沖縄慰霊の日 平和守る具体策が欠かせない(2024年6月24日『読売新聞』-「社説」)
沖縄戦では県民の犠牲者が9万4000人に上った。79年前の県民の無念と、戦後も続いた沖縄の苦難を記憶に刻み、語り継いでいくことが大切だ。
ただ、平和を誓うだけでは日本の安全は守れなくなっている。
防衛体制がない方が平和を守れると、なぜ、また誰が、保障できるのか。ウクライナで起きている現実は、十分な抑止力を持たなければ、いとも簡単に人命や領土を奪われてしまうことを証明しているではないか。
16日に投開票された沖縄県議選(定数48)では、玉城氏と対立する自民党など「県政野党」の勢力が4議席増の28議席と過半数を獲得し、玉城氏を支持する立憲民主党や共産党など「県政与党」は4議席減の20議席にとどまった。
政府の姿勢にも足りない面がある。県と積極的に対話しているとは言えまい。国が本土の自治体と協議し、沖縄の基地負担の軽減や訓練移転を図っていくべきだ。
国は沖縄と今こそ関係修復を(2024年6月24日『日本経済新聞』-「社説」)
沖縄は23日、慰霊の日を迎えた。沖縄戦の組織的戦闘が終わって79年。10万人近い住民が犠牲になった凄惨な地上戦の記憶が癒えることはない。二度と沖縄県民が戦火にたおれることがあってはならないと固く誓いたい。
反戦の思いと現実の生活の間で揺れ動くのだろうか。沖縄県政は保守の時代と革新の時代が周期的に入れ替わる。最近は県内の選挙で自民党が支持を回復する傾向を見せ始めた。今度こそ、政府は沖縄との関係修復に動くべきだ。
米軍普天間基地の名護市辺野古への移設に関しては公明党が反対しているため、県議会で反対派と容認派が拮抗する状態になった。移設反対が多数だった民意が動き始めた微妙な時期だからこそ、政府には丁寧に埋め立て工事を進める慎重さが求められる。
ところが実際は異なる。埋め立てを担当する沖縄防衛局は8月から本格的な埋め立て工事を始めると唐突に県に伝えたという。両者は2月から工事のあり方について協議してきたが、県には一方的な打ち切りと映った。
半年ほど協議したうえで着工するのはやむを得ない。ただ丁寧さを欠く事務方の対応は、岸田政権に本気で沖縄との関係を改善する意思のないことが背景にあるとみられても仕方あるまい。
保守回帰の動きは県民が中国の脅威を実感していることの表れでもあろう。それなのに自衛隊が平時から使える空港や港湾の第1弾の指定から南西諸島の与那国空港や新石垣空港は外れた。管理する県が難色を示したためで、これではいざというときの避難に支障を来しかねない。
来年は戦後80年である。政府と沖縄県は連携して現実的な対応を進める環境を生み出し、節目の年を迎えたい。
沖縄慰霊の日/武力では守れぬ島の平和(2024年6月24日『神戸新聞』-「社説」)
1945(昭和20)年の沖縄戦終結から79年となったきのう、沖縄県は「慰霊の日」を迎えた。激戦地として知られる糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園では、沖縄全戦没者追悼式が開かれた。新型コロナウイルスの影響による人数制限がなくなり、昨年に続いて一般参列が可能となった。県内外から多くの人が集まり、平和への祈りをささげた。命を尊ぶ「沖縄の心」に共感を寄せたい。
沖縄戦では日米で20万人以上が死亡した。そのうち約9万4千人を住民が占め、軍人らを合わせると県民の4人に1人が犠牲になったとみられる。神戸出身の島田叡(あきら)知事も行方不明となった。軍を率いた牛島満司令官らが自決し、組織的な戦闘が終わったのが6月23日とされる。
戦火で家族や住まいを失い、収容所に集められた住民は戦闘終結後も厳しい生活を強いられた。米軍に土地を強制接収され、多くの基地が造られた。苦難の歴史は本土に住む私たちこそ知っておく必要がある。
だが今も基地の整理・縮小は進んでいない。むしろ近年は台湾情勢などを背景に、自衛隊が九州・沖縄の防衛力を強化する「南西シフト」を推進し、米軍とも連携する。陸自は与那国島や宮古島、石垣島などに駐屯地を設け、那覇を拠点とする第15旅団の師団格上げも検討する。
地元が懸念するのは、防衛力増強で「攻撃対象になる」「再び戦場になる」危険性が高まることである。悲惨な地上戦が語り継がれる沖縄で不安が広がるのは理解できる。
そうした中、エマニュエル駐日米大使が5月に与那国島と石垣島を海兵隊の輸送機で訪れた。米軍と自衛隊の連携を誇示し、中国をけん制する狙いだが、玉城知事は「緊張感をもたらす」とし、県が自粛を求めた米軍機の民間空港使用を強行した点に遺憾の意を表した。民意を無視した訪問と言わざるを得ない。
第15旅団のホームページに牛島司令官の辞世の句が掲載された問題も戦争美化ではないかと地元の反発を招いた。牛島司令官は島田知事の反対を拒み、本島南部撤退を決めた。多くの住民を巻き添えにしただけに、有識者らが句の削除を申し入れた。陸自は真摯(しんし)に受け止めるべきだ。
武力では平和を守れないと、沖縄の人々は身をもって体験している。万一、攻撃が始まれば住民が避難するのは容易ではない。南西シフトを進める前に、紛争を起こさない外交の積み重ねが何よりも重要だ。
沖縄慰霊の日 二度と戦場にせぬ決意を(2024年6月24日『熊本日日新聞』-「社説」)
きのう沖縄は、79年目の「慰霊の日」を迎えた。最後の激戦地・糸満市摩文仁[まぶに]の平和祈念公園では追悼式が営まれた。「平和の礎[いしじ]」には敵味方、軍民の区別なく戦没者約24万人の名前が刻まれている。戦争はいつの世も、否応なく住民を巻き込んでいく。沖縄の人々が大切にしてきた「命[ぬち]どぅ宝(命こそ宝)」の言葉を胸に、非戦の決意を新たにしたい。
