人たちにも振る舞えるようになりたい」
この地で、とことんこだわる
野行地区の農地を借り上げて飼料用の作物を栽培したい。村内で食用米や飼料米を作る農業法人からこんな申し出があった。半沢さんが農地の活用について相談していた男性が運営する法人だった。 今年1月時点でも野行地区で暮らす住民は2拠点居住も含め5人ほどしかいない。「野行以外の人たちにも農地を使ってもらえるように働きかけ、新たに住んでみようと思えるような環境を整えていけたら」。半沢さんはそんな思いを抱く。 ここの空気をいっぱい吸い込むと、やっぱり戻ってきてよかったと思える。「農家に生まれ、農家の子として育ってきた。やっぱり、それ以外のことは考えられないよ」。これからもこの地での農業にとことんこだわるつもりだ。【毎日新聞・肥沼直寛】