沖縄は23日、20万人を超える人が亡くなった沖縄戦から79年の「慰霊の日」を迎え、戦没者を追悼し、平和への願いを新たにする一日となります。
糸満市の「平和の礎」や「魂魄の塔」では、朝早くから遺族などが訪れ、静かに手を合わせて平和への祈りをささげています。
「平和の礎」には24万2225人の名前
「平和の礎」朝早くから遺族などが訪問
「平和の礎」の前では、23日朝早くから遺族などが訪れ、静かに手を合わせて平和への祈りをささげていました。
那覇市の男性「まず、第一に平和を願いたい」
父親と兄弟3人、それに祖母、合わせて5人を失った那覇市の84歳の男性は「兄弟3人は艦砲射撃で、私の目の前で亡くなりました。その瞬間は記憶に鮮明に残っています。毎年、慰霊の日は当時のことを思い出してしまい、つらい。まず、第一に平和を願いたいと思います」と話していました。
豊見城市の男性「平和の世の中になってほしい」
那覇市の女性「戦争いつなくなるんだろう」
19歳の女性「たくさんの人が亡くなられた。胸が痛くなる」
ひいおじいさんの名前が平和の礎に刻まれている那覇市の19歳の女性は、「亡くなった詳しい状況はわかりませんが、この時期が近づいてきたら、ひいおじいさんをはじめ、こんなにたくさんの人が昔、亡くなられたと思い、胸が痛くなります。ここに来て、自分たちのご先祖様に『ことしも来たよ』とあいさつして、しっかりしようという気持ちになります」と話していました。
那覇市の具志光雄さん「平和を維持してくださいという思い」
那覇市の比嘉芳美さん「亡くなった悲しさ ずっと心の中で」
母方の祖父など3人を戦争で亡くしたいう那覇市の比嘉芳美さん(65)は、日の出に合わせて平和の礎を訪れ、「母方の祖父は戦場で亡くなり、遺骨が戻ってこないままで、祖母は『どこで亡くなったのか、遺骨が戻って来ないか』と亡くなるまで気にしていた。戦争というのは、本人、家族の人生を変えるもので、亡くなった悲しさを家族はずっと心の中で引きずりながら生きていかなければならない。慰霊の日に、こうして皆が世界の平和を思い続けることは大事だと思う」と話していました。
糸満市の大城英子さん「遺骨山積み 今でも忘れられない」
移民として旧南洋群島に渡った父と母のもとに生まれ、戦後、沖縄に戻ったという糸満市の大城英子さん(84)は、当時の様子について、「艦砲の穴があちこちにあって、池みたいに水がたまっていました。屋敷のそばのあちこちに遺骨が山積みになっていてそれが今でも忘れられません」と話していました。
大城さんは家族3人を戦争で亡くしたといい「姉は船が魚雷にやられて海の底で、妹は、栄養失調で台湾で亡くなりました。父は、戦後5年がたって戦死の通知がきました。母は頼れる人がみんないなくてきょうだい3人を育てるのに大変だったと思います」と話していました。
一緒に祈りにきた孫の董子さん(12)は、「戦争はニ度とやってはいけないことだし、平和がずっと続いたらいいなと思います」と話していました。
那覇市の81歳の男性「戦争なければ元気だっただろう」
母と祖母を亡くしたという那覇市の81歳の男性は、「ことしも来ましたよという気持ちで祈りました。戦争がなければ、自分たちの親兄弟もまだまだ元気だっただろう。戦争は本当に残念だ」と話していました。
70歳の男性「毎年 平和の願いをここで」
70歳の男性は「祖父と祖父の弟の家族全員が、避難中に亡くなりました。二度とこういうことがないように、毎年平和の願いをここで誓いを立てようと来ています。いまだんだん世界がおかしくなっているので、平和がずっと続くように、安らかに眠ってくださいと祈りました」と話していました。
宮古島市の男性「慰霊の気持ちでお参りに」
宮古島の飛行場でアメリカ軍の攻撃を受けて叔父が亡くなり、また南方で船に乗っていた別の叔父を失ったという宮古島市の73歳の男性は、「沖縄でこんなに犠牲があり、慰霊の気持ちでお参りに来ました。息子や孫にもこういうことがあったと現地に来るだけでも、思いが通じると思います」と話していました。