東アジアの軍事的緊張は高まっている。中国は海洋進出を活発化させ、北朝鮮は弾道ミサイル発射を繰り返している。不測の事態を招かぬよう、政府はあらゆる外交努力を尽くしてほしい。沖縄を二度と戦場にしてはいけない。
進むミサイル配備
国土面積の1%に満たない沖縄県に、今なお在日米軍施設の70%が集中している。住民は基地負担の軽減を訴え続けてきた。しかしその思いに逆行するかのように、日米両政府は沖縄を含む南西諸島の防衛力強化を急いでいる。
台湾有事を見据え、宮古島や石垣島などに次々と自衛隊駐屯地を開設し、ミサイル配備を進めてきた。ことし3月には、沖縄本島に初めて地対艦ミサイル部隊が置かれた。米軍との施設の共同使用や共同演習も常態化している。
ミサイル部隊は有事の際、攻撃対象となるリスクがある。住民から不安の声が上がるのは当然だ。陸上自衛隊の訓練場新設を巡って、防衛省が地元に説明しないまま用地取得計画を進め、県議会が全会一致で白紙撤回を求める事態も起きた。
先の大戦で、沖縄は本土侵攻を食い止めるための「捨て石」とされた歴史がある。住民感情を軽視したまま、なし崩し的に配備拡張を進めるようなやり方では、到底理解は得られまい。
広がる国への諦め
有事への備えは必要だ。しかし今の政府には、沖縄の人々と対話を重ね、信頼関係を築いていくという姿勢が欠けている。山本章子琉球大准教授は、安全保障関連3文書の改定が閣議決定されてから「日本政府側にためらいが一層なくなった」と指摘している。
その象徴が、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古移設工事だ。玉城デニー知事と県議会は「危険性除去につながらない」と移設反対を掲げ、国との対話を求めてきた。一方、政府は移設が「唯一の解決策」と譲らず、知事が拒んだ軟弱地盤改良工事の設計変更承認を代執行して着工した。
先日の県議選では、知事を支える与党が大敗した。辺野古移設反対派も票を減らし、容認派と同数になった。着々と工事を進める国に対し「諦めムード」が広がったという見方もある。
移設反対の声は根強く、課題は山積している。にもかかわらず、政府は選挙後すぐ、8月から本格工事を始めると県に通告した。国が地方に、負担を押しつける関係は健全とは言えまい。県民の不信感が強まれば、今後の安保政策にも禍根を残すのではないか。
記憶を共有したい
先島諸島では、住民ら約12万人の避難計画やシェルターの整備がようやく動き出した。住民の命を守る政策を後回しにしてはならない。古里の島が「再び戦場になるのではないか」と恐れる住民にこそ、政府は丁寧に説明すべきだ。一方で危機は沖縄だけのものではない。安保政策は国全体の問題である。その意味でも、国民全体が負担の集中する沖縄の現状に無関心であっていいはずがない。
79年前の沖縄で何が起きたか。地上戦の記憶を共有し、語り継いでいかねばならない。二度と同じ悲劇が繰り返されることがないように、沖縄の声に耳を傾けたい。
慰霊の日平和宣言 戦前回帰させぬ決意示す(2024年6月24日『琉球新報』-「社説」)
沖縄が再び戦場となる方向へとひた走っていることに、強い危機感が発せられた。県民が求めるのは武力による紛争解決ではなく、たゆみない対話による平和構築である。
沖縄戦から79年の「慰霊の日」を迎えた23日、糸満市摩文仁で沖縄全戦没者追悼式があった。玉城デニー知事が発した「平和宣言」は例年にもまして、急激な自衛隊増強を沖縄で進めている政府を厳しく批判した。沖縄が直面している危機感の表明であり、日本の防衛政策への警鐘である。
「平和宣言」は沖縄の現状について「あの戦争から79年の月日が経った今日、私たちの祖先は、今の沖縄を、そして世界を、どのように見つめているのでしょうか」と問い掛ける。米軍人による事件・事故、基地から派生する環境問題を挙げ、「過重な基地負担が、今なお、沖縄では続いています」と指摘し、普天間飛行場返還に伴う辺野古新基地建設の断念を求めた。
今回の宣言は、政府の防衛政策に対する強い異議申し立てが最大の特徴だ。「いわゆる、安保3文書により、自衛隊の急激な配備拡張が進められており、悲惨な沖縄戦の記憶と相まって、私たち沖縄県民は、強い不安を抱いています」と述べている。
住民を動員して飛行場を急造し、陣地構築を進めた沖縄戦直前の沖縄の状況と、今日の自衛隊増強を重ねる県民もいよう。宣言は自衛隊増強に対する県民の不安を反映したものである。政府はそのことを忘れてはならない。
全戦没者追悼式に出席した岸田文雄首相はあいさつで「戦場に斃(たお)れられた御霊、戦禍に遭われ亡くなられた御霊に、謹んで哀悼の誠を捧げます」と戦争犠牲者を悼み、基地の負担軽減に尽くす政府の姿勢を示した。しかし、平和宣言が発した沖縄の危機感からはかけ離れている。
平和宣言は「今の沖縄の現状は、無念の思いを残して犠牲になられた御霊を慰めることになっているのでしょうか」と問う。沖縄を「平和の島」とすることをうたった日本復帰時の政府声明を引用したのは、戦前を想起させる沖縄への自衛隊増強について、政府の姿勢を問うものだ。
ウクライナやガザでは紛争が続く。台湾有事も取りざたされるが、平和宣言では平和と安定に向け、対立を深めるのではなく「多様性を受け入れる包摂性と寛容性に基づく平和的外交・対話などのプロセスを通した問題解決」を訴えた。これこそが沖縄戦の教訓を生かした平和外交の在り方であろう。
