美空ひばりさんが死ぬまで大切にした「反戦」の思い 無念の声を永久に 「一本の鉛筆」昭和49年(2024年8月5日『東京新聞』)

 
<100年の残響 昭和のうた物語>(6)
 「悲しい酒」「みだれ髪」「柔」…。名だたる代表曲に交じり、ある一曲がかけられた。美空ひばりさん(1937~89年)自らが選ぶ「人生のベスト10」。女王が6番目に挙げたのが「一本の鉛筆」だった。
第1回広島平和音楽祭で「一本の鉛筆」を初披露する美空ひばりさん=1974年8月、広島市で(ひばりプロダクション提供)

第1回広島平和音楽祭で「一本の鉛筆」を初披露する美空ひばりさん=1974年8月、広島市で(ひばりプロダクション提供)

 亡くなる3カ月前の1989年3月に自宅から出演したラジオの生放送番組。メディアでの最後の肉声となった。長男でひばりプロダクション社長の加藤和也さん(52)は「反戦への思いから母がとても大切にしてきた曲。それを伝えることができた」と振り返る。

◆自身も横浜大空襲を経験、ステージからメッセージ

 この曲が発表されたのは今から半世紀前、1974年8月の第1回広島平和音楽祭だった。総合演出を担当した映画監督の松山善三さん(1925~2016年)が作詞を手がけ、歌は「あなたに聞いてもらいたい…あなたに歌ってもらいたい…」という訴えかけから始まる。
 「一本の鉛筆があれば 私はあなたへの愛を書く 一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと 私は書く」
 「一枚のザラ紙があれば 私は子供が欲しいと書く 一枚のザラ紙があれば あなたをかえしてと…」
 「一本の鉛筆があれば 八月六日の朝と書く 一本の鉛筆があれば 人間のいのちと 私は書く」
 ひばりさんはこの曲を歌うに当たり、ステージでメッセージを読み上げた。「昭和12年5月29日、私は横浜で生まれました。本名、加藤和枝です。戦時中、幼かった私にも、あの戦争の恐ろしさは忘れることができません…」
 その誕生日は、8年後の横浜大空襲の日と重なる。

◆広島で涼しい控え室を拒んだ理由は…

美空ひばりさんの反戦への思いを語る息子の加藤和也さん=目黒区で

美空ひばりさんの反戦への思いを語る息子の加藤和也さん=目黒区で

 当時、ひばりさんの父は出征中で、自宅近くが焼夷弾(しょういだん)を浴びて燃え上がる中、一家は母親がつくった防空壕(ごう)に逃れ、命を取り留めた。和也さんは「私が小学校の宿題で『戦争について』の作文を出された時、公演で忙しかった母は、空襲での体験をテープに克明に吹き込み、私に教えてくれました。強調していたのは『戦争は二度とやってはならない』でした」と明かす。
 広島平和音楽祭では待機の際にスタッフが涼しい部屋に案内しようとしたが、「広島の人たちはもっと熱かったんでしょう」と猛暑の中で控えていたという。

◆作詞・松山善三さんが込めた犠牲者の無念さ

 このステージでもう一つ、広島への思いを込めて歌った曲がある。「八月五日の夜だった」。原爆投下前夜の男女を描いた曲だ。
 「橋の畔(たもと)で 影法師 二つ重ねた指切りの 八月五日の夜だった 貴方はどこに 貴方はどこに」
 「橋の畔で 鬼ごっこ 二人の明日を夢にみた 八月五日の夜だった 貴方はどこに 貴方はどこに」
「一本の鉛筆」などを作詞した松山善三さん=千代田区で(2005年撮影)

「一本の鉛筆」などを作詞した松山善三さん=千代田区で(2005年撮影)

 この詞も松山さんによるもので、「一本の鉛筆」と一つのストーリーでつながっている。松山さんもひばりさんと同じ今の横浜市磯子区で育った。兄がニューギニアで戦死している。戦後、空の「遺骨箱」が届いたとき、母親は床にたたきつけたという。松山さんはこんな一文を書いている。
 「兄の骨はジャングルの中に放置しておくのが良い。(遺骨)収集団の線香や読経などで浮かばれる筈(はず)もなく…。(遺骨が長い年月を経て偶然発見され)人は言うだろう。これは、第二次世界大戦という人類の愚行が生んだ日本兵の頭蓋骨だと…。二度とこんな阿呆(あほう)なことをするなと…」
 松山さんは1969年に広島テレビが制作したドキュメンタリー「碑(いしぶみ)」で構成を担当した。勤労動員中に爆心地近くで犠牲となった旧制中学1年生321人を追った作品だ。200人以上の遺族の証言、手記が朗読され、生徒たちの最期がスタジオで再現された。
 投下から4日目に亡くなった生徒の母親はこう証言している。「死期が迫り、私も思わず『お母ちゃんもいっしょに行くからね』と申しましたら、(息子は)『後からでいいよ』と申しました。『お母ちゃんに会えたからいいよ』とも…」
 「一本の鉛筆」「八月五日の夜だった」には、松山さんが受け止めてきた、戦争犠牲者の声、無念の思いが凝縮されている。

◆ひばりさん「永久に残る大切な歌」

 ひばりさんは亡くなる11カ月前の1988年7月、広島平和音楽祭に2度目の出演を果たしている。既に入退院を繰り返しており、周囲は反対したが、和也さんは「即答で『私は出ます』の一言でした」と明かす。
 この舞台でも最初に歌った「一本の鉛筆」は多くの歌手にカバーされている。ドキュメンタリー「碑」は書籍化され、今も中学校の国語教科書に収められている。ひばりさんは50年前、広島でのメッセージをこう締めくくっていた。「(『一本の鉛筆』は)永久に残る大切な歌でございます」
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<連載:100年の残響 昭和のうた物語>
 来年、「昭和100年」を迎えるのを前に、多くの人の耳に残る、あの歌の物語を通して、今に伝えるメッセージを月に1回探る。
 ◆文・稲熊均/写真・北村彰、池田まみ
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