一緒に訪れた那覇市に住む次男は「先祖がいて、自分たちがいる。おじいちゃんや、おじいちゃんのきょうだいの時代にあった戦争を二度と起こさないようにして、平和な沖縄が自分たちの子どもの代まで続くようにしたいです」と話していました。
孫の小学3年生の女の子は「きょうは戦争が終わった日で戦争は怖かったと感じる。戦争をなくしたい」と話していました。
志喜屋秀壮さん「戦争ない時代 当たり前でない」
豊見城市の男性「戦争をやったら大変」
バスガイドの秋重優里さん「知ったことを生徒に伝えられるよう」
夜明け前に平和の礎を訪れた那覇市のバスガイドの秋重優里さん(19)は「79年の月日がたったので、平和の祈りを込めて79羽の鶴も折ってきました。ガイドをするようになって、戦争のことを知ることができるようになりました。知ったことを生徒に伝えられるよう、生徒たちが少しでも理解が深まるようにしたいです」と話していました。
知念由依さん「沖縄から平和を広めていきたい」
祖母と両親、きょうだい2人と一緒に平和の礎を訪れた小学5年生の知念由依さん(11)は、祖母の親族2人の名前が刻まれた刻銘板を前に「先人の声を聞いて、沖縄戦を学んで二度と戦争をしないように沖縄から平和を広めていきたいです」と話していました。
妹で小学1年生の知念芽生さん(6)は、「怖かったね。命を大切にするよ」とつぶやきながら手を合わせていました。
「魂魄の塔」でも平和の祈り
92歳の男性「兄たちの犠牲の上に今の生活ある」
86歳の女性「とにかく平和が続きますように」
83歳の女性「とても優しい兄だった」
83歳の女性は「兄は19歳のときに亡くなりました。写真も残っていません。私を『大きくなれ』とだっこして、それが最後だったとても優しい兄だった。戦争がなく、幸せに生きていくのが一番です」と話していました。
伊是名薫さん「孫には健康でさえいてくれればいい」
大屋初子さん「自分たちの世代で終わりにしないと」
糸満市米須出身の大屋初子さん(88)は魂魄の塔の前で孫やひ孫などと一緒に花を売っていました。
沖縄戦当時、9歳だった大屋さんは砲弾が飛び交う中、家族や親戚11人と一緒に逃げ回ったといいます。
大屋さんは「壕(ごう)を点々としました。でこぼこな砂利道を小学3年生の自分がどんなふうに逃げたのか、今考えても考えられません」と当時を振り返りました。
そして、「生き延びて今は何にも不自由しない世の中になっていることを思うとあの戦争で亡くなった人たちが本当に気の毒でかわいそうです。一般人も犠牲になる戦争は、自分たちの世代で終わりにしないといけない」と話していました。
一緒に花を売っていた15歳のひ孫は「今は食べ物を毎日食べられるけどそれが当たり前ではない、ということを聞いてきました。今が幸せだと感じます。将来、子どもができたら、ひいおばあちゃんから聞いていることを伝えて忘れないようにしていきたいです」と話していました。
報道写真家 石川文洋さん「平和のこと考えてほしい」
ベトナム戦争などの取材で知られる那覇市出身の報道写真家、石川文洋さんが魂魄の塔を訪れ沖縄戦で防衛隊に招集され、本島南部で亡くなった祖父を悼み、手を合わせました。
石川さんは「自分は4歳の時に本土に行ったのでうろ覚えですが、おじいちゃんの冥福を祈りました。沖縄は地上戦を経験していて実際に砲弾や銃弾の音を聞いています。そういう、沖縄にあった平和でない生活がパレスチナやウクライナに今あり、戦争では一般の人、特に子どもが犠牲になります。小学生や中学生は慰霊の日に平和のことを考えてほしい。過去に亡くなった人を追悼することもあるけど、将来を担う人に沖縄戦がどういうものだったか伝えることも慰霊の日の目的だと思います」と話していました。