東日本大震災13年 つながりを保つ復興こそ(2024年3月11日『毎日新聞』-「社説」)

震災から13年となる日を前に、風化防止のため東京・汐留で始まったイベント。11日午後7時まで福島への帰還の動きなどを伝える=プラザ汐留シオサイト店前通路広場で2024年3月7日午後5時ごろ、竹中拓実撮影

震災から13年となる日を前に、風化防止のため東京・汐留で始まったイベント。11日午後7時まで福島への帰還の動きなどを伝える=プラザ汐留シオサイト店前通路広場で2024年3月7日午後5時ごろ、竹中拓実撮影

 災害関連死を含め2万2000人以上が犠牲となった東日本大震災からきょうで13年になる。

 建物や公共インフラなどハード面の整備はほぼ完了した。だが、人々が安心して暮らせる「心の復興」は道半ばだ。

 同じ被災地でも地域によって復興の度合いやスピードは異なる。仙台など都市部がにぎわいを取り戻す一方、甚大な津波被害を受けた沿岸部では、暮らしや産業の再建が思うように進んでいない。

 地域のつながりをどう保ち、コミュニティーを守るかが大きな問題になっている。

 共同体の再生に取り組み始めたばかりの地域がある。東京電力福島第1原発事故の影響で「帰還困難区域」に指定されていた周辺自治体だ。

地域共同体の再生が鍵

 国のまとめでは、故郷を離れて今も避難生活を送る被災者は全体で2万9000人を超える。このうち2万6000人以上が、原発事故に伴う避難者である。

 福島県は、帰還が遅れていた原発周辺12市町村について、2021年度から、移住者に支援金を交付する事業に取り組む。

 除染作業が優先的に進められた帰還困難区域の一部は22年6月以降、避難指示が順次解除され、居住可能になった。

 

福島県双葉町。手前中央はJR双葉駅。奥に東京電力福島第1原発が見える=2024年2月11日午後1時5分、本社ヘリから

 原発が立地する同県双葉町では同年10月から、災害公営住宅の入居が始まった。

 震災時の人口は7140人だったが、今年3月1日現在、102人にとどまる。他の地域から移り住んだ人が6割を占める。

 JR双葉駅前の災害公営住宅に住む浜田昌良さん(67)もその一人だ。公明党の元参院議員で、通算5年間にわたり副復興相を務めた。引退後、福島の復興の歩みを自らの目で確かめようと横浜市から移り住んだ。

 1年半暮らす中で、地元が抱える課題も見えてきた。

 住民は男性の単身者が多く、20~50代の子育て世代は少ない。町内の学校は再開されておらず、別の町に通学しなければならない。

 女性の居住者が増えにくい現状について、「ドラッグストアや美容院などの施設が少ない」との悩みも聞くという。

 浜田さんは「移住者向けの住宅が足りない。若い世代を増やすには起業と創業の支援も必要だ」と指摘する。

 帰還者と移住者のつながりをいかに作り出すか、腐心している。交流の場「まちカフェ」の開催や地域の絆を強める神事の再興などの試みが続けられている。

 除染廃棄物を保管する中間貯蔵施設を抱え、県外の搬出先も決まっていない。厳しい状況は変わっていないが、他の地域で暮らす住民の意識に変化の兆しも見え始めている。

 復興庁が2月末に公表した意向調査では、「戻りたい」人の割合は10年前の10%から15%に増えた。「戻らない」は65%から55%に減少した。

 住民の中には、避難先に生活基盤ができて戻れない人もいる。コミュニティーの一体性を維持するためには、そうした人たちとのつながりを保つことも大切だ。

高齢・過疎地どう守る

移転先のまちづくりについて意見を出し合う住民ら=宮城県東松島市で2014年8月31日、佐々木順一撮影
移転先のまちづくりについて意見を出し合う住民ら=宮城県東松島市で2014年8月31日、佐々木順一撮影

 双葉町に先んじて一部地区で避難指示が解除された同県葛尾(かつらお)村では、稲作イベントに村外避難中の住民も招くなどして、つながりを断たないようにしている。伝統舞踊も復活させた。

 住民が主体となって、震災後の共同体の再建に取り組んできた自治体もある。

 宮城県東松島市は復興を進める際に地区ごとに住民組織が加わる「まちづくり協議会」を設けた。

 同県岩沼市は、仮設住宅の入居や造成された宅地への移転を同じ集落の住民がまとまってできるようにした。

 今年の元日に起きた能登半島地震の被災地でも今後、共同体の再建が課題となる。

 大震災で国の復興構想会議の議長を務めた五百旗頭(いおきべ)真(まこと)さん(6日死去)は、2月の毎日新聞の取材で、首長や行政によるトップダウンではなく、「住民の合意が得られるよう、話し合いは早く始めた方がいい」と提言していた。

 近い将来、南海トラフ地震の発生が予想され、高齢化と人口減少が進む過疎地が大地震に襲われるリスクは小さくない。地域のつながりをどう守っていくのか。行政と市民が共に考える枠組みを整えておくことが求められる。

 

「どんなにつらいことがあっても明けない夜はない…(2024年3月11日『毎日新聞』-「余録」)

宮城県農業高と兵庫県立姫路商業高が共同で開発した真空パックご飯「金の光」=2024年3月3日、永山悦子撮影拡大
宮城県農業高と兵庫県立姫路商業高が共同で開発した真空パックご飯「金の光」=2024年3月3日、永山悦子撮影
能登半島地震の発生後、支援物資が届かず、食材を持ち寄り避難所で食事を作る住民たち=石川県能登町で2024年1月4日午前8時23分、和田大典撮影
能登半島地震の発生後、支援物資が届かず、食材を持ち寄り避難所で食事を作る住民たち=石川県能登町で2024年1月4日午前8時23分、和田大典撮影

 「どんなにつらいことがあっても明けない夜はない」「必ず太陽は昇り希望の光を照らしてくれる」。今年1月下旬、能登半島地震で被災した石川県七尾市内の高校に手紙が届いた。支援の真空パックご飯とともに

▲書いたのは、東日本大震災で被災した宮城県農業高3年の河東田(かとうだ)彩花さん。13年前、全国からの支援品、応援メッセージに励まされた。その恩返しの思いを込めた

▲パックご飯は、同高と兵庫県立姫路商業高が共同で開発した。姫路商業の生徒たちが、生まれる前に起きた阪神大震災について学んだことがきっかけだ。被災経験者の話を聞き、時間の経過とともに教訓が風化する現実を知った

▲「東日本大震災のことも知りたい」と、昨年夏に三陸を訪ねた。語り部の女性の「物や建物は復興しても、人の心はいつまでも復興しない」という言葉が胸に刺さった。「私たちにできることをしたい」

▲災害時に求められることを調べ、津波で校舎を失った宮城県農業高と連携して、被災者に役立つ食材作りを始めた。昨年末、兵庫の白米と宮城の玄米で作ったパックご飯「金の光」が完成した。今回、宮城側で保管していた600個を石川県へ送った

▲河東田さんは手紙の最後にこう書いた。「つらい時、悲しい時は日本全国に仲間がいることを思い出してください。私たちはいつも皆様のことを思っています」。能登の復興はまだ見えない。二つの震災、各地の災害の経験を踏まえ、息の長い支援と教訓の伝承が求められる。