「台湾有事や南西諸島防衛という言葉を聞くと、人ごとではない『当事者だ』という特殊な感覚がある」
しかし、ウクライナやガザの戦争をニュースで知り、「世界にはいまも平和を踏みつける行為がある」と怒りが湧いた。
「自分の中にある平和への思いを伝えたい」と詩作に臨んだ。「祈り続ければ、いつか世界平和という夢も実現できるんじゃないか」と未来を思い描く。
戦後79年の「慰霊の日」。戦争体験者がいなくなる時代を目前にした今、沖縄の現状は若者にどう映っているのだろうか。
「今の沖縄の現状は、無念の思いを残して犠牲になられたみ霊を慰めることになっているのでしょうか」
戦争の痛みに終わりはない。平和の礎には今年181人が追加刻銘され、沖縄戦に関連する犠牲者は計24万2225人となった。
不発弾の処理や、戦没者の遺骨収集も今なお続く。
そうした戦後処理が終わらない沖縄で今「新たな戦前」が語られるようになっている。
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第32軍は沖縄戦で「軍官民共生共死の一体化」をうたい住民を戦闘に巻き込んだ。県民の4人に1人が犠牲となった悲劇は、住民が多く避難していた本島南部への撤退という司令官の決定で引き起こされたといっても過言でない。
沖縄戦の教訓は、戦争は民間人を巻き込み、軍隊は住民を守らないということだ。
政府は有事を念頭に先島諸島の住民の九州・四国への避難計画策定を急ぐ。
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日曜日の開催となった追悼式には前年比500人増の約4500人が参列した。県内各地でも慰霊祭が執り行われ、この日沖縄は鎮魂の祈りに包まれた。
南部土砂を新基地建設に使用することは県民や戦没者を冒涜(ぼうとく)する行為に等しい。
首相ははっきりと不使用を明言すべきだ。
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沖縄慰霊の日 理不尽な苦境を改めよ(2024年6月23日『北海道新聞』-「社説」)
きょうは沖縄慰霊の日だ。
太平洋戦争末期の沖縄戦で、日米の20万人以上が亡くなった。このうち約10万人は本土防衛のための持久戦に巻き込まれて命を落とした住民である。
そのあまりに凄惨(せいさん)な事実に思いを致し、平和の誓いを再確認する日としたい。
沖縄の苦難は戦後79年たった今も続く。その多くは国内の米軍専用施設の7割が集中する異常な状況に起因する。
県民は沖縄が再び戦火に包まれないか不安を募らせている。
地域の声を踏みにじり、沖縄にばかり過度な負担を掛けるのは理不尽極まりない。政府は対応を改めなければならない。
辺野古の埋め立て工事は、県の激しい反発にもかかわらず、政府が司法判断を盾に、承認手続きを史上初めて代執行した。
政府は、投開票日の2日後に本格工事を8月1日から始めると県に通知した。知事の足元を見るような動きは許しがたい。
沖縄振興予算は3年連続で減額されている。県民の一部に諦めが広がったとすれば、移設を曲げず沖縄に冷淡な態度を取り続ける政府の横暴さが原因だろう。工事は即刻中止すべきだ。
政府が有事を念頭に整備する「特定利用空港・港湾」の選定も進む。振興策を振りかざし、防衛力強化を推し進めれば地域の分断を招きかねない。リスクも含め、情報を開示すべきだ。
来年は戦後80年である。岸田文雄首相は「沖縄に寄り添う」と繰り返しながら中身が全く伴わない。過酷な歴史を踏まえ、県と対話しなければならない。
「鉄の暴風」が語るもの(2024年6月23日『北海道新聞』-「卓上四季」)
▼<逃げ場のない幾十万の住民が、右往左往して、いたずらに砲爆弾の犠牲となり、食に飢え、人間悲劇の極致を展開した><沖縄島の、中南部は一木一草もとどめぬほど、赤ちゃけた地肌を表わしていた>
▼50年に出版された記録「沖縄戦記 鉄の暴風」。地元紙の沖縄タイムスの記者たちが生存者をたずね歩き、丹念に取材した。戦場のむごいありさまを住民の視点から克明に記録している。戦争が生む惨禍はどれほどか。第一級の史料である
▼辺野古の新基地の建設が強行され、台湾有事に備えた自衛隊の増強が進む。戦後80年を前に県民は戦火の予感におののく。<沖縄戦の記憶はどんどん遠くなり、日本の軍事化は沖縄に集中>するが、本土との心の距離は広がっている。新版のまえがきは強い危機感をあらわにする
▼二度と戦争をしない、させないための「日本人必読の書」。文庫本の帯の言葉にうなずく。
梅の実が熟するころの雨だから「梅雨」と書いて「ばいう」「つゆ」と読む。黴(かび)が生じやすい時期だから同じ読み方で「黴雨」とも書く。田畑を潤す「慈雨」は歓迎だが水害をもたらす「豪雨」は勘弁願いたい。予報によると本県など東北北部も梅雨入りが近いようだ。
「弾雨(だんう)」という言葉もある。雨は雨でも弾丸の雨のことである。きょう沖縄は、太平洋戦争末期の沖縄戦で組織的な戦闘が終結した日とされる「慰霊の日」を迎えた。いったいどれだけの弾雨が沖縄の地をたたき、そこに暮らす人々を傷つけたことだろう。
米軍の本土上陸を遅らせるための「防波堤」とされた沖縄は、激烈な地上戦により犠牲者は日米双方で20万人を超え、県民の4人に1人が命を落としたとされる。亡き人の冥福を祈り、沖縄が語り継いできた平和への願いを共有し、世界に発信する大切な日。だがその足元には不安定さもつきまとう。
