20年前の8月13日に起きた沖縄国際大学のヘリ墜落事故。「東京のメディア」は当時どう報じたのか。当時を知る人たちへの取材から、今につながる問題について考えます。
▽湯浅(旧姓・嘉手川)由紀子さん(当時RBC記者)
「黒こげの壁の印象がすごくあったんですけど、それが無くてもここにヘリが落ちたんだなっていうことを思い出すことが、この木を見ると思い出すことができますね」
湯浅由紀子さんは事故直後、RBCの記者として真っ先に現場に駆け付けました。
▽湯浅(旧姓・嘉手川)由紀子さん(当時RBC記者)
「今こうして来てみると、本当に平和な、この平穏な街であんなに大きな事故が起きたんだというのを見ると、そのギャップに驚かされますね」
▽元朝日新聞記者・川端俊一さん
「これは3番手と言っていいのか。かなり小さい。アテネ五輪が大きくとってますから」「3番手と言ってもかなり小さめの3番手ですよね」
ー事故の一報を聞いたときは?
▽元朝日新聞記者・川端俊一さん
「真っ先に思い浮かんだのはやはり、宮森小学校の墜落事故」「背筋が凍りつくような、そういう思いになったのは今でも覚えています」
当時、朝日新聞西部本社(福岡)で、福岡県内のローカルニュースを扱う地域面のデスクを担当していた川端さん。翌日の紙面の構成を決める会議に参加していました。
ー紙面構成を決める会議ではどのようなやりとりが?
「同じ日に、巨人のオーナー、渡辺恒雄さんが、不祥事が起きて辞任するという」
会議に参加していたメンバーで、沖縄での取材経験が豊富だったのは川端さんだけ。事故をトップに据えるべきだと訴えましたが、その意見が通ることはありませんでした。
毎日新聞も、朝日新聞と同じくトップは巨人渡辺オーナーの辞任で、事故の扱いはアテネオリンピックに次ぐ3番手。読売新聞のトップは「人名漢字」についてで、事故は1面に載ることなく社会面のみと、さらに小さい扱いでした。
ー地元紙と全国紙の差異はなぜ生じたと思うか?
▽元朝日新聞記者・川端俊一さん
「事故直後の(主要全国紙の)社説を読み返してみると問題が見えてくるんですけど」「そろって同じように指摘しているのは、これは安保を揺るがす事故であると。日米安保体制にヒビを入れかねない事故であるというような、そういう視点が中心なんですね」
「今や日本の国是とも言える日米安保体制ですね、これが大きな問題として(事故の)背景にある」「つまりこの国の国家体制に関わっている事故なんだという視点が、会社(朝日新聞)としても落ちていたし、私自身の認識も十分ではなかったというのが、今も悔やまれる点ですね」
RBCが加盟するJNNのキー局であるTBSは事故をどう報じたのか。今も続く平日夜のニュース番組「NEWS23」のこの日のトップニュースは… やはり巨人のオーナー辞任のニュース。番組冒頭から約7分間にわたって報じました。
一方で事故のニュースは番組開始から12分後。そのほかのニュースと合わせて短く伝えられただけでした。
▽TBS 佐古忠彦さん
「なぜあのときに、あの日にその現場に行かなかったのかというのは」「やっぱり悔いを残した痛恨の出来事」
「沖縄からすれば、生活に根ざした、基地の問題、命の危険も考えなきゃいけない基地の問題。だけれども、本土側からしたらひょっとしたらあの時はいわば、犠牲者がいないというこの一点で、単なる事故という認識だったとしか見えない結果だったろうなと思う」
そのうえで、事故に対する地元メディアと本土メディアの大きなギャップについてこう解説します。
「沖縄戦があり、占領下に置かれた戦後、そしてそこから、いわば地続きというふうに言える今の歴史の上にある出来事という、「線」でこの出来事(事故)を見るのか、あるいは事故という「点」で見るのか」
「いわばその歴史的な体験のギャップと言いますかね、そういったものが奥底にあって、それがそのまま現れた報道の結果だったんではないか」
▽元朝日新聞記者・川端俊一さん
