祈り深く きょう慰霊の日 沖縄戦から79年(2024年6月23日『琉球新報』)

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祈り深く きょう慰霊の日 沖縄戦から79年「平和の礎」を訪れ、花を手向けたり、刻まれた家族の名前に触れる遺族ら=22日午後、糸満市摩文仁平和祈念公園(小川昌宏撮影)
 
 沖縄は23日、沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされる「慰霊の日」を迎えた。多くの一般住民を巻き込み、悲惨な地上戦などが展開された沖縄戦から79年。激戦地となった沖縄本島南部の糸満市摩文仁にある「平和の礎(いしじ)」をはじめ、沖縄県内各地の慰霊塔や戦跡にはこの日、多くの人々が訪れ、世界の恒久平和への誓いを新たにする。
 玉城デニー沖縄県知事は「平和な社会を築き上げることが、私たちの使命であり、大きな責務」とのメッセージを発表し、慰霊の日正午の黙とうを呼びかけた。
 戦争で亡くなった多くの犠牲者を悼み、世界の恒久平和を願う沖縄全戦没者追悼式(沖縄県沖縄県議会主催)が23日午前11時50分から、糸満市摩文仁平和祈念公園で開かれる。追悼式では、正午に黙とうをささげ、玉城知事が平和宣言を読み上げる。岸田文雄首相や額賀福志郎衆院議長、尾辻秀久参院議長も出席する。
 沖縄戦などで命を落とした人々の名前を記す平和の礎には今年、県出身の24人を含む181人の名前が追加で刻銘された。刻銘総数は24万2225人となった。
 


 

沖縄戦79年「慰霊の日」 「戦争準備」拒み平和築け(2024年6月23日『琉球新報』-「社説」)
 
 戦世(いくさゆ)の足音に危機感を抱きながら私たちは戦争犠牲者を悼み、平和を求める日を迎えた。きょうは沖縄戦から79年の「慰霊の日」である。
 年を追うごとに戦争体験者は減っている。しかし、沖縄戦体験を継承する意義が薄れることはない。
 むしろ「新しい戦前」と呼ばれる状況に抗(あらが)うため、戦争自体と、そこに至った経緯を検証する作業が強く求められている。沖縄戦の実相と向き合い、体験を語り継ぐことで平和を創造する県民の歩みを続けよう。
 日本は「戦争ができる国」づくりから「戦争準備」へ大きく踏み出したのではないか、私たちは危惧する。
 集団的自衛権の行使を可能とする憲法の解釈変更、敵基地攻撃を可能とする安全保障3文書の閣議決定によって日本の防衛政策は大転換した。それに続く「特定利用空港・港湾」指定、米軍基地や自衛隊基地周辺を対象とした土地利用規制法、地方に対する国の指示権を拡大する改正地方自治法なども警戒すべき動きだ。
 これらは国家総動員法や軍機保護法などと重なる。言論の自由を制限し、人的・物的資源を国に集中する法制度が戦時体制を支えたのである。
 沖縄の島々では自衛隊増強と米軍基地の機能強化が進んでいる。ミサイル攻撃を想定した住民参加の避難訓練も実施された。この動きも戦前期の沖縄と重なる。
 1941年に中城湾、西表・船浮で臨時要塞(ようさい)が築かれる。44年3月の32軍創設以後、飛行場整備や陣地構築が急速に進み、沖縄が本土防衛の防波堤に位置付けられた。今日の軍備増強も沖縄を中国の脅威に対する防波堤として想定しているのではないか。
 防衛省自衛隊の動きも気になる。沖縄の陸自第15旅団は公式ホームページに牛島満32軍司令官の「辞世の句」を載せ、問題視されている。今年1月には陸上自衛隊幹部ら数十人が靖国神社を集団参拝した。日本軍との連続性を疑わざるを得ず、平和憲法の精神にそぐわない。
 教育の分野では皇国史観に偏重した令和書籍の中学校歴史教科書が検定に合格した。沖縄戦に関して旧制中学校・師範学校生の戦場動員を「志願というかたち」、特攻隊員の戦死を「散華」と記述している。子どもたちに軍国主義を植え付けた戦前の国定教科書をほうふつとさせる。
 政治家の発言に驚かされる。中国を念頭に抑止力向上を主張した昨年8月の麻生太郎元首相の「戦う覚悟」発言は波紋を広げた。県内でも糸数健一与那国町長が今年5月の講演で「一戦を交える覚悟」を説いた。
 私たちに求められているのは「戦う覚悟」を拒み平和を築く意思と行動だ。
 新たな戦争犠牲者を出す事態を回避できるか。私たちは時代の分岐点に差し掛かっていることを戦後79年の「慰霊の日」に確認したい。
 

平和願う心を養う日に(2024年6月23日『琉球新報』-「金口木舌」)
 
 沖縄戦は、年を経ても癒えぬ悲しみを体験者の心に刻んだ。二十数年前、初めて体験者から話を聞いた。北中城村から家族8人で南部へ逃げ、妹と生き延びた伊佐順子さんの足取りをたどる平和学習の取材だった
糸満市喜屋武の高台で、参加者は青く輝く海を眺め、伊佐さんの話を聞いた。「黒い軍艦が海を埋めていた」。涙を流しながら海を凝視し、声を絞り出す姿が忘れられない
▼伊佐さんの体験は「北中城村史」に収められている。県内では多くの市町村が住民の戦争体験を聞き取り、市町村史誌の戦争編にまとめてきた。体験者が減り続ける中で証言は重みを増している
▼このほど出版された「続・沖縄戦を知る事典」は市町村史誌を元に、地域ごとの沖縄戦を一冊にまとめた。若い世代への体験継承に役立つことを願い、非体験世代の28人が執筆した
沖縄戦から79年の慰霊の日を迎えた。癒えぬ悲しみに耐えてきた体験者の声を心に刻み、市町村史誌に体験者が残してくれた数々の証言と向き合う。過去に学び平和を築く決意を新たにしたい。

忘れる勿れ(2024年6月22日『琉球新報』-「金口木舌」)
 
 「筆舌に尽くしがたい」との言い回しがあるように、人は想像を絶する経験をしたとき、説明の言葉を失う。沖縄戦の体験者も、誰もが多くを語ってきたわけではない
▼県の八重山戦争マラリア死没者慰藉(いしゃ)事業の一環で編さんされた「悲しみをのり越えて」は多くの体験記を収録する。詳細に記す人がいる一方、波照間島の男性は「筆舌には尽くせない」のタイトルで、たった5行を残した
▼波照間の島民は日本軍の命令によってマラリアが蔓延(まんえん)する西表島に移住させられる。男性の体験記は、移住のため荷物をまとめたところで終わる。その後、島民の3人に1人が亡くなる
西表島南風見田の浜に「忘勿石(わすれないし) ハテルマ シキナ」と刻まれた石がある。波照間国民学校の識名信升校長が子どもと学んだ場所であり、亡くなった子どもを弔った場所に痛恨の10文字を残した
▼今年3月、波照間島から西表島を望む丘に新たな慰霊碑ができた。戦後79年の時を経て、忘勿石の文字は薄れている。言葉は少なくとも「忘れる勿(なか)れ」の願いは島民の心に刻まれている。