沖縄県民が望む米軍基地負担の軽減が進まない一方、日米政府は台湾有事などを念頭に、南西諸島の防衛を強化する。世界に目を転じればウクライナやパレスチナ自治区ガザでは、今なお弾雨の恐怖にさらされながら生きる人々がいる。
▼巻頭にある戦没者の遺骨や集団自決、米軍の薬きょうの山塊など、写真一枚一枚にページを繰る手が止まる。「沖縄を二度と戦場にしない、二度とさせない」。沖縄の新聞人たちの覚悟が行間から伝わってくる
▼太平洋戦争末期、日本本土決戦に備える時間を稼ぐため、沖縄では過酷な地上戦が展開された。死者は日米約20万人。沖縄県民4人に1人が犠牲になった。タイトルの「鉄の暴風」は艦砲射撃や空爆のすさまじさを現し、沖縄戦を象徴する言葉になった
▼きょうは沖縄戦の戦没者を追悼する沖縄慰霊の日。糸満市の「平和の礎(いしじ)」には沖縄戦で亡くなった東北人4299人の名前も刻まれている。宮城から28人、福島から8人が新たに刻銘された。「新しい戦前」と言われるが、実は戦後は今も地続きにある
▼沖縄について考える時、「生きていることが罪のような物憂さに襲われる」と司馬は書いた。今年で戦後79年。過ちを身に染みて知る人が亡くなり、勇ましい言動が幅を利かせつつある。沖縄の痛みへの共感が薄れてないか自問する。
きょう沖縄慰霊の日 国は対話通じ痛み共有を(2024年6月23日『毎日新聞』-「社説」)
沖縄はきょう、慰霊の日を迎えた。太平洋戦争末期に戦場となった島には、今も米軍基地の負担がのしかかる。国はその現実を重く受け止めるべきだ。
米国統治を経て1972年に日本に復帰したが、なお在日米軍専用施設の7割が集中している。中国の海洋進出を念頭に、防衛力の強化も進む。この数年で与那国島や石垣島など離島に陸上自衛隊の駐屯地が相次いで開設された。
抑止力強化のためとはいえ、過重な負担を押し付けているのが実態だ。有事の際、攻撃対象になるかもしれないとの不安を抱く住民も多い。
にもかかわらず、国は県と真摯(しんし)に向き合おうとする姿勢を欠いている。
米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設を巡っては昨年12月、大きな転機があった。軟弱地盤を改良する設計変更を、国が県の代わりに承認する「代執行」に踏み切った。地方自治法に規定があるとはいえ、県の反対を封じる「強権発動」だった。
かつては沖縄の基地問題に真正面から取り組む政治家がいた。故橋本龍太郎氏、故小渕恵三氏らは地元の声に耳を傾け、信頼関係の構築に努めた。本土防衛のための「捨て石」となった沖縄への特別な思いがあったのではないか。
代執行という強権的な手段に出たことで、対立は一層深刻さを増した。こうした対応を続けていては、今後の安全保障政策にも影響が及びかねない。
先の県議選では、玉城知事を支える県政与党が大敗した。だが、争点は基地問題だけではなく、県民が国の施策やその進め方にお墨付きを与えたとは言えない。
安全保障を理由に沖縄に犠牲を強いる現状を変えなければ、国と県の溝は深まるばかりだ。上から押し付ける姿勢を改め、誠実な対話に取り組まなければならない。
沖縄慰霊の日を前に…(2024年6月23日『毎日新聞』-「余録」)
沖縄慰霊の日を前に、県内の多くの学校では平和学習が行われる。恩納(おんな)村立安富祖(あふそ)小学校では10日、高学年生が地元にある慰霊碑「第二護郷隊(ごきょうたい)之碑」などを訪ねた
▲「護郷隊」は戦時中に陸軍が編成した二つのゲリラ部隊で、10代半ばの本島中北部の少年を中心に召集された。第二隊の拠点は恩納岳に置かれ、69人が落命した。戦闘で負傷し、息絶える少年たちは「アンマー(お母さん)、アンマー」と口にしたという。野戦病院では、歩けなくなった少年兵が軍医に銃殺されたとの証言もある(川満彰著「陸軍中野学校と沖縄戦」)
▲地上戦があった沖縄でも、体験をどう語り伝えていくかが課題になっている。児童たちの説明役を務めた恩納村史編さん係の瀬戸隆博さん(56)は「二度と沖縄を戦場にしないために、身近なところから戦争の構造を学ぶ。地域での取り組みが一層、重要になります」と語る
▲動員された女子生徒らが亡くなった「ひめゆり学徒隊」の悲劇を伝える「ひめゆり平和祈念資料館」は、高校生らが友人などに「伝える側」になるためのワークショップを実施している。展示を見るだけでなく、意見交換を通じて生徒らが平和への意識を高めることを期待している
▲「どれだけの人が苦しんだか。まだ知らない人に教えていきたい」。護郷隊の碑を訪れた後に児童が記した感想である
沖縄慰霊の日 史実を歪めず追悼したい(2024年6月23日『産経新聞』-「主張」)
熾烈(しれつ)な地上戦となった沖縄戦では、日本の軍民約18万8千人が亡くなった。米軍は約1万2千人が命を落とした。
その犠牲の上に現在の平和があることを思い、全ての戦没者に哀悼の誠をささげたい。同時にこの平和を、守り抜くことを誓いたい。
秋待たで 枯れ行く島の 青草は 皇国の春に 甦(よみがえ)らなむ
牛島司令官の辞世の句だ。沖縄は戦後27年間にわたり米国の統治下に置かれ、春が訪れたのは本土復帰を果たした昭和47年である。その苦難の歴史にも思いを馳(は)せたい。
地元メディアは「日本軍を美化」「皇国史観だ」などと批判しているが、辞世の句は、沖縄の再興を祈って詠んだものだ。平成30年からホームページに掲載されているが、本土から最近沖縄に移住した記者が地元紙で取り上げるまで、とくに問題になっていなかった。