「南西諸島防衛という言葉が新聞によく登場しますけど、決して島を守ったり人々を守ったりするためのものではなくて、米中の覇権争いのひとつの足場として、この島々を使おうとしている」「ほとんどの国民が支持している安保体制、中身は本当にこのままでいいのかということを本土のメディアはもっともっと問いかけなければならない」
「それが象徴的に表れたのが沖国大ヘリ事故の、ヤマトと沖縄のメディアの報道の差、というところに、かなりはっきり表れたんじゃないかなという風に私は思っています」
▽湯浅(旧姓・嘉手川)由紀子さん(当時RBC記者)
「当時はこの事故によって普天間基地が一刻も早く閉鎖されるのではないかという強い期待感を持っていたんですけど、今このようにしてみるとやっぱり変わらなかったんだなという、落胆の気持ちの方が大きいですね」
RBCの記者として、墜落事故の取材にあたった湯浅さん。県外で生活する今、事故を伝え続ける意味を強く感じています。
「ヘリ墜落事故、本土の方ではあまり認識もされていませんし、大きく報じられることもないんですけど、こうした節目節目に伝えていくこと、こういう大きな事故があったことを伝えていくことは、報道の使命だと私は思います」
<取材MEMO>
「危険と隣り合わせの生活」を強いられ、最も恐れていた形で現実のものとなった沖国大へのヘリ墜落事故は、本土のメディアがどういう目で沖縄を見ているのかもあらわにした事故だったように思います。事故から20年、普天間基地は今も変わらず運用が続いています。(取材 平田俊一)
沖国大ヘリ墜落20年 地域間で連帯して運動を(2024年8月13日『琉球新報』-「社説」)
2004年のきょう、沖縄国際大に米軍普天間飛行場所属の大型輸送ヘリコプターCH53Dが墜落・炎上した。県民に奇跡的に負傷者はいなかったが、普天間飛行場の危険性を思い知らされた事件だった。20年たっても何一つ問題が解決していない。しかし、風化させることも諦めることも許されない。若い世代に伝えながら全国と連帯し、解決に取り組んでいくしかない。
事件が県民に与えた衝撃の第1は、何がどこに落ちてくるか分からないという、基地あるがゆえの危険である。12年に普天間飛行場へ強行配備された垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが16年12月に名護市安部の海岸に墜落した。
17年10月にCH53Eが、東村高江の牧草地に不時着・炎上し、同年12月に窓枠を宜野湾市の普天間第二小学校の運動場に落下させた。窓枠落下の6日前にも、近くの保育園の屋根にCH53の部品が落下した。有機フッ素化合物(PFAS)による河川や地下水の汚染も同飛行場が汚染源とみられる。普天間飛行場はただちに閉鎖・撤去すべきだ。
衝撃の第2は、米軍基地の外であっても日本の捜査権が及ばなかったことだ。米軍が張り巡らせた規制線の中に入れたのはピザの配達人だけだったことから、現代美術家の照屋勇賢氏はピザの箱で作品を制作して風刺した。
批判を受け、翌年に日米が定めた事故対応のガイドラインは、規制線を共同管理するとしただけだ。東村の事故でも問題になり、ガイドラインは19年に改定され「迅速かつ早期の立ち入り」ができることになったが、米軍の同意が前提なのは変わらない。
衝撃の第3は、全国的な関心が低かったことだ。発生当時、アテネ五輪開幕もあって特にテレビニュースの扱いは小さかった。その後、普天間飛行場の移設先とされた名護市辺野古を巡る問題でも、日本政府は、県民投票や選挙で示された民意を踏みにじり続けている。内外の世論を高める努力がさらに求められる。
10日に宜野湾市で、米兵の性犯罪に抗議しオスプレイの飛行停止と普天間飛行場の閉鎖・返還を求める県民大集会が開催された。2500人が集まり、日米地位協定の抜本的見直しと基地の整理縮小も求めた。11日には沖縄市で「『沖縄・九州・西日本から全国に広がる戦争準備』報告意見交換会」が開かれた。
世代間でも地域間でも連帯し、幅広く連動した運動を展開しなければならない。