沖縄では毎年、慰霊の日が近づくと一部の左派勢力が日本軍将兵を貶(おとし)めるようなキャンペーンを展開し、それを米軍基地などへの反対運動に結びつける傾向がみられる。
しかし多くの日本軍将兵が沖縄の地で国に殉じたのは事実だ。県民も軍に協力し、懸命に戦った。
特攻兵器「桜花」の搭乗員が別れの盃を交わした地点に建つ「桜花の碑」=鹿児島県鹿屋市
79年前のこの時節、多くの特攻隊員が若い命を散らせた。<たらちねの母の教えを守りつつ敵艦と共に我は散りゆく>。この辞世を残した高野次郎海軍中尉は22歳だった。『太平洋戦争将兵万葉集』(東京堂出版)に略歴がある。
▼第八神雷桜花隊員。昭和20年5月11日、沖縄に特攻戦死―。「神雷」は特攻を専門とした部隊の一つで、「桜花」は機首に大型の爆弾を搭載し、操縦席と木製の翼を取り付けた構造だった。米軍艦船の近くまで母機で運ばれ、標的へと滑降した。
▼生還を想定したものではない。それゆえに、「人間爆弾」とも呼ばれたそうである。沖縄の海では駆逐艦1隻を沈めたものの、多くが体当たりの前に撃墜されている。関東、東北、四国、九州…。『将兵万葉集』によれば、各地の若者が沖縄へ向けて出撃していることが分かる。
▼冒頭の高野中尉は富山出身だ。「祖国」を守る。その一念を貫いた戦いだったろう。沖縄はきょう、「慰霊の日」を迎えた。3カ月に及んだ沖縄戦では、日本の将兵と県民、米側を合わせて、約20万人が亡くなった。哀悼の誠をささげる日である。
▼「戦後80年」を前に、日本を取り巻く国際情勢は緊迫している。露朝はつい先日、軍事面などで手を結び、中国は台湾や尖閣諸島への野心を隠そうともしない。沖縄はこの先も、国防の最前線であり続ける。再び戦場にしないためにも、南西諸島を含む抑止力の強化を急ぎたい。
▼海軍報道班員として神雷部隊に同行した作家の山岡荘八は、高野中尉の出撃を見送ったという。その様子を伝える遺族への手紙に次の句を添えた。<散る花の眉の清しき五月晴れ>。自身を盾に、国を守った人々がいる。その尊い犠牲の上に、いまの平和がある。
週のはじめに考える 沖縄を再び戦場にしない(2024年6月23日『東京新聞』-「社説」)
太平洋戦争末期、住民を巻き込んだ激烈な地上戦の戦場となった沖縄県。きょう「慰霊の日」を迎えました。1945(昭和20)年の6月23日、日本軍による組織的戦闘が終わった日とされます。
あれから79年。沖縄には依然、多くの米軍基地が残り、情勢緊迫を理由に自衛隊も増強されています。再び戦場になるのでは…。県民の不安は募りますが、沖縄を再び戦場にしてはなりません。
今年4~5月、沖縄戦跡の一つが報道公開されました。那覇市の「首里城」地下に旧日本軍が構築した「第32軍司令部壕(ごう)」。総延長約1キロに及ぶ5本の坑道のうち司令部中枢に近い「第2坑道」と「第3坑道」と呼ばれる区域です。
県が管理する坑道内部への立ち入りは通常、崩落の危険があるとして禁止されていますが、今回、地元メディアが記録のため内部に入りました。報道公開は2020年の「第5坑道」以来です。
坑道は地下13メートルにあり、高さ1・2~2・8メートル、幅1・3~2・8メートル。所々に落石や水たまりがあり一部は崩落していました。
◆住民巻き込まれ犠牲に
しかし、南部撤退は住民保護を度外視した展望のない消耗戦でした。すでに南部に避難していた住民を戦闘に巻き込み、多大な犠牲を強いることにもなりました。
南部に逃れた住民の多くが「鉄の暴風」とも呼ばれる米軍の猛攻撃で犠牲になったのも、将兵と混在していたため、攻撃対象とされたからでした。壕に避難していた住民が日本軍の兵士に壕から追い出されたり、自決を強いられたという証言も多く残ります。
◆「基地のない島」は遠く
沖縄は戦後、日本本土と切り離され、米軍による住民の人権軽視の苛烈な統治が続きました。
沖縄の施政権が日本側に返還された1972(昭和47)年5月15日の本土復帰は、沖縄の人々にとって、戦争放棄と戦力不保持、基本的人権の尊重などを定めた日本国憲法への復帰であり、願い続けた「基地のない平和な島」が実現する機会でもありました。
しかし、米軍基地はそのまま残り、基地に起因する騒音や環境被害、米兵らによる事件・事故など深刻な被害は変わりません。
さらに近年、台湾や沖縄県・尖閣諸島を巡る緊張を背景に「有事への備え」として米軍に加えて自衛隊も増強されています。米軍や自衛隊の基地が攻撃対象となり、再び戦場になるのでは、との懸念が県民の間で高まっています。
もちろん、沖縄を戦場にして県民に犠牲を強いるようなことは、二度とあってはなりません。そのためには軍事力ではなく、あらゆる外交力を駆使して紛争を抑止する。そのことを、すべての日本国民がいま一度確認しなければならない、沖縄慰霊の日です。
沖縄慰霊の日 なおも犠牲を強いるな(2024年6月23日『信濃毎日新聞』-「社説」)
3月下旬からの沖縄戦は、日本軍司令部が沖縄本島南部へ撤退した5月末以降、とりわけ凄惨(せいさん)を極めた。逃げ惑う住民がひしめき、軍と混在した南部の各地で、米軍の激しい砲爆撃に加え、日本兵による残虐行為が相次いだ。
あす23日は、慰霊の日。日本軍の司令官が自ら命を絶ち、組織的な戦闘が終結した日である。
日本軍は、住民に軍と生死を共にすることを強い、敗勢が明らかになっても戦闘を続けた。住民を守るためだったのではない。本土での決戦を遅らせ、国家体制を守るための時間稼ぎとして、沖縄は「捨て石」にされた。
慰霊の日は、犠牲者を悼む日であるだけでなく、本土の私たちが、沖縄に強いた犠牲に向き合う日だ。それは、今も沖縄に重荷を負わせ続けるこの国のあり方を問い直すことにほかならない。
戦後の沖縄は、米軍の統治下、軍用地として土地の接収が力ずくで進められた。日本への復帰から半世紀余を経て「基地の島」の現実は変わらないばかりか、軍事要塞(ようさい)化が一段と顕著だ。
政府は、名護市辺野古への新たな米軍基地の建設
を、抗議する人たちを実力で排除して強行してきた。埋め立て地に軟弱地盤が見つかったことをめぐっては、設計変更を承認しない県に対して、代執行による強権を行使した。
南西諸島では2016年以降、陸自の駐屯地が与那国島、宮古島、石垣島に相次いで開設された。台湾有事の恐れが声高に言われ、ミサイル部隊の配備による戦力の増強が進む。それもまた、島に住む人々を守るためではない。
うちなーんちゅ、うしぇーてーないびらんどー(沖縄人をないがしろにしてはいけませんよ)―。辺野古への基地建設に知事として最期まで抵抗した故翁長雄志氏の言葉を思い出す。それは、本土の私たち一人一人に向けられている。無関心でいることは、加担することでしかない。
〈びじゅつかんへお出かけ…うれしいな こわくてかなしい絵だった…せんそうがこわいから へいわをつかみたい ずっとポケットにいれてもっておく〉
▼美術館は、丸木位里・俊夫妻が描いた「沖縄戦の図」の展示のために1994年に開館した。核兵器の非人道性を描いた「原爆の図」で知られる夫妻が晩年に取り組んだ14作品だ。太平洋戦争末期に凄惨(せいさん)な地上戦が行われた現地で、実際の体験者をモデルに描いた
▼艦砲射撃や集団自決で犠牲となった多くの人々。筆者もかつて訪れ、迫真の地獄絵に息をのんだ。作品の背景などを交えて今月発刊された「ドキュメント『沖縄戦の図』」(河邑厚徳著、岩波書店)の前書きには「絵を見ることで今そこであなたも沖縄戦の目撃者となる」とある
▼爆撃で壊滅した街を逃げ惑う親子。「描かれた情景は戦闘状態が続く今のガザ地区に重なる」と佐喜眞道夫館長は指摘する
沖縄慰霊の日 戦争の痛み、分かち合おう(2024年6月23日『中国新聞』-「社説」)
多くの住民が犠牲となり、米軍の戦史に「ありったけの地獄を一つに集めた」と刻まれた戦いである。広島、長崎の原爆被害などと並ぶ惨事だが、国民に広く知られているとは言えない。
世界が戦禍に揺れ、日本にもその足音が聞こえる今だからこそ、私たちは79年前の沖縄をよく知る必要がある。むごたらしい戦争の犠牲者に思いをはせ、改めて不戦を誓い合うきっかけにしたい。
連日悲惨なニュースが届くパレスチナ自治区ガザの死者数は、戦闘開始8カ月で3万7千人を超えたという。単純比較はできないが、沖縄戦では3カ月で日米双方の20万人以上が命を奪われた。犠牲の大きさをまず胸に刻みたい。
そのうち約10万人は住民だったことが悲劇を色濃くした。当時の沖縄県民の4分の1とも言われる。10代半ばで動員され、戦地を逃げ惑った少年少女も少なくない。
沖縄国際大の石原昌家名誉教授が聞き取った証言集は、残酷で不条理な戦争の実情を伝えている。
自決しようと3人で互いに首を絞め合い、娘だけが亡くなった親子。目の前で話をしていた相手が、砲撃で瞬時に吹き飛んだこと。戦死者の隣に横たわり、死臭をまといつつ2カ月を過ごした少年兵。生き残った人々の心身にも大きな傷を残した事実は重い。
残念ながら、今の日本で沖縄戦への関心や理解は十分とは言い難い。NHK放送文化研究所が2022年に実施した全国調査で、沖縄慰霊の日が6月23日と知っていた人は27・4%と3割に満たなかった。沖縄県民は9割以上が知っていたのとは対照的だ。
沖縄には「肝苦(ちむぐり)さ」という方言がある。他人のつらさ、苦しみをわがことと感じることだ。沖縄の苦難を共有し、不戦と平和への誓いを世界にも発信する。それが戦後80年に向けた日本の役割である。
きょう沖縄慰霊の日 非戦の決意 広く伝えよ(2024年6月23日『山陰中央新報』-「論説」)
令和の今に生きる私たちが新聞やテレビで戦争のニュースを見ない日はない。ウクライナとパレスチナ自治区ガザで戦火が広がる。かつての沖縄もそうだった。きょう6月23日は太平洋戦争末期に旧日本軍と米軍の沖縄戦が終結した「慰霊の日」。全戦没者追悼式が開かれる。
3カ月間の激しい戦闘で日米双方から20万人を超える犠牲者を出し、沖縄県民の4人に1人が亡くなった地上戦から79年。語り継いできた非戦の決意を今こそ世界に伝える時だ。「基地のない平和な島」を目指すことは現在の沖縄に、そして日本に暮らす私たちに課された使命だろう。
日米両政府は軍事行動を活発化させる中国をにらみ、台湾や尖閣諸島での有事に備えて南西諸島の防衛を強化する。自衛隊駐屯地を相次いで開設し、米軍と施設の共同使用を進める。共同演習も常態化した。負担軽減どころか、再び戦闘に巻き込まれる懸念が募る。
気がかりなのは政府と沖縄県が対立し、意思疎通に支障が出ていること。墜落事故を起こした米軍輸送機オスプレイは原因が十分に示されないまま飛行が再開された。陸上自衛隊の訓練場新設の用地取得計画が地元に説明なく進み、沖縄県議会が反発、防衛省は断念に追い込まれた。いずれも地元に根深い不信感を残した。対話を重ねる責任は政府の側に多くあるはずだ。
最大の焦点は、周囲に住宅や学校が密集する米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古移設工事だろう。政府は「唯一の解決策」という立場を譲らず、軟弱地盤改良の設計変更を承認しない県の意向を無視する形で代執行に踏み切った。
難工事に伴い、普天間返還は2030年代半ば以降にずれ込む。強権的な手法は無用だ。丁寧な対応を政府に求める。
いつの間にか戦渦に巻き込まれた住民の驚きや恐怖、悲しみがつづられる。避難したガマ(自然洞窟)での集団自決や学童疎開、米軍設置の収容所の記憶がよみがえる。現在政府が急ぐ住民避難シェルターの整備や、先島諸島の住民ら約12万人の九州各県、山口県への避難計画と二重写しとなる。新しい戦前、軍事要塞(ようさい)化といった不穏なフレーズが身近に響く。
年配者の聞き取り調査は時間との闘いだ。記憶の風化が心配される中、地元の高校生らを中心に証言を集めたケースが「継承の決意を表す取り組み」と紹介されている。
編集者はあとがきに言う。地域史を編んだからといって世界で起きている戦争を直ちに止めることにはなり得ない、と。だがその上で「平和社会を築くための種を撒き、育み、その先にある『命(ぬち)どぅ宝』(命こそが宝だ)という普遍的な思想を共有するまで、やはり地道に沖縄戦体験を継承していくのです」。国際社会に届いてほしい。
沖縄と野中氏(2024年6月23日『高知新聞』-「小社会」)
沖縄を「特別な地」と公言した。1962年。京都府の慰霊碑を建てるために沖縄戦の激戦地、嘉数(かかず)の高台へ向かった。するとタクシーの運転手が「あそこで、私の妹は殺されたんです」。声をあげて泣いた光景を終生、語り続けた。
回顧録「老兵は死なず」には別の逸話もある。96年の橋本龍太郎内閣。野中氏らが考えた組閣名簿には、防衛庁長官に中川秀直氏とあった。橋本首相は〈この人はカッコいいけれども…心の温(ぬく)もりが伝わる人がいいんだよなあ〉と別の人物に。前年、沖縄では米兵による少女暴行事件があった。
その橋本内閣が米軍普天間飛行場の返還合意を取り付けた後、辺野古移設を巡る混迷は続く。彼らは沖縄に寄り添う姿勢がありながら、結局は負担を押し付けたともされる。だが、正面から対話する真摯(しんし)さがあったのは間違いあるまい。
野中氏は引退理由の一つを、戦争の否定から出る発言が党内で「一顧だにされないという空気」と書いた。それからなお20年余りがたつ。きょうは沖縄慰霊の日。
慰霊の日 「沖縄の声」に耳を傾けよ(2024年6月23日『西日本新聞』-「社説」)
沖縄では凄惨(せいさん)な地上戦が展開され、子どもを含む多数の住民が巻き込まれた。当時の県民の4人に1人が亡くなったといわれる。多数の戦災孤児も生んだ。
沖縄を二度と戦場にしてはならない。歴史を胸に、誓いを新たにする日にしたい。
いま沖縄を含む南西諸島ではさまざまな防衛施設が整備されている。海洋進出を活発化させる中国を背景に、政府は台湾有事への備えを急ぐ。
自衛隊の駐屯地を相次いで開設し、ミサイル部隊を配備した。米軍とは施設の共同使用や、沖縄周辺での共同演習が常態化している。
防衛力強化は住民に身近な所にも及ぶ。政府は特定利用空港・港湾として、九州・沖縄を中心とした7道県の16カ所を選んだ。日頃から、戦闘機や艦船が訓練などで円滑に使えるようにするためだ。
住民にもたらされるのは安心ばかりではない。不安や懸念も広がる。
軍事拠点化が進展すれば、戦闘に巻き込まれる危険性が高くなることを沖縄の人たちは体験で知っている。ひとたび有事になれば、軍事施設が真っ先に攻撃対象になる。
不測の事態に備えることは大事だが、政府は防衛力強化一辺倒になってはならない。不測の事態を起こさない外交が必要だ。中国との対話はもちろん、対立する米国と中国の間を取り持つ役割を発揮しなければならない。
国土面積の約0・6%しかない沖縄県に、在日米軍専用施設の約7割が集中する。米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設を巡り、政府は玉城(たまき)デニー知事が拒んだ軟弱地盤改良工事の設計変更承認を代執行し、1月に着手した。
岸田文雄首相は「丁寧な説明を続けていきたい」と言っているものの、現実は力で負担を押しつけている。
79年前、旧日本軍は本土決戦に向け、沖縄を「捨て石」にした。戦後も沖縄の民意に寄り添わない政府への不信は根強い。
沖縄の声に耳を傾けることを怠ってはならない。本土に住む私たちも心がけたい。
沖縄「慰霊の日」(2024年6月23日『長崎新聞』-「水や空」)
〈多くの部下を失って、なお小官の生存していることは、何のお詫(わ)びの申し上げ様もありません〉〈沖縄の土砂(つちすな)、僅少、同封仕(つかまつ)りましたので、御受納下さらば〉。戦後、沖縄戦で生き残った指揮官は戦死した部下の遺族約600人に「詫び状」を書き続けた
▲指揮官の下には遺族から356通もの書簡が返信されてきた。〈三人の子供と共に、強くつよく生きて行かねばならぬと〉〈耐えに耐えし涙は、拭ってもぬぐっても頬を濡らすのでございました〉
▲太平洋戦争末期に住民を巻き込んだ苛烈な地上戦で、日米双方20万人超の犠牲を出した沖縄戦。今年2月出版の「ずっと、ずっと帰りを待っていました」(新潮社)には、指揮官の詫び状を受け取った遺族の慟哭(どうこく)が克明に描かれ、胸を打つ
▲指揮官は生前、国家が始めた戦争ゆえに部隊は全力で戦うしかなかったと悔やみつつ、自衛隊員らへの講義で〈知勇を以て専守に徹す〉との言葉を残していた
▲戦後79年。沖縄はきょう「慰霊の日」を迎えた。長崎県出身の犠牲者1601人の名前も、糸満市の平和祈念公園内の「平和の礎(いしじ)」に刻まれている。(堂)
沖縄戦79年「慰霊の日」 「戦争準備」拒み平和築け(2024年6月23日『琉球新報』-「社説」)
沖縄戦79年「慰霊の日」 「戦争準備」拒み平和築け(2024年6月23日『琉球新報』-「社説」)
戦世(いくさゆ)の足音に危機感を抱きながら私たちは戦争犠牲者を悼み、平和を求める日を迎えた。きょうは沖縄戦から79年の「慰霊の日」である。
年を追うごとに戦争体験者は減っている。しかし、沖縄戦体験を継承する意義が薄れることはない。
むしろ「新しい戦前」と呼ばれる状況に抗(あらが)うため、戦争自体と、そこに至った経緯を検証する作業が強く求められている。沖縄戦の実相と向き合い、体験を語り継ぐことで平和を創造する県民の歩みを続けよう。
日本は「戦争ができる国」づくりから「戦争準備」へ大きく踏み出したのではないか、私たちは危惧する。
集団的自衛権の行使を可能とする憲法の解釈変更、敵基地攻撃を可能とする安全保障3文書の閣議決定によって日本の防衛政策は大転換した。それに続く「特定利用空港・港湾」指定、米軍基地や自衛隊基地周辺を対象とした土地利用規制法、地方に対する国の指示権を拡大する改正地方自治法なども警戒すべき動きだ。
1941年に中城湾、西表・船浮で臨時要塞(ようさい)が築かれる。44年3月の32軍創設以後、飛行場整備や陣地構築が急速に進み、沖縄が本土防衛の防波堤に位置付けられた。今日の軍備増強も沖縄を中国の脅威に対する防波堤として想定しているのではないか。
防衛省・自衛隊の動きも気になる。沖縄の陸自第15旅団は公式ホームページに牛島満32軍司令官の「辞世の句」を載せ、問題視されている。今年1月には陸上自衛隊幹部ら数十人が靖国神社を集団参拝した。日本軍との連続性を疑わざるを得ず、平和憲法の精神にそぐわない。
教育の分野では皇国史観に偏重した令和書籍の中学校歴史教科書が検定に合格した。沖縄戦に関して旧制中学校・師範学校生の戦場動員を「志願というかたち」、特攻隊員の戦死を「散華」と記述している。子どもたちに軍国主義を植え付けた戦前の国定教科書をほうふつとさせる。
私たちに求められているのは「戦う覚悟」を拒み平和を築く意思と行動だ。
新たな戦争犠牲者を出す事態を回避できるか。私たちは時代の分岐点に差し掛かっていることを戦後79年の「慰霊の日」に確認したい。
平和願う心を養う日に(2024年6月23日『琉球新報』-「金口木舌」)
▼糸満市喜屋武の高台で、参加者は青く輝く海を眺め、伊佐さんの話を聞いた。「黒い軍艦が海を埋めていた」。涙を流しながら海を凝視し、声を絞り出す姿が忘れられない
▼伊佐さんの体験は「北中城村史」に収められている。県内では多くの市町村が住民の戦争体験を聞き取り、市町村史誌の戦争編にまとめてきた。体験者が減り続ける中で証言は重みを増している
▼このほど出版された「続・沖縄戦を知る事典」は市町村史誌を元に、地域ごとの沖縄戦を一冊にまとめた。若い世代への体験継承に役立つことを願い、非体験世代の28人が執筆した
▼沖縄戦から79年の慰霊の日を迎えた。癒えぬ悲しみに耐えてきた体験者の声を心に刻み、市町村史誌に体験者が残してくれた数々の証言と向き合う。過去に学び平和を築く決意を新たにしたい。
きょう慰霊の日 平和創造の次の一歩を(2024年6月23日『沖縄タイムス』-「社説」)
県内各地に慰霊塔や慰霊碑があり、地域や団体による慰霊祭が、6月23日の「慰霊の日」前後に執り行われる。
この日に合わせて、企画展や芝居の上演、講演会、講座など平和を考える催しもめじろ押しだ。
広島・長崎の被爆体験や東京・大阪などの空襲体験と、住民を巻き込んだ沖縄の地上戦体験は、多くの民間人が犠牲になったという点では共通するが、その質は異なる。
米国の2人のジャーナリストの証言を紹介したい。
80年前の1944年6月、サイパン戦を取材した米誌タイムのシャーロッド記者は従軍日誌に書き記した。
「サイパン島戦こそ、あらゆる戦争中でもっとも残忍なものであった」
「沖縄戦は、戦争の醜さの極致だ」
2人の文章が同じような表現になっているのは、サイパンでも沖縄でも、目を覆いたくなるような惨劇が起き、多くの民間人が犠牲になったからだ。
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多くの民間人が犠牲になっただけではない。
沖縄戦のもう一つの特徴は、子どもや親きょうだい友人を死なせ自分が生き残ったことに罪責感を抱き、心身の不調を来す人が多かったことである。
心の傷、心的外傷のことをトラウマという。住民を巻き込んだ激烈な地上戦は、生き残った人々の中に深い心の傷を残した。
学童疎開船「対馬丸」の引率教員だった新崎美津子さんは「多くの教え子を死なせ、自分は生き残った」と自責の念にとらわれ、生前、「私は生きるべき人間ではなかった」と語っていたという(上野かずこ著「蕾のままに散りゆけり」)。
蟻塚亮二医師らの研究によると、生活の場が戦場になり、戦後、基地と隣り合わせの生活をしている人が、米軍の事件事故などに接すると、戦争のつらい記憶が呼び覚まされ、ストレス症状が表れたりするという。
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慰霊の日は県条例によって「平和を希求し、戦没者の霊を慰める」日だと定められている。
戦争で生き残り、米軍統治下の沖縄で新たな苦難に直面し、それでも希望を失わず、語り部として平和の尊さを若い世代に伝え続け人生を全うした人々に対しても、慰霊の日に感謝の気持ちをささげたい。
平和創造の次の一歩を踏み出す誓いを